第4話 除外の何が悪いのか

 ⒋


 ショッピングモールへ出かけた私と静也さんは、足りない食器を買い足すために、インテリアショップを見ていた。私と生活し始めてから、静也さんは土曜日に仕事をするのをやめた。本当に大丈夫なのかと問いただしたら、休日にすることがないから出勤していただけなのだ、だから行かなくても問題ないと言った。


 お茶碗や、よく使うサイズの皿をカゴに入れ、さらっと全体を見て回ることにした。

「これかわいい」

 私はサメの抱き枕を指さした。

「マヌケな顔のサメだな」

「それがかわいい」

「ふーん。連れて帰る?」

「え、いいんですか! やったー」

 マヌケ顔のサメも、新生活に仲間入りすることになった。


 インテリアショップで買い込んだ私たちは、一旦車に荷物を置くと、再びモールの中へと入った。

 もう特に買うべきものは無いので、さしずめウィンドウショッピングだ。


 最後に測った時にはもう身長百五十八センチだった私は、大人の洋服を着れるようになっていた。そうすると、見れる店の幅はかなり広がり、前よりも服を見るのが好きになった。なんとなく入った広めの服屋は、メンズ、レディース、キッズも揃っている所だった。


「静也さんはいつもシンプルな服を着てますよね」

「シンプルは無駄がなくて楽だからね」

「しかもほぼモノクロ」

「仕事着で色補ってるから」

 確かに、学校での静也さんは色のついたスポーティなジャージを着ていたな。


「あ、これどうですか」

 ピスタチオカラーのパーカーを静也さんの肩に当てた。

「その色、派手だろ」

「えー、似合うのに」

 ふらりと私が手に持つパーカーから外れると、今度は静也さんが私に服を当てて、うむと頷いた。

「しずはいつも寒色ばかり着ているからな、たまには暖色も着たらどうだ」

 それは古着っぽいくすんだレッドのパーカーだった。新鮮な色に思いの外しっくり来た私は

「おお」

 

 と呟いた。すると静也さんはどういう訳か、先程却下したピスタチオカラーのパーカーも手に持って、レジの方へと歩き出した。

「え、買うんですか? それも?」

「俺だけ逃げるのはフェアじゃないからね」

 私のチョイスは存外、お気に召したようだ。


 二枚のパーカーを購入し、服屋を出ると、次に画材屋に入った。

「しずかが絵を描くのが好きだって、一緒に暮らすまで知らなかった。図工得意なんだなー、くらいにしか思ってなかった」

「休み時間に描くと、覗き込まれるじゃないですか。あれが嫌で、学校では描いてませんでした」

「なるほどな」

 

 ここでは何も買わず、一階の食料品売り場で夕飯の買い出しをして、車へと戻った。途中、カゴに入れたはずのピーマンが無くなって、不思議な顔をしていたら、

「ピーマン苦手なんだよ」

 と静也さんは不貞腐れた。

「でも、ピーマン出したことあるけど食べてましたよね?」

「あれは頑張って食べてたんだ。出来ればない方がいい」


 それなら最初からそう言ってくれればいいのに。苦手な食べ物がピーマン、面白いくらいにベタだな。それでも頑張って何食わぬ顔で食べていたのを後から聞くと、なんだか可愛い。


「しずかは、苦手な食べ物何?」

「ニラですかね」

「確かに。入ってたことないわ」

 静也さんは目線を斜めに上げて、今までの献立を頭に浮かべている。

「ピーマンとニラは、可能な限り排除する方向でいきましょう」

 

 そう。私たちは、余計なものを取り除いて、好きな物だけ食べる生活を送ればいい。そこでは、名のある関係性も、互いを大事にする理由も、必要ない。そのことの一体何がいけないのだろうか。



 マンションに帰宅すると、二人並んで餃子を包んでいた。まず、餡を作る段階でキャベツのみじん切りが面倒くさくて、千切りのキャベツを買ってくれば良かったと後悔した。ニラの代わりにネギを使い、ニンニクは控えめ、生姜は多めに入れた。

 余った分は冷凍しておけばいいからと、多めに入った皮を買ってきたため、私たちは黙々と餃子を生成した。


「しずか、包むの上手いね。俺すげー下手なんだけど」

 トレーに乗った餃子は、どちらが作ったものか一目瞭然だ。先生の作ったものはひだが大きかったり、そうかと思えば今度はとても小さかったり。餡の量もバラバラだった。


「作るの初めてならしょうがないよ 。子供の頃、一度も手伝わされることなかった?」

「うん、なかった」

 遠い記憶を遡るには一瞬で、確信を持って彼は答えた。過去は彼にとって遠いものになってないのではないか。そんな事を思った。

「へぇ。そうなんだ。静也さんって、どんな子供だった?」


 変わらず手元を動かした。テンションを変えぬよう努めて、本当は興味アリアリだけど、隠して、話の流れでなんとなく聞いたかのように、私は聞いた。静也さんはすぐに返答をせず、顔の近くで作業を続けた。

「話したくなかったら、別にいいよ」

 私は言った。

 

 ピーマンとニラはいらない。

 

 静也さんは歪な形の餃子をトレーの上に置くと、ひと仕事終えたというように、ふぅっと息を漏らした。

「違うよ。作りながら話すの、ムズい」

 皮の残り五枚のところで、静也さんは作ることを放棄した。

 私はそれを手に取って、スプーンで餡を乗せた。

「前に言った通り、しずかみたいな子供だったよ。自分が子供であることが、嫌で仕方がない子供」


 静也さんはそう答えた。

 彼はどんな経路で、そう感じるようになったのか、そこまで突っ込んで聞いて話してくれるかどうか、考えていた。

 汚れた手を洗い、焼く前にソファで少し休憩していると、静也さんは再び口を開いた。


「しずか、いいこと教えてやるよ」

 いいことだと言う割には、静也さんはどこか憂いを帯びた表情をしていた。

「子供を通過しなきゃ、大人にはなれないんだ。ちゃんと子供のうちに子供をやっとかなきゃな、いつまでたっても大人の振りをした子供のままなんだ」

 ああ、そうか、だから私はどうしたって大人になれっこなかったんだと、その言葉はしっくりきた。


「静也さんは、大人になれた?」

「まだ、なれてないかも」

 自嘲気味に言うと、私の顔を見た。

「しずは、今、ちゃんと子供か?」

「うーん、どうかな」

 私も静也さんの方を見て呟いた。

「ふふっ」「ははっ」


 なんだか笑えた。私たちはまだ子供ですらなくて、大人にもなれていない半端者同士のようだ。

「じゃあ、まずは二人で、ちゃんと子供にならなきゃね」

「俺、もう三十過ぎてる」

「自分が言ったんじゃん、まだ大人じゃないって」

「そうだけどさぁ」

「大丈夫、大丈夫。私の前で、カッコつける必要ないよ」

「なんかムカつくなその態度」


 頭に拳を当てられ、グリグリされる。が、全く痛くない。やがて拳は開かれ、頭の上に乗せられると、優しく丁寧に撫でられた。

「もー、なんですか」

 鬱陶しいというポーズをとったものの、心地良さに負けて私はされるがまま大人しくしていた。





 部屋でスマホを弄っていると、インターホンの音が聞こえた。二十二時を回った今、宅配便の可能性はなく、誰かが訪問するといった話もされていなかった。

 私はリビングへ行くと、そっと玄関の様子を伺った。

「どうしたんだ、結、突然」


 訪問者は女の人のようだ。下の名前で呼ぶ程度には、親しい間柄なのだろう。

「あー、話は後でするよ。だから入っていい? ってか入るね。お邪魔しまーす」

 そうだ、玄関には私の靴が置いてある。やばい。私何も悪くないけど、それを見られたらなんかやばい気がする。


「あれ、このスニーカー、ちっちゃくない? やだ、ついに彼女できたの。もしかして私、本当にお邪魔だった感じ?」

 しまった、と思った時にはもう遅く、為す術もなく、静也さん以外にこの家に人がいることが、彼女にバレた。

「まぁ邪魔かそうでないかで言ったら邪魔ではあるが、時期を見て結や、父さん母さんにも話そうと思ってたんだ。丁度いい。紹介するよ。しずか、そこにいるだろう。こっちきて」

 呼ばれた私は、隠れんぼで見つかった人間の気持ちで、玄関に立った。


「初めまして。木下しずかです。」


 どんな挨拶が適切なのか分からず、結果最も簡潔な自己紹介をした。出てきたのが大人の女性ではなかったことが意外だったのか、女の人は面食らっていた。

 頭の上にハテナマークをたくさん付けた彼女の代わりに、静也さんが目の前のよく知らない人のことを紹介した。


「結は、七つ下の俺の妹。」

 続けて、どうやら静也さんの妹、らしき人物に私のことを紹介した。

「しずかは俺の元生徒で、保護者が亡くなってしまったこの子を最近引き取った。納得した?」

 多分まだ、納得とかそういう段階ですらなく、彼女は呆然としていた。玄関でいつまでも話すのも、ということで私たちはリビングへ移動した。


「で、こんな時間に何しに来たんだよ」

 二人が話を始めたので、私はテーブルの上にお茶を出した。部屋に戻るべきかどうか悩んでいると、静也さんと目が合い、ソファをトントン叩いた。座れということだ。


「父さんと喧嘩して、頭きて家出たけど急に泊めてくれる人、いなくて。だから兄さんに泊めてもらおうかとおもったんだけど……」

 バツが悪いのか、だんだんと俯き、声は尻すぼみになった。

「喧嘩ねぇ」

 静也さんはそう呟くと、どこか遠い目をしていた。


「しずか、泊めてやってもいいかな?」

「はい。もちろん構いません」

 私が答えると、結さんはパッと顔を上げた。

「いいの!? ありがとう。しずかちゃん。」

 可愛げのある人というのは、こういう人のことを言うのだろうなと、彼女を見て私は思った。


 結さんがお風呂に入っている間、静也さんは家族のことを、私に話した。まるで事務的な説明をするように。

「今の親は、叔父と叔母なんだ。本当の両親は俺が九歳の時に死んだ。無理心中ってやつらしい。学校から帰ってきたら、二人が死んでて。それから俺は叔父さんたちに育てられた」

「そうなんですか」

 

 感情を排除した喋りをした静也さんに、辛うじてそれだけを口にした。何でもないって顔をされたら、こっちも何でもない態度を取るしかないじゃないか。


「結は、何故だか俺に懐いてくれた。兄妹じゃないと知った後も、今日みたいに、気まぐれに甘える妹のように接してくれている。俺は出来るだけ、いい兄さんでいたい。だから、結が泊まるの許してくれて、助かった。ありがとう」

 違うだろう、そうじゃないだろう。それを言うためにわざわざ話したのか。違うだろう。

 

 本当は話したくなんかない癖に。そういうのを、大人の振りって言うんだよ。

 

 私は怒っていた。

 

 でもそれを、表に出すことは憚られた。この人は多分、気づいていないのだ。彼の心はもう、無意識に、そういう態度を取るように出来ている。

 それはきっと、静也さんにとっては鎮痛剤のようなものなのだ。一時的に痛みを忘れて、効果が切れて、次の服用時間までは我慢して、また薬を飲んで。そうして彼は、生き繋いできたのだ。その人生に思いを馳せたら、軽々しく怒ることなどできなかった。大病を治すには、手術のようなリスクを伴う措置が必要で、そんな大役を背負える自信は、私にはなかった。



 翌朝、八時頃起きると、静也さんがソファに寝転んで読書をしていた。ベッドを結さんに貸したのだ。

「おはようございます、いいお兄さん」

「うるさいよ」

 うんざりした顔で体を起こした。


「朝ごはん、パンと目玉焼きでいいかな」

「ああ、悪いな」

「ついでなので。結さん起こしてきてもらってもいいですか」


 私は早速、目玉焼きを作り始めた。最近ネットで片手割りのやり方を調べたので、実践してみたら意外と簡単に出来た。どうしてそんなの調べたかって、出来たらちょっと自分がカッコよくなったような気になるから。


 気分よく焼いた目玉焼きは、丁度いい半熟加減に仕上がった。トーストと一緒にプレートに乗っけると、それなりに朝食といった仕上がりになった。


「わー、朝ご飯まで用意してくれるなんて、しずかちゃん天使?」

 丁度出来た頃に結さんが起きてきた。またすっごい誇張をしたな、この人。

「食べたら、帰れよ」

 静也さんは呆れ口調で言った。


「はいはい。あ、ねぇ、しずかちゃん。今日私とデートしない?」

 彼の言葉を聞き流すと、結さんは私の方を見て、テンション高く、軽いノリで誘った。


「結、俺の話聞いてたか、帰れって言ったんだよ」

「兄さんこそ私の話聞いてた?私はしずかちゃんを誘ったんだよ。」

 結さん、強いな。恐るべし。


「結さんとお出かけ、してみたいです」

 私は誘いを受けた。結さんに興味があったし、女同士のお出かけというのはあまりした事がない。純粋に楽しそうだと思った。


「やった。嬉しい」

 結さんははしゃいだ。

「無理してないか?」

 静也さんは心配そうに尋ねた。

「してないよ」

 

 答えると、それ以上、静也さんは何も言わなかった。

 食器を片付けて、出かける準備を始めた私は、着替えに悩んでいた。メンズ寄りの服しかない。こういう場合、可愛い服を着ていく方がいい気がするけれど、そんな服は持ってなかった。

 

 結局、オーバーサイズのシャツに黒のスキニーという無難な服装に決めると、準備はそれで終わった。

 結さんの方はお化粧や髪のセットなど、色々あるようで、まだ時間がかかりそうだ。パタパタと忙しそうにする結さんを横目に、私も近い未来こんな風になるのだろうかと想像した。


 嗜好が抑圧されていないお陰か、私は可愛い服も、化粧も、嫌いな訳では無い。ただ、私はきっと、それ以上にカッコよくなりたいんだ。私の目指すカッコいいは、外から取り繕う類のものではない。ないが、RPGではレベルだけでなく武器や防具を強くしていくことは大事なように、私にとって、今の服装は鎧なんだ。


 着れる鎧の種類が増えたら、もっと人生楽しくなりそうだ。そう思いながらも、現状はそう簡単に変えられない。当たり前だ。変わると言ったそばから変われる人間がどこにいる。

 静也さんが少しずつでも、心の枷を外せたらいいな。


「おまたせ」

 そう言って目の前に現れた結さんは、朝食を食べていた時よりもキラキラしていて、結さんの鎧は華やかだなと思った。


「じゃ、行こっか」

「いってきます。静也さん」

「いってらっしゃい」

 バタン。ガチャ。そういえば、私がいってきますを言うのは、あんまりないなと、鍵が閉められる音を聞いて気がついた。


 私たちは、電車に乗って吉祥寺へと向かった。結衣さん曰く、女子同士で遊ぶなら吉祥寺がベタなスポットらしい。

 お昼ご飯を食べるまでの間、雑貨屋を見たり、洋服屋が沢山入った施設を回ったりした。ロフトで熱心に文房具コーナーを見る私に、彼女は呆れることなく付き合ってくれた。

「おすすめのボールペン、あるかな」


 そう聞かれ、私は一つ一つ手に取って、ヲタク特有の早口で、それぞれの商品を説明をした。

「同じゲルインクでも、染料系か顔料系で全然違うんですよ。染料系は速乾が売りのものが多いけれど、水には弱いです。顔料系は、染料ほど速乾ではないですが、耐水性は強い。あと、ペン先や重心によって、書き味も大きな差が――」

 やらかした。好きなことはつい、話しすぎてしまう。


「すみません、退屈だったでしょう」

「そんな事無いよ。役に立った。ありがとう」

 気を使わせてしまった。

 結さんはボールペンを一つ手に持ち、化粧品のコーナーへ向かった。そういうコーナーに行くのは初めてだけれど、一人じゃないのは幾分心強かった。


「しずかちゃん、何歳だっけ」

「十二歳です。四月春から中学生です。」

「若いねー。初めて見た時中三くらいかと思った。そっか、じゃあまだメイクはあんまりした事ないかな」

 結さんはリップを二つ持って、んー、と何度も見比べた。


「私、女の子らしくないし、化粧は似合わないと思う」

「今は男だって、メイクをする時代だよ。それに、化粧は自分に似合うのを研究するのが、楽しいんだよ」

 ふふんと得意げに話す結さんは、頼もしいお姉さんに見えた。

 アイシャドウのコーナーに移動すると、沢山の色がずらりと並んでいて、ワクワクした。


「画材みたい!」

「画材? 確かに、そうかも。顔に絵を描いてるようなもんだからね」

 私はそこで、初めて化粧品を買った。オレンジ色のアイシャドウを。

 トイレのお直しブースで、結さんが買ったシャドウでアイメイクをしてくれた。ラメがキラキラして、夕焼けの眩しさに似ていた。


 歩き回った私たちはお腹が空いて、オシャレなカフェレストランに入った。

 ふわふわ卵のオムライスは絶品だった。今度家で作れないかチャレンジしてみよう。

「いやー、美味しかったね」

 満足そうに呟いた。

「美味しかったです。とても」

 彼女はアイスカフェオレをストローで吸った。


「私と兄さんがいとこだってこと、兄さんから聞いた?」

「はい」

「兄さんはね、いつも完璧なんだ」

 知ってます。

「完璧であることが義務だと思ってるの」

 知ってます。


「私はそれが気に食わなくて、必死でどうにかこうにか、兄さんにちょっかいを出した。毎度さらりと躱されるんだけどね」

 結さんは氷だけが残ったグラスの中で、ストローを回した。


「昨日ね、夜、母に、仕事が大変だって愚痴を漏らしてたの。あ、私、保育士の仕事してるんだけど。そうしたら父が、『一つも文句を言わず立派に教師をしている静也を見習え』とか言ってね。頭にきたから、『父さんがそんなんだから兄さんは家族に文句の一つも吐き出せないんだよ』って言い返してやったわ」

 この人が静也さんの妹であることに、私は感謝した。いや、正確には、妹であろうとしてくれていることに、だ。


「兄さんは、長期休みの度に律儀に帰ってくるし、母の日や父の日、誕生日のプレゼントを欠かしたことは無い。それは一見、良好な家族関係に見えるけれど、違う。それも全部、義務の内なんだろうね」

 カラカラと鳴っていた氷は、動きを止めた。

 そうか。静也さんが私と似ていると言っていたのは、自分に価値を感じていないところだ。付加したものを取っ払って、本当の自分だけになったとき、自分には何も無いと思ってしまう。

 そう思うことで納得したいんだ。自分が不幸なのは自分のせいだからと。


「でもさ、兄さんの部屋突撃したら、しずかちゃんがいたの」

 急に話は私の方を向いた。

「凄くびっくりした。兄さんが義務以外で自分から人と関わっているところ、私は見たことないから」

 拗ねた子供の顔をした結さんは、キュートだ。

「しずかちゃん、兄さんのことよろしくね」


 結さんは言うだけ言ってスッキリとした顔で、伝票を取った。

 きっと彼女は、優秀な保育士さんなんだと思った。

 かなり歳下の私に、対等に接してくれたからだ。そういうことが出来る人は限られているということを、私は知っている。

 すっかり結さんと打ち解けた私は、別れ際にメッセージアプリのIDを交換した。

「また遊ぼうね」

 そんな同級生のようなセリフを残して、彼女は背を向けた。


「ただいまー」

 誰かのいる家に、この言葉を言うのは久しかった。

「おかえり。結に振り回されて疲れなかったか」

「静也さん、自分の妹のこと信用してないの?」

 私が軽くにらむと、静也さんはへぇ、と腕を組んだ。

「仲良くなったのか」

「うん」


 それだけ言うと、私は自室に入った。先生の、そして私の、手術をするべきだ。結さんの想いを受け取って、共有したのだから。私が生きたよりも長い時間、静也さんのことを見てきた人に、よろしくねと言われたんだ。愛されていることに正直になれないのは、辛いよ。いつか素直になろうって先延ばしにして甘えていたら、その人はある日突然に消えてしまうんだよ。

 静也さんがそんな後悔をするは、私は嫌だ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る