第1話 代り映えのしない日常

 窓から射す西日にまぶしさを覚えながら、数多の数字が並んだ紙を眺める。目の前の机には今まで目を通してきた同様の紙が大量に積まれていた。僕は手元のスマホにその数字たちを入力し、足したり引いたり掛けたり割ったりしていく。目まぐるしく変わっていく数字が、最終的に用紙の右下の数字と一致したことを確認したところで僕は顔を上げて口を開いた。

「……たぶん、これで問題ないと思います」

「ほんと⁉」

 声を掛けた先には喜びの声を上げる長髪の女子生徒がいた。胸元のリボンは赤色で、彼女が三年生であることを示している。

「会計だった子が蒸発しちゃった時はどうしようかと思ったけど、鉄くんのおかげで助かったわ~~」

 うーん、と背伸びをして体をほぐしながらそう愚痴る彼女は、僕の通う京駒高校の生徒会長だった。確か名前は蓮沼先輩だったか。会計が生徒会の仕事を放り出してしまって、各部活の予算編成やその消化具合などの会計管理がめちゃくちゃになってしまったらしい。

「君の噂を聞いた時は半信半疑だったけど、ほんと助かったよ」

「噂?」

「あれ、知らない? 入学早々同級生はおろか先輩や先生が困ってたら颯爽と現れて助けてくれる男子生徒の話、上級生の間でも話題になってるよ」

 ……そんな風に噂になっているのか。正直、そんな大層なことはしていないので変に名前が大きくなるのは勘弁してほしい。過大な期待は身を滅ぼすんだ。いや、じゃあ最初から人助けなんかするなと言われればそれまでなんだけれど、こっちにも理由がある。

 蓮沼先輩は僕の方を面白そうに眺めながら、言葉を続ける。

「ましてや、その男の子があの天才少女とねんごろな関係だっていうならなおさらだよ」

「……僕とあいつはそんなんじゃないですよ。ただの幼馴染です」

 僕は所詮噂される程度だが、彼女はそれどころじゃなく学校中に知れ渡っている。そんな女の子と親密な関係っていうなら確かに噂を立てられるのもわかるか。……というかそっちがメインなんじゃないだろうか。

「ふーん、そうなんだ。……じゃあ、わたしが狙ってもいいのかな?」

 ニヤッとからかい交じりに放たれたそのセリフは冗談半分本気半分といった具合で、彼女の容姿を考えればその言葉を受け取った男子生徒は普通ならドキッとするのだろう。

「……僕はそろそろ帰りますね」

 でも僕は特にうろたえることもなく、荷物を整理し始めた。

「あらら、ずいぶんな塩対応だこと。これでも結構男子生徒に人気ある方なんだけどな」

「先輩ならきっとほとんどの男子生徒は速攻で落とせますよ。僕は……まあちょっと特殊なだけです」

「褒められてるのかな……?」

 僕が整理していた書類とは別のタスクを片付けている蓮沼先輩は、目線は書類に向けたまま苦笑いを返してきた。その様子を見た僕は、ひとつ疑問が湧いてきた。

「あの、先輩。質問いいですか」

「どうぞ、なんなりと」

「じゃあ遠慮なく。……先輩は、なんで生徒会長になったんですか?」

 生徒会なんてのは、名前の華やかさとは裏腹に今回の仕事みたいな地味な作業ばかりの組織だ。この人のスペックなら生徒会長なんて属性を盛らなくても十分青春を謳歌できるように思える。わざわざ事務作業に多大な時間を取られることもないだろうに。

 蓮沼先輩は一瞬手を止めて僕の方に視線を向けたが、すぐに作業を再開しながら、口を開く。

「ああ、そんなこと? そんな大層な理由じゃないよ。この学校をより良くしたかったってだけ」

「……大層な理由だと思いますけど」

 たかだか三年しかいない学校をより良くしたって、自分には大して恩恵はないはずだ。ましてや先輩がこの学校にいる期間はあと半年ちょっとだ。

「ま、もちろんゼロからそう思ったわけじゃないよ」

 先輩は束になった書類をまとめてトントンと整えながら言葉を続ける。

「わたしが一年生の時の生徒会長がカッコよくてさ、学校内の問題をズバズバ解決してったの。それを見た時に、わたしも生徒会長になって同じようにカッコよくなりたいなって思ったんだよね」

 現実はそんなに甘くなかったけど、と先輩は空笑いする。

「……そんなことないですよ。先輩はカッコいいです」

仕事を投げ出した会計の代わりに、ひとり残って仕事をする蓮沼先輩は少なくとも僕から見たらカッコいい生徒会長だ。

「おっ、もしかしてわたしに惚れた?」

「そういうんじゃないです。仕事終わったなら僕はもう帰りますね」

「冷たいなあ、もう。そんな冷血漢は帰った帰った」

「じゃあ失礼します」

 そっぽを向いて追い払うように手を振る蓮沼先輩に、僕は荷物を詰め終わったカバンを背負いながら軽く頭を下げる。それを見た先輩はチラッとこちらに視線を向けてきた。

「お疲れ様……ちょっと残念、優良物件だと思ったのに」

 小声で呟かれたのにも関わらず聞こえてしまった後半の言葉をスルーして、僕は生徒会室を後にする。蓮沼先輩には申し訳ないと思うが仕方がない。

 僕は今日のように西日がきついあの暑い日以来、胸の内を覆い隠す後悔が晴れないのだから。


 蓮沼先輩の言う通り、僕はよく人助けのようなことをしている。けれどそれは別に僕が聖人で、誰かに尽くすことに喜びを感じているからというわけじゃない。ドMじゃあるまいし。

 誰かの手助けをすることで自分自身の「夢」を探すことに寄与すると考えているからだ。

 何かに困っている人というのは往々にして何かに全力を尽くしている人だ。自分のやっていることがどうでもいいと思っている人は困ったりなんかしない。適当に放り投げて知らんぷりするだけだから。ある意味、そういう人の方が余計な労力を使わない分合理的と言えるかもしれない。

合理的という言葉はよく肯定的に使われる。そしてその使われ方は概ね感情的という言葉のの対義語としてだ。合理的に物事を進めることは善で、感情的に行動することは悪だと。

 ほとんどの場合において、それは正しいと僕も思う。合理性とは目的を達成する可能性が最も高い選択肢を選んでいくことだからだ。これは言葉の定義の問題で、議論の余地すらない。

 けれどひとつだけ合理よりも感情を優先すべきタイミングがある。

 それは「目的そのもの」を決める時だ。

 目的すらも合理で決めるようになってしまったら、それはもう機械と変わらない。合理的に設定された「目的」を追い求める人生に何の価値があるだろう。

 そんなものは僕の求める「夢」じゃない。

 夢を「熱」と言い換えてもいい。

 自分の内に「熱」が灯っていれば、それはとんでもない力を発揮する。それを五年前、彼女に教えてもらった。

 でも高校生になってもまだ、僕の人生に「熱」は現れていなかった。

 もし二十歳になっても見つけられなかった時、その時は――

「おい翔」

 翌日、突き抜けるような青空が広がる昼休みに眠気に誘われるまま微睡んでいたら、後ろの席の男子生徒――山井直道が声を掛けてきた。

「なんだよ」

 そう言いながらもだいたいどういう用件かは検討がつく。今朝の件だろう。

「翔さ、また告白断ったんだって?」

 直道が尋ねてきた内容は僕の想像通りのものだった。昨日の今日でずいぶんと情報の早いことで。僕は窓から流入する風で舞い踊るカーテンを鬱陶しげにまとめながら口を開く。

「……告白ってほどのものじゃないよ。単に仲良くしないかってだけの話」

 あれを告白というのは蓮沼先輩の名誉が傷つくと思ったので軽く訂正する。とはいえ僕についてこの手の噂が嘘だった試しはないだろうに、毎度のこと僕本人に確認を取るのは野次馬根性が旺盛と言うべきか、それとも一次ソースを当たるリテラシーの高い奴と褒めるべきか。

「これで何度目だよ。しかも今回はあの学校のマドンナ蓮沼先輩だろ? どうやってお近づきになったんだ?」

 ……マドンナって正直死語だと思うんだけどなんか他にいい言い回しないのかな。アイドルとかだろうか? 偶像崇拝的な。

「お近づきもなにも、単に生徒会の仕事が大変そうだったから手伝っただけだよ」

「あれ? お前生徒会入ってたっけ」

「いや、知っての通り帰宅部だよ」

 僕は部活動も委員会活動も何一つしていない帰宅部だ。まあでも代わりにやっていることがあるから暇ってわけでもないんだけれど。

「あー、ってことはいつもの人助けってやつ? 物好きだよな、お前も」

「ほっとけ」

「この間は園芸部の草むしり手伝ってたし、その前は腰痛めた食堂のおばちゃんの代わりに配膳に入ってたし、あとはラグビー部の助っ人とかもしてたよな」

「そうだね。ラグビーはルールが分かると意外に面白いよ。直道もどう?」

「耳がつぶれるらしいから遠慮しとく。どうせお前もスポット参戦で続ける気はないんだろ?」

「まあね」

 帰宅部である代わりというか、僕には人助けという趣味というか習慣がある。はっきり言って自分のためにやっていることだから「人助け」という括りでいいのかは微妙だけど、他に適している言葉が見つからないから甘んじて受け入れている。

そうやって手当たり次第に「人助け」をしているが故に、その相手が女性だった時に今回みたいに下世話な噂が広まることは少なくない。それは時に事実で時に根も葉もないが、今回はその中間と言ったところだろうか。

 ちなみにこうやって人のプライベートを嗅ぎまわる直道は案の定と言うべきか新聞部で、よく危ない記事を公開して先生に雷を落とされている。直道は僕の奇特な習慣にはあまり興味がないのか、ぐいと身を寄せて先輩のことについて聞いてきた。

「で、蓮沼先輩の何が気に入らなかったんだ? 美人で優秀でスタイルもいい、おまけに生徒会長と来た。これ以上ない女子だと思うが?」

「別に蓮沼先輩が気に入らないとかじゃなくて、僕には今彼女が欲しいとかそういう気持ちがないんだよ」

「お前それ中学の頃から言ってるじゃんか、さすがに長すぎだろ。『鉄の男』様が色恋に目覚めるのはいつになることやら」

 僕の答えを聞いた直道は呆れたようにそうつぶやいた。

「『鉄の男』はやめろよ、そのあだ名はまるで僕が感情の無いロボットみたいで嫌いなんだよ」

 人助けをしている過程で女の子から告白を受けることが何度かあって、それを断っているうちに不名誉なあだ名をつけられてしまったのは非常に不本意だ。だいたい中高合わせて四、五回くらいしか断っていないし、そのうちの何回かは噂を聞いた女子が面白がって告白してきたものが含まれているはずだ。

「いいじゃないか、苗字が鉄(くろがね)であだ名が『鉄の男』なんてカッコいいぜ」

「ばかばかしい」

 センスが完全に中学二年生だ。そのセンスで辱めを受けるのは考えた本人じゃなくて僕なのが納得いかない。昔の僕なら喜んだかもだけど。

……それに告白を断っている本当の理由を考えれば、僕はむしろ『鉄の男』とは真逆の人間だ。

 直道は腕を組んでうーんと唸りながら少し遠慮がちに声のボリュームを落としてこう尋ねてくる。

「……やっぱり男色とかそっち方向?」

「断じて違う」

 女に興味がないから男が好きなんて安易な結論は、僕にも男色の方々にも失礼だと思う。恋愛感情ってそんな単純なものじゃないだろ。

 直道は両手をホールドアップの形にしてお手上げだと言いたげなジェスチャーを取る。

「じゃあやっぱ岬さん? よく一緒にいるもんな。幼馴染ってやつだっけ」

「深愛(みあ)は関係ないよ。そろそろ授業始まるぞ、次はオガセンなんだからくっちゃべってるとゲンコツ飛んでくるよ」

「やっべ宿題やってねえ!」

「終わったな」

 直道がめちゃくちゃ焦りながらカバンからプリントを引っ張り出すのを眺め、話をそらすことに成功したのを確認する。

 当然のことながら僕は幼馴染の岬深愛と恋仲というわけじゃない。小学校からずっと同じ学校に通っているし、小さい頃の深愛は僕にべったりだったけれど、いつだったからか深愛の方が距離を置くようになった(とはいえ下校で一緒に帰るくらいではあるけど)。具体的にいつからかはあんまりよく覚えていないけれど、思春期とかそういうきっかけだったような気もする。

 とは言っても付き合いは長いから、お互いにいて当たり前みたいな存在になっている。そういう存在をどう表現していいのかわからないけれど、僕の中では「幼馴染」というのが一番しっくりくる。

 廊下側の最前列に座り、周りの女子と談笑している深愛にちらりと目をやる。肩にかかる程度の茶色みがかった髪は首を回すたびにふわっと跳ねている。中学を経た後、身長はあまり伸びなかったが、発育が悪いと表現するには無理のあるスタイルを手に入れていた。顔も贔屓目抜きにしても美少女と言っていいだろう。コミュ力も高く、僕と違って友達も多い。

 はっきり言ってモテない方がおかしいが、深愛に彼氏ができたという話どころか告白を受けたという噂すら聞いたことがない。

 まあ理由はわかっているけれど。

 深愛を眺めていた視線の延長線上にある教室のドアがガラッと開いて、数学教師かつこのクラスの担任の小川、通称オガセンが入室してきた。オガセンは数学教師なのにガタイが体育教師ばりで威圧感はすごいが、外見に見合わない丁寧な授業をするのでそれなりに評判がいい。

「よーし、授業始めるから席につけー。まずお前らお楽しみの小テスト返しから始めるぞ」

「楽しみにしてねーよ」「あれ小テストってレベルじゃなかったよー。オガセン」

 小川の発言に生徒からの不満の声があちこちから上がる。正直僕も全然わからなかったから十割同意だ。最後の問題なんて大学入試の過去問だったしわかるわけない。まだ高一の一学期だぞ、僕ら。

「うるせーぞお前ら。ここまで学んだ範囲で解けるように誘導までつけてやったんだから文句言うんじゃねえ」

「最後の問題解けた奴いんのかよあれ」

 その声が聞こえたオガセンはニヤッと笑った。……まさか。

「いるんだなあ、それが」

 マジかよ。あんなのが解ける奴がいるとすればそれは一人だけだ。

「ほれ岬。満点だ」

「あはは、ありがとうございます」

 深愛はオガセンが取り出した解答用紙を両手で丁寧に受け取っていた。……もうバケモンの領域だろ。

 深愛の成績がいいのは数学だけじゃない。中間テストで全教科満点というえげつない成績を叩き出し、学年どころか学校中に衝撃を与えたのは記憶に新しい。京駒高校は決して落ちこぼれ高校というわけじゃなく、むしろ進学校に類する高校だからこそ深愛の成績は驚異的なものだった。

 そしてその成績ゆえに深愛は男子生徒からすると気軽に声を掛けられない高嶺の花と言うべき存在になった。自分より遥かに頭のいい女子というのは、男子からすると近寄りがたいのである。

「頭良すぎだろ、岬さん。中学の時の全国模試一位取ったことあるんだっけ。凄すぎて逆にちょっと引くわ」

「安心しろ、それは逆じゃなくて普通に引いてるだけだ」

 直道にツッコミを入れながら自分の答案を確認する。いつも通り平均を少し超えた程度の点数だった。まあ大して勉強もしていないしこんなもんだろう。勉強に熱量を注ぐのは、中学半ばで諦めた。すぐそばにあんな化け物がいたんじゃ逆にスパッと見切りを付けれるというものだ。

 一通り答案用紙が返却されると、クラスの女子が何人か深愛の席に群がっていた。

「深愛ほんとに満点なの? 答案用紙見せて見せて」「あたしにも見せて~」

「しょうがないなー、はい」

「うっわマジじゃん、引くわ」「凄すぎ!」「どういうことなの……」

「凄いでしょー」

「ちょっとは謙遜しなよー」「自慢かー?」

「えへへ、調子乗っちゃった」

 普通あれだけの点数を取ったら何を言っても嫌味に聞こえるものだけど、深愛の言葉からは全くそういう悪意が感じられないし、周りの女子生徒たちも深愛に軽口は叩きこそすれ本気で悪口を言っている奴はいないと思う。

「はいはい、静かに。お前らも岬を見習ってちゃんと授業を聞くように」

「授業聞いただけでああはなれないだろ……」

「気構えの話だ、気構えの」

 そう言いながらオガセンがプリントを配っていく。回ってきたプリントを眺めて今日の授業内容を把握した。

「えー、今日は関数のグラフについてだな。まず――」

 オガセンが黒板にチョークでカツカツと数式を書き連ねていく。その音を聞くと、窓の隙間から入ってくる心地よい風も相まって自然とまぶたが重くなってきた。うつらうつらと船を漕ぎ始める。まったく、昼休み直後の数学の授業ってなんでこんなに眠くなるんだろう。

 そういえば。あの日も七月の気持ちのいい風が吹く夏の日だったな、ともやのかかった頭で思い返したのを最後に僕の意識は夢の世界に旅立っていった。

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追憶のロストプロポーズ 立日月 @tatihituki

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