第6話
次に目を開けたとき、最初に感じたのは眩しいな、ということだった。さっきまで空で星が瞬くような暗い夜だったはずなのに、今は視界が真っ白で、同時に肌をジリジリと焼くような直射日光を感じる。
「翔也……翔也?」
懐かしい、声が聞こえる。
目が慣れてきて辺りを見渡すと、僕はあの東屋のベンチに座っていて……隣にはこちらを心配そうにのぞき込む葵がいた。
「なによ、寝てたの?」
「……そうかも」
頭が、ボーッとする。何か大事なことを忘れている気がするけど、モヤがかかったように脳みそが動かない。
「……翔也」
「なに……うわっ」
僕は思わずベンチから飛び上がった。というのも葵が右手に持った水筒を僕の顔目がけて振ってきたから……蓋を開けた状態で。当然、僕の顔面は中に入っていた液体でびしょびしょになる。というか服まで濡れてしまった。幸い中の液体は水のようでベタベタにならずには済みそうだったけれど。
「ちょっと、なにするん……」
驚きと水の冷たさですっかり目が覚めて。同時に、自分の状態がいかにあり得ないものかを認識する。
さっきまでより視線が低い。手足も短い。地面には黒と赤のランドセルがひとつずつ置かれている。
「あなたが寝ぼけてるから悪いんでしょ! ……これが、最後なのに」
葵は、そう言って悲し気にうつむいた。小学五年生の姿の、葵が。
「……葵?」
「なに? まだ寝ぼけてるの?」
憮然とした顔をする葵は、再び蓋を開けようとペットボトルに手を掛ける。
「うわあ、もう目覚めた覚めた!」
慌ててそう答えて葵をなだめる。また水をぶっかけられたらたまらない。
どうやら僕は本当に過去に戻ってきたらしい。ぐっしょり濡れた服の感触が、それを保証している。
葵はまだ僕に対して疑わし気な視線を向けてきていたが、何かを思いついたような顔をして口を開いた。
「じゃ、私たちが初めて二人で行った場所、覚えてる?」
初めて、行った場所。葵は学校とかこの公園とかを意図して聞いているわけじゃなく、「やりたい事を見つける」行動の一環で行った場所のことを聞いているんだろう。……僕は必死に頭の中を駆け巡って五年前の記憶を探す。たしか――
「上野の、国立科学博物館」
たしか、小学生は無料で入れると聞いた葵が僕を引っ張って行ったんだ。結局帰りの電車賃が足りなくなって僕が立て替える羽目になったけど。
あそこは物理、化学、生物学、地学に至るまでの展示物が小学生にもわかりやすく解説されていて、ただ歩き回るだけでも楽しかった。
「当たり。あの時の翔也、動物の剥製にビビっててさ。腰が引けてたよね」
葵はクスクスと笑っていた。どうやら機嫌は直ったみたいだったけれど、僕ばかりからかわれるのは納得いかないなあ。葵だって抜けているところはいっぱいあったじゃないか。
「そういう葵はちょっと目を離した隙に迷子になったじゃんか。探すの大変だったんだぞ」
「なっ、その話持ち出すのは反則じゃない! その時はたまたま迷っただけよ!」
いやいや、小学校でも何回も迷ったことはあったよ。
「……葵はいい加減自分にポンコツなところがあるところを認めた方がいいよ」
僕がそう零した瞬間、葵がぴたりと動きを止めた。……まずい。
「私のことを、ポンコツって言ったわね……」
ポンコツという単語は葵には禁句だということをすっかり忘れていた。仕方ないだろう、五年も前のことをそんなに正確に覚えてるわけないじゃないか!
憤怒の形相をした葵にビビった僕は、一歩後ずさりする。
「覚悟はできてるんでしょうね……」
「できてないよ!」
そう叫んで駆けだした僕を、当然葵は追ってきた。葵に追いかけられながら僕は公園内を走り回る。
葵から逃げるために全力疾走して息を切らしながら、「ああ、楽しいな」なんて思ってしまった。五年前の葵との日々はこんな風に騒がしくて、忙しくて、そしてとても楽しかったんだ。
ひとしきり追いかけっこをした後、疲労困憊になった僕たちは東屋の作る日陰で休んでいた。だんだんと太陽が傾いていて、屋根の作る日陰がベンチから外れていく。
葵はベンチでぐったりとしながら息も絶え絶えといった様子だ。まあそれは僕も同じだけれど。
「もう私のことをポンコツって言うんじゃないわよ……」
「……わかったわかった」
「ならよし。……あ、そうだ」
葵がなにかを思い出したかのように手を叩き、ベンチから体を起こして僕の方を向く。
「手紙、私がこの街からいなくなってから開けなさいよ」
「手紙?」
なんのことだろうか。僕の主観では五年前の出来事だからすっと出てこない。
「さっき渡したばっかなのに忘れたの?」
「さっき……あっ」
思い出した。開けないようにひどく釘を刺された割には封筒の中には転校先の住所を記した便箋が一枚入っているだけで拍子抜けしたのを覚えている。……記された住所に送った手紙がUターンして戻ってきたときには、さすがに腰が抜けたけれど。
「いや、覚えてるよ」
「そ、ならいいけど。連絡先も書いてあるから……絶対に手紙、送りなさいよ」
確か、僕はこの日学校から帰る前に葵から封筒をもらって……そのまま自分の席に置き忘れたんだった。夏休み一度も登校しなかった僕が封筒を開いたのは二学期になってからで、住所が誤っていたことに気付いたときにはもう後の祭りだった。まあどちらにしろ、住所が正しいか誤っているかなんて、手紙を送るまで気付けたはずはなかっただろうけど。
でも今正しい住所を聞いておけば連絡がつかなくなるなんてことはなくなる。まだ手紙を読んでいないはずの僕が、手紙に記された住所が誤っていることを知っているのはおかしいかもしれないけど、背に腹は代えられない。僕が口を開こうとした、その時だった。
キーンコーンカーンコーン。
夕方五時を伝えるウェストミンスターの鐘が駒野公園に鳴り響く。それを聞いた葵は、夕日に照らされて輝く長い髪をなびかせながらベンチから立ち上がり、こう言った。
「じゃ、そろそろ帰りましょうか」
その言葉は僕が聞いた過去の葵と一言一句同じ言葉で。このままでは過去をなぞるだけで終わってしまうことが否応なく理解できた。
「あ、あのさ」
「……なによ」
告白できなかった五年前を思い出す。僕は自分に自信がなかった。だから自分が葵に釣り合わないと思って、告白をためらってしまった。でも伝えなければ、なにも進むことはないのだ。
気の利いた言葉とか、ロマンチックな駆け引きとか、そんなものは何も浮かばなかったから、シンプルな言葉で伝えよう。
そして、僕は意を決して言葉を紡いだ。
「僕は、葵が……好きだ」
言った。言ってしまった。僕の胸は早鐘を打ち、背中にはじっとりと汗を感じる。
そして告白した僕の口の中は、ざらついているように違和感があった。本当にこれでよかったのかという、違和感。
自分の舌が、まるで自分のものではないかのようにさえ感じられる。告白というのはこんなにも自分の精神がコントロールできなくなる出来事だったのか。
「そう……」
僕の告白を聞いた葵は、ゆっくりとこちらに振り返った。夕日がきつくて顔色はわからないけれど、なぜかその目つきは険しく見えた。それに「そう……」という返事は、いくらなんでも告白への返答として淡白すぎる。
「そう、って……」
「それで、どうしたいの?」
どう、したい?
「私と恋人になりたいの? それとも単に好意を伝えたかっただけ? まさか好きだから私の転校先に付いてくる?」
まるで尋問かのように問い詰めてくる葵に、僕は面食らってしまった。
「……それは」
僕は葵に問いかけに、なにも答えることができなかった。
僕はただ「告白できなかったこと」を後悔していただけで、その先のことは何一つ考えていなかったのだ。そんなことさえ、葵に指摘されるまで僕は気づいていなかった。
僕の態度に憮然とした葵は苛立っているようだった。
「私、最初に会ったとき言ったわよね。人間関係に現を抜かしている暇はないって」
葵の言葉がまるで胸に突き立てられた刃のようにさえ感じられ、僕の背中にはさっきまでと全く異なる性質の汗が流れる。
「目的もはっきりしない人に付き合ってる暇はないの」
葵のその言葉に僕の心臓は刺し貫かれた。
「……そんな」
「もっとよく考えて」
葵はそう告げると踵を返して公園から去っていった。葵にバッサリと切り捨てられた僕は、呆然と彼女の背中を見送ることしかできなかった。
体感時間でわずか一時間程度。その間に僕は同じ女の子に二度も振られることになった。それも五年の時を超えて。……自業自得だから、誰にも当たることはできないけれど。
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