第18話

 目が覚めた時、なぜかいつもより体温を高く感じた。僕はいつも低血圧で寝起きにはすごく寒さを感じるんだけれど。

 覚醒直後のぼんやりした頭でもう初夏だし、気温が高くなってきているのだろうか、などと考える。でもこの感覚は暑いというよりは暖かいと言った方が近くて。

 そこまで考えて、その暖かさは自分の懐から来ていることに気づく。

 なんだろうか。

 右腕に何か重しが乗ったように動かないが、部屋が真っ暗なのでどういう状況かも把握できない。どうやら布団の中にいるのは間違いないようだけれど。

とりあえず布団から出ようと、自由な左腕で不格好に掛け布団を剥ぎ取る。

「……すぅ」

「え?」

 暗闇に目が慣れてきて僕の腕が抱えていたものを目視し、思考が止まる。それはすやすやと心地良さそうな寝息を立てる栗原葵だったのだから。

「……!!!」

 思わず仰け反りそうになるけれど、葵の頭に敷かれた右腕がストッパーになって体を動かせない。

「……みゅぅ……」

「かわ……」

 普段の葵からは想像もつかないような可愛らしい寝言が発せられて、僕は思わず気が緩む。

 いや、そんなことより……近い近い近い!

 こういう時こそ深呼吸だ。理解不能な状況は、もう慣れっこだろう。

「すーはー、すーはー」

 大きく呼吸を循環させ、心を落ち着ける。まずは情報収集だ、と辺りを見渡した。自分の寝ていた布団の傍らに僕のスマホを見つける。右腕は葵に拘束されているので、反対側の左腕を伸ばし、画面を付けた。

 時刻は月曜日の夜八時だった。公園でケレスと会ったのが十時だったから約十時間くらい経過している計算になる。確か一度目のタイムリープもりんごを食べてから次に目覚めるまでそれくらいの時間が経っていたはずだから特におかしくはない。

 おかしいのは、時間じゃなくて場所だ。

「どこだよここ……」

 少なくとも僕の部屋ではない。僕の寝具は布団じゃなくてシングルベッドだし、ぼんやりと見える部屋の大きさ的にここは僕の部屋の倍くらいはある。

 スマホの明かりで部屋の中を照らしてみると、ここが和室で畳の上に布団が並んで二組敷かれているのがわかった。布団を敷くために端に寄せられたローテーブルには、茶菓子と急須が置かれている。壁際には掛け軸と壺が飾られている、床の間らしい。

そして極めつけは窓際にある、椅子と机が配置された謎の空間。

 ここまで情報が揃っていればさすがの僕でもここがどこか理解できる。

 温泉旅館だ。それもそこそこ良さそうな。そこまでわかると、自分が着ているものが旅館の浴衣特有の特徴的な柄をした浴衣なことにも気づく。

「ん……」

 小さく寝言が漏れた葵の方を向くと、当然彼女も同じ浴衣を身にまとっている。ごろん、と葵が寝返りを打ち僕の右腕が解放された。血流が急に戻った時特有の鈍いしびれが腕に走るが、そんなことよりも。

「……!」

 葵の纏う浴衣は寝返りで着崩れて、彼女のすらりと長い脚が露わになっていた。

 バッと分厚い掛け布団を掛け直す。

 僕の動揺が伝わったのか、葵が目を覚ます。

「んん……。あぇ? 翔也、起きたの?」

「え? ああ、うん」

 寝起きだからか、随分としおらしい葵に面食らいながらもこくりと頷く。すると葵はスッと僕の手のひらを握ってきた。僕は動揺を隠しながら葵に尋ねた。

「……どうしたの?」

「ちょっと、怖い夢を見て」

 そう言って僕を見つめる葵の半ば泣きそうな不安げな瞳は一つ前の世界、world1.01で僕に駆け落ちを願った葵と全く同じで、僕はひとつの事実を理解する。

 つまり、きっとこの世界、World1.02の鉄翔也は――葵の願いを受け入れて駆け落ちしたのだろう。




葵にいろいろと聞きたい気持ちはあったが、葵からの「もう一回温泉入りに行こっか」の提案にとりあえず従うことにした。どうやら夕食前に一度入ったらしいが、夕食後すぐ眠ってしまったらしい。寝汗をかいたので少しべたつくし、体を流したい気持ちはあった。葵も同様らしい。

 館内案内によると大浴場は最上階にあるらしく、僕と葵はバスタオルとフェイスタオルのセットをそれぞれ持ってエレベーターに乗り込む。

 葵の持つタオルの隙間からちらちらと覗く、鮮やかな黄緑色の布切れにドキッとする。なるべく見ないようにエレベーターの階数表示に視線を集中させる。呼吸まで止めてしまっていたみたいで、最上階に達した頃には息切れしている僕を葵は不審そうに覗き込んでいた。

 エレベーターを降りてすぐのところに大浴場があった。

「じゃあ、また後で」

「うん、また後で」

 そう言葉少なに僕たちはそれぞれ男湯と女湯の暖簾をくぐった。

 大浴場に入った僕は備え付けのボディーソープとシャンプーで体を綺麗にしてから、露天風呂への扉を開く。照明は柱に吊るされている電球ひとつだけで、光量も弱々しかった。檜で作られた湯舟にゆっくりと体を沈める。照明が最低限のおかげかその分天上の星々の煌めきははっきり見ることができ、少しの間状況を忘れて見とれてしまった。

「ふぅ……」

 さっき葵と別れて更衣室に入ったタイミングでスマホを確認したところ、どうやらここは伊勢志摩らしい。交通系ⅠCカードの履歴では日曜日の深夜に熱海で下車していたのでそこで一泊し、今日は在来線でここまで来たのだろう。僕自身は経験していないが、どこか疲労を感じるこの体が長旅だったことを実感させる。

 新幹線を使わなかったのは自然に考えると金銭面で今後のことを気にしたからだと思うが、それだとひとつ矛盾することがある。

 これからの支出を考えて節約したいならこんないい旅館に泊まるのはおかしい。野宿は行き過ぎにしてもビジネスホテルなりゲストハウスなりもっと安く泊まれる手段はあったはずだ。

お金に糸目をつけないという方針だとしてもそれはそれで在来線なんかじゃなく新幹線を使えばいい。日曜中に福岡や札幌など日本の主要都市なら着けただろう。逆に節約したいなら深夜バスを使った方がおそらく安上がりだろう。在来線で時間をかけて旅するメリットはほとんどない。

 メモ帳を開いたら東京を出てからの支出を付けていたみたいで、少なくとも僕自身は金銭面を気にしていたようだ。僕だったら気にするからこの世界の僕もそうであることに不思議はない。

支出表の中で宿泊代についてだけ、記載がなかった。可能性としてあり得るのは、野宿などをして宿泊代がゼロ円だったか、僕にはわからなかったかのどちらかだろう。今こうやって旅館に泊まっている以上、前者の可能性は低い。つまり……。

 そこまで考えた時、パチンと音が鳴って電球の明かりがふっと消えた。大浴場の方もだ。

「暗っ」

 気持ちばかりの電球の明かりすら消えてしまい、露天風呂は夜の闇に包まれる。夜天に散りばめられた星と月明かりのわずかな光量しかない。

 清掃員の人が間違って消してしまったのだろうか。それにしては中々つかないけれど……。

 ぎぃぃと、大浴場に繋がる扉が開く。電気を付けに来たのだろうか、とそちらの方を向く。

「そのまま、あっち向いてて」

「え⁉︎」

 暗闇のせいで現れた人物のすらっとしたシルエットくらいしかわからなかったけど、声を聞いて確信する。それは、間違いなく葵だった。

「ここ男湯だよ⁉︎」

「いいから! あっち向いて!」

「ハイ……」

 葵の剣幕に気圧されて僕が外の景色に目を向ける。真っ暗な風景の中にぼんやりと浮かぶ海は、雄大さと同時にどこか恐怖を感じられた。

僕が海に視線をやって五秒くらい経つとちゃぷんと軽い音が鳴り、それと共に水面が揺れた。葵がゆっくりと近づいてくるのが背中に伝わる水圧からわかる。

触れるか触れないかのギリギリのところで葵がしゃがみ、僕の背中に葵が寄りかかる。とうとう彼女の絹のように滑らかな肌が直に僕に触れた。こんなシチュエーションは当然初めてで、僕の心臓は高鳴り体はロボットのようにがちがちになっていたが、合わさった背から伝わる葵の緊張は僕以上で逆に脱力してしまった。

少し落ち着いた僕は、葵に疑問を投げかける。

「他の人入ってきたらどうするんだよ。というかどこから入ってきたんだ?」

「……女将さんが、従業員用の通路開けてくれたの。三十分くらいは清掃時間の看板置いておくから他の人は入らないって」

 どうやらここの女将さんは田舎特有の世話焼きおばさんらしい。余計な詮索をしないでくれるのはありがたいが、温泉旅館が温泉封鎖するのは大丈夫なのか……?

 まあそういうのは置いといても……。

「いい旅館だよね、ここ」

「うん、ご飯は美味しいし温泉は気持ちいいし」

「こんな高そうなところ、いいの?」

「言ったでしょ、私それなりにお金はあるの」

 やっぱりお金出してもらってたのか、情けねえな僕。

「……さすがに、ここまで付き合わせたらもう言わないとね」

 ぼそりと葵はそんな言葉を零す。それは独り言というよりも僕に聞かせるために言った言葉のように聞こえたから、僕は言葉を返した。

「何の話?」

「なんでこんな駆け落ちに誘ったか」

「――」

 背中合わせ越しに、葵の掌が僕の掌に重ねられる。

「まずどこから話せばいいかしら。……私の家はね、いわゆる名家ってやつらしいの。母方の実家ね」

「名家……」

「お父さ……父は総合商社で働いていて、その仕事の影響でいろんなところに転校になってた。花の宮小学校もそのひとつ」

「だから急に転校していったのか……」

「ああいう転校は私にとって日常だった。……私の父は同期の出世頭らしくて、その影響でうちに縁談に来たんだって。幸い父と母は十個くらい年が離れてるのに気が合って、二人とも合意の上で結婚することになったんだけど……祖母がその結婚に条件を出したの」

 それがもう戦前でも中々ないような話でね、と呆れ半分に葵は続ける。

「婿入りと……娘が生まれたら早々に家に入れること。父と母は渋々それを飲んだらしんだけど、代わりに出した条件が私が大人になるまでは実家には住まずに家族で自由にさせてほしいってことだった」

 きっと私にいろんな世界を見てほしかったのね、と零す。

「父も母も、自分たちから実家の事情を私に伝えたことはなかったけど、たまに母の実家に顔を出しているうちにわかった。指を咥えてただ生きてるだけだと、大人になったらこのとても広いけどそれと同時にとても狭い、この家に縛り付けられるんだって」

 でも私にはそれがどうしても耐えられなかった、そういう葵の手は僕の手を痛いくらい強く握っていた。

「だから、私は特別になりたかった。いや、ならなきゃいけないと思った」

 そこまで語った葵は一息つくかのように黙ってしまった。月明かりに照らされる中、ただお湯が流れ出る音だけが夜に響いている。

「……なんで、モデルを目指したの?」

 沈黙を破ったのは、僕からだった。葵がモデルになったと知ってから、ずっと気になっていたことではある。少なくとも僕が葵と一緒にいた頃はそんな素振りは欠片も見せていなかった。

「……翔也のせいよ」

「僕の?」

 そんなきっかけ、あっただろうか。

「……翔也と会ってすぐの頃、私の歩き方がモデルみたいって言ってくれたでしょ。翔也と一緒に色んなものを見たり経験したりしたけれど、結局最初の言葉がずっと心に引っかかってた」

「……」

 正直、あまりよく覚えてない。

「あんまりよく覚えてないって間ね」

 葵が呆れたように嘆息する。……確かに言ったこと自体は覚えてないが、覚えていることもある。

「言ったことは覚えてないけど、葵の一挙手一投足が綺麗だなって見惚れてたのは覚えてるよ」

「……よくそんな小恥ずかしいこと言えるわね」

 葵は素っ気なかったけれど、背中から感じる体温が少し上がった気がした。

「もちろん、翔也に言われたからだけじゃなくて打算的な考えもあった。モデルは力があれば若い時から注目を手に入れられる。それに何より、私、可愛いでしょ?」

 フフンと、葵は不敵に笑う。昔から自分には自信があるタイプだったけれど、それはここでも変わっていないようだ。でも、葵の凄いところはそこだけじゃない。

「……葵がモデルになれたのは、たぶん可愛いからだけじゃないよ」 

 葵は確かに飛びぬけて可愛いけれど、それだけでモデルになれるわけじゃない。きっと葵は陰で凄い努力を重ねてきたはずだ。葵は自信の大きさと同じくらい、努力をすることを厭わない人間だ。

……その努力の軌跡を、僕は知らないけれど。

「なんにしろ有名になって名前が売れれば、世間体を気にする祖母に抗う力になる」

 有名モデルが旧態依然とした実家の圧力で強制結婚⁉ なんて記事、シャレにならないでしょ? と葵は笑う。

「両親も私の活動を続けられるようにいろいろ協力してくれた。祖母に知られたらすぐ辞めさせられてただろうし、まだ子供だった私からしたらとてもありがたかった。まさか有名になって祖母から逃れようとしてるなんてことまではわかってなかったでしょうけど。バレないために芸名まで使って……なかなか本名以外で呼ばれることに慣れなかったな」

 本名で活動していないことは気になっていたけれどそういう理由だったのか。確かに検索すればいくらでも情報が出てきてしまうこの時代で、バレたくない相手がいるのに本名で活動するのはリスクだ。

「……でも、そこまでやっても私は間に合わなかった」

「なんで、まだ高一じゃないか」

 大人になるまでまだ時間はある。あと五年か、短くとも三年はあるだろう。しかし葵は首を振った。

「あの人の大人の基準は、十五歳なの」

「――」

「笑っちゃうわよね、いつの時代だと思ってるんだか。あの人、私が中学卒業したら家族丸ごとすぐ実家に入ると思ってたのよ? 私が高校に入るなんて想像すらしてなかった」

 だからいつまで経っても戻ってこない私たち家族のところに昨日祖母が直接やってきた、と葵は続ける。

「荷物をまとめて月曜日には家を引き払ってうちに来なさい、って言われた。めちゃくちゃでしょ? もちろん祖母とは言えど法律には抗えないから十八歳になるまで結婚はさせられないでしょうけど、実家に抑留させられるのは間違いないと思う。花嫁修業でもさせられるのかしら」

 葵は皮肉気に鼻で笑っていたが、背中に伝わってくる微かな肩の震えはその本心を表していた。

 こんな葵を、僕は知らない。僕の知る葵は自信家で、諦めるって言葉を持ち合わせていなくて、何からも逃げない、そんな強い人間だった。

 僕は葵の方にゆっくりと振り返る。薄暗くてよくは見えないけれど、葵の白いうなじがわずかな月明かりに照らされて闇の中に浮き出ている。葵はまるで寒さのただなかにいるかのように両腕で自分の肩を抱えていた。

「葵……」

 僕はどうにか葵の不安を取り除いてやりたいと思い、少し迷って彼女に手を伸ばす。

その手が触れるか触れないかという距離まで近づいたその時、塀の裏側から届いた女将さんの「そろそろ開けますよー」の声に僕の手は遮られた。慌てて手を引っ込めて体の向きを戻す。

「……私、戻るね」

葵はそう言うとすっと立ち上がり女湯に帰っていった。僕は扉が閉じる音を耳にしてから大きなため息をついて露天風呂にもう一度深く肩まで浸かった。さっきまで見えていた満天の星空は、半分くらい薄暗い雲に隠されてしまっていた。

 その後、温泉に浸かりすぎてがっつりのぼせたのがバレないように、更衣室で扇風機にたっぷり十分は当たってから部屋に帰った。

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