第2話 苦手な先生
⒉
結局先生は私の家に泊まることになった。病院のコンビニへ行った先生は、やたらと大きなビニール袋を手に持っていた。その中から小さいペットボトルを取り出して
「はい、持ってて」と差し出した。
気のきく人だな、と思った。私は末端神経冷え性で、それこそ死人レベルで指先が冷えるのだ。さっきまで暖かい室内にいたとしても、夜風に当たればすぐに冷える。上着を着て来なかったから、体も寒い。たまたまだろうけどレモン味のこの飲み物も好きだ。でも、今の私には必要のない物。
寒さに浸っていたい気分だから。
タクシーに乗るほどの距離ではないので、病院から家までは歩いて帰った。その間ずっと私達は無言で、先生は手に持った袋をガサガサ鳴らしながら私の半歩後ろをたどっていた。
家に到着すると、玄関の扉を開けて、つい癖で
「ただいま」
と口が勝手に動いた。
前を向いたまま、振り返ってからどう誤魔化そうかと考えていたら、先生が靴を脱いで私を追い越した。そして、振り向いてこう言った。
「おかえり」
静かで綺麗な笑顔だと思った。
ふと、頬に何かが流れる感覚がした。
「……なんで」
溢れて止まらないそれは、廊下の板にぽたっと音を立てて次々に落ちていく。先生はほんの少しだけ眉を八の字にしながら黙って私を見ていた。
「風邪を引く。そろそろ中に入ろうか」
先生は未だに泣きじゃくる私の手を取ってリビングへと向かった。
引っ張られるがままにしていると、ソファーに座らされた。手が離れたかと思うと、少ししてテーブルに置いてあった箱ティッシュを渡された。そして、隣が沈んだ。
三十分程度、そうしていた。が、私のお腹が盛大な音で鳴り響いた。どうして、こんなときでもお腹が空くんだ。
「さっきコンビニで弁当買ったんだ。食べよう」
そういえば、先生だって何も口にしていなかっただろう。
「すみません。お腹空いていましたよね」
「はは、まあ、あと少し遅かったら俺の腹が鳴っていたかもな。でも、安心した」
「……俺、ですか」
「あー、そこなのか。引っかかるの」
「初めて聞きましたよ、俺って言うの」
「プライベートでは基本、一人称は俺だよ」
そうなんだ。ということは、今はプライベートなのか。いや、違うだろうけど。青木先生がこうして隙を見せるのは珍しいな。疲れているのだろう。当然だ。
「お弁当ありがとうございます。食べましょうか」
「だな。食べよう」
弁当の付け合わせにはポテトサラダが入っていた。材料、完璧にペースト状になったじゃがいも、味付け。とにかくおじいちゃんのポテトサラダとは全然違う。
「レシピ、教わっといてよかった」
「何のレシピ?」
黙々と食べていた先生がこちらを見て言った。声に出ていたみたいだ。
「ポテトサラダです。おじいちゃんの得意料理で」
「へぇ、いいね。ポテトサラダ、俺も好き」
会話に誘導されたのか、先生は付け合わせのポテトサラダを口に入れた。
「あ、今日作るつもりで材料買ったので、よければ明日の朝に作りますよ」
「本当? そりゃ楽しみだな。そうそう、明日なんだけどさ。今度は俺の家に泊まってみない?」
後半、ものすごく唐突かつ、意味不明ですが。
「ええと、何故でしょう」
「俺はこの先、君と一緒に暮らして生きたいと思っている。冗談なんかじゃない。だから考えてみて欲しい。どの家で住むのがいいか」
やはりこの人の考えていることは理解できない。
「一緒に暮らすことについて同意前提……」
「木下にとって一番いい選択肢だと思うぞ。施設は不自由があるし、今から里親と暮らすのも大変だ。その点、俺は親子関係を求めていない。勿論そこそこ普通程度の生活を保障する」
「いや、確かに私には好都合ですけど、先生にメリットがないですよ」
「あるぞ。メリット」
先生は真顔で言った。
「毎日おかえりと言ってくれる人ができる」
なんていうか。
「小学生の私が言うのもアレですが、そういう人が欲しいのなら結婚したほうがいいですよ」
「うわぁ、今木下、同情なんかするな、と思っただろ。そう思いながら俺に同情しただろ。酷いなぁ。そんな出会いがあったら俺だってこんなこと言わないのに。だからさ、結婚できない可哀想な俺と一緒に暮らしてよ」
青木先生は、普段はもっと明るいし、気のきく人だ。容姿も割といい。つまり、モテる。おかえりを言いたい人など、多分その辺にいるはずだ。
「考えさせてください」
でもこう答えてしまったのだから、まんまと乗せられているようで居心地が悪い。
「分かった。返事はそうだな、明後日、月曜の放課後に聞くよ。場所は分かるよな」
「はい。ではそれまでに、きちんと考えます」
乗せられるかどうか一度検討してみようと思った一番の理由は、今日の先生が、先生じゃなかったからだと思う。
× × ×
屋上の扉の前、階段の踊り場。六年生になってから、ここが私の秘密基地だ。屋上へと続く階段は、六年生だけが登下校の際に使用している。屋上の校旗を付け外しする当番があるからだ。そして、普段屋上を行き来するのはその当番が回ってきた子だけ。時間は朝と下校時の二回。先生達も滅多に使わない。つまり、この踊り場は一人になるのに最適な場所だった。
私は、中休みと昼休みの大半をここで過ごしている。友達が嫌いな訳ではないけれど、休み時間くらいゆっくりしたい。一人でぼーっとする時間が私には必要なのだ。いつものように腕を組んで、目を閉じる。静かな空気の中に、外で遊んでいる子達の元気に騒ぐ声と、暖かい日差しがぼんやり届いて混ざる。この距離感が丁度いい。私には、これくらいの方が。
心地良い空気感に浸っていると、トン、トン、トン、と足音が聞こえた。すぐ下の階は六年生のクラスがあるのだから、そういうことはよくある。でもみんな、外へ出るために降りていく。だからいつものようにすぐに遠くへ行くだろう、と思っていたその音は、徐々にこちらへ近づいている。卒業まであと少しという所で秘密の場所がバレるなんて、惜しいような気はするけれど、まぁ別に屋上へ立ち入ってはいないし、悪いことはしてないよね。なんて開き直ったところで相手の姿が見えた。
「やっぱり、ここにいたんだ」
得意げな、そして意地悪そうな顔で担任の青木先生は言った。
「やっぱりって、どうして私がここにいることを知っているんですか」
「見たことあるんだ。休み時間の終わりに、階段から降りてくる木下を。だから知ってた。休み時間、いつも一人でここにいることを」
それってかなり前からバレていたのか。ならどうしてその時に注意やなんかしなかったんだろう。
「知ってたけど、まだ休み時間をここで過ごすようになる前、教室の机で突っ伏してそれでもクラスの子らに囲まれていた君も知ってる。授業で寝られても困るからな、屋上へは職員室で鍵を借りなきゃ入れんし、大丈夫だろと思って放置してた」
流石の観察眼と言うべきか、放任主義と言うべきか。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして」
「でも、じゃあどうして今日に限ってここに来たんですか。放置してたのに」
「あー、それね。男子たちにサッカーやろうぜって誘われたんだけど今日ちょっとだけ頭痛くて、あんま動きたくない訳なんですよ、で、教室に居られなくなって」
参った。とでも言いたげな顔。でもそれなら逃げ場は職員室でいいのではないだろうか。
「職員室もなんだかんだガヤガヤしてるからなぁ、図書室で教師が本読まずにぼーっとしてるのもアレだろ?外で見つかったらそれこそサッカーやらされるし、って考えてたらここが浮かんだ」
それはそれは。
「なるほど。そういうことなら、私もう戻りますね。昼休みくらい、少しでも休んでください。じゃ」
私はスっと立ち上がって、階段を下りた。
人が居ないことを確認すると、廊下を通って自分の教室へと入った。クラスの子達が目的を決めて移動した後の昼休みの教室は思ったよりも閑散としていて拍子抜けだ。
席に座り、頬杖をついて、今後あの場所を使うかどうかを考えている。青木先生は怒っていなかったようだから、あの場所を休み時間に使用することについては問題はないだろう。問題があるとすれば、青木先生が何時でも来れるという状況で私の心が休まるかどうかだ。先生のことは嫌いではない。むしろ先生として尊敬できる。
けれど、こちらの思考を先回りするような頭の回転の速さと、余裕な大人の態度が苦手なのだ。自分が大人ぶっているだけの紛い物であることを嫌でも認識させられてしまうから。と言っても、今日はイレギュラーだっただけ、いつも生徒に囲まれている青木先生が頻繁に訪れることもないだろうと結論づけ、これからもあの場所で休み時間を過ごすことを決めた。
今日は朝から雨が降っている。二時間目が終わり、教室の中は途端ににぎやかになった。
こうなると休み時間をほとんどの子が教室や廊下で過ごすので、抜け出すと目立つし、階段を上る姿を見られやすくなってしまう。大人しく読書でもしようかと本を机から取り出したところで、廊下の方で談笑していた女子グループに呼ばれた。
「あ、ねぇしずか、聞いてー」
「なになにー?」
とっさにモードを切り替える。私は今から、頭良くて運動もそこそこで誰とでも程よく仲のいい木下しずかさん、だ。
そうして何でもない会話で時間を潰し、三、四時間目を終え、給食を食べる頃に雨は上がった。グラウンドはぬかるんでいるかもしれないが、中庭や遊歩道は余程の降水量でもない限りすぐに使えるので、クラスの半数は外へ出るだろう。
そう考えながら牛乳を一気飲みした。ミルクティーやココアは好きだけど、牛乳単体で飲むのはあまり好きじゃない。だからいつも最初か最後に一気に飲み干している。あまり味を感知しないように。すばやく。苦痛は短い時間で済ませるべきだ。
配膳がスムーズだったこともあり、ごちそうさまの時間より十分早く食べ終わった。さっき結局読めなかった小説でも読もうかと、私は机の上の食器をワゴンへ片付けた。
席に座ると、班でくっつけた机の向かいにいる中山快がこちらを向いていた。
「木下、六時間目の算数のプリントやった? 分かんないとこがあってさ、今日当てられそうなんだよ」
「やったよ。見る?」
「流石話が早い、さんきゅ」
プリントを渡して、私は読書を始めた。読み進めると結構面白くて、ごちそうさまでしたの合唱が終わると本を持って教室を出た。
昼休みは図書室が開いている。本を読むのが目的ならそっちでもいいかな、と思案したものの、やはりいつもの場所の方が落ち着けそうだと思い直し、私は階段を上った。
するとそこには先客がいた。青木先生だった。
「よっ、木下」
「よっ、ってどうしたんですか」
今後もここに来ることを放置してくれるだろうと踏んでいたのだけれど。
「この間、僕のためにここを譲ってくれたのにお礼言ってなかったから。ありがとう。助かったよ」
「いえいえ、そんなのいいのに」
「だって木下、僕のこと嫌いだろ。なのに僕のために譲ってくれるなんて優しいなと思って」
避けてることバレているのか。分かりやすく避けるようなことをしただろうか。っていうか
「あの、嫌いではないです」
「そうなの?」
「ただ、親がいないので、あまり先生の世代の方と話す機会がなくて、女の人相手だとまだマシなんですけど、えーと、そのそういう感じで、だから嫌いではないです」
嘘ではなかった。青木先生だけでなく、そもそも男の人と会話をするのが苦手なのだ。嫌いと苦手は、全然違う。
「そっか。いつも必要最低限の会話以外避けられてるから嫌われてんだと思ってた。」
「ごめんなさい」
「え、なんで謝んの? むしろ嫌われてなくてほっとしてたとこだよ」
ほっとしたという割に、最初から落ち込んでいる感じはしなかったが。
「あ、いいこと思いついた。木下苦手なら練習しないか、ここで」
「練習?」
「そう。これからずっと、苦手なままは困るだろ。だから僕と話をして、少しずつ慣らしていくんだ。休み時間を潰すのも良くないから、とりあえず、雨の日の放課後なんてのはどうだ?雨の日は校旗を上げないから、当番の目も気にならない」
このままではいけないと、確かに思う。でも
「先生と一体何の話をすればいいんでしょうか」
「それは、その時の気分で? 適当に?」
急に雑になるんだよな。この先生は。
「木下が話したいことない時は、僕の話を聞く。それじゃ駄目?」
面倒臭い。この人の提案を断るのは、とても面倒臭い。
「駄目じゃないです。練習、お願いします」
だからつい、イエスと言ってしまったのだ。
「こちらこそ、よろしく」
こうして私と青木先生は、『私の苦手克服会議、不定期開催、秘密基地にて』の約束を取り決めたのだった。取り決めさせられた、とも言うか。
あれから一週間が経った。さっき、家を出る前に見た天気予報で、秋雨前線が発生したと言っていた。私はオレンジ色の傘を差して学校に向かった。雨の日はランドセルが濡れる。サブバッグなんて持ってたら最悪なんだよなぁ。今日は荷物が少なくてよかったけれど。
昨日の夜から降り始めた雨で、道に水たまりができている。いつからか水たまりは踏まず、避けて歩くようになった。わくわくで長靴を履いて、バシャっと勢いよく踏むのが楽しかったのはもう何年前だろう。大雨でもない限り長靴も履かなくなった。そうしてどんどん、特別だったものは大したものじゃなかったことに気づいていくのだろうか。
そんなことを考えているうちに、学校へ辿り着いた。校門の前に立ってゆく人ゆく人に朝の挨拶をする五年生の当番の子達にお疲れ様、と心の中で労って、下駄箱へと向かった。学年ごとに何かしら当番があるが、五年生の挨拶当番が一番頻度高くて大変だったんじゃないかと思う。お辞儀の角度とか、声の大きさとか、軍隊かよってくらいうるさい先生がいるんだよな。
そういえば、青木先生が見回りの時なんて全然、緩く雑談してたな。
雑談か。今日、雨だから例の練習、決行するのかな。まぁ、気にしすぎるのも馬鹿らしいし、ちょっと待って来なかったら帰ればいいか。私は履きかけの上履きのつま先をトンッと地面に軽く打ち付けて教室へと向かった。
六時間目の授業まで滞りなく終わり、日直が帰りの会で今日の振り返りをしているのをぼーっと聞いた。明日の時間割の確認が終わると、先生が話し始めた。
「日直、お疲れ様。明日は漢字の五十問テストあるから、ちゃんと勉強してこいよー。雨降ってるから気をつけて帰るように。以上」
テストという言葉に反応して教室はざわついた。五十問テストは特にみんなが嫌がるテストだ。私は漢字を覚えるのが得意だから、そんなに嫌でもない。
日直が号令をかけ、帰りの挨拶が終わると更に騒がしくなった。
青木先生の方を見ると、周りにはすぐに人だかりができていた。
「先生、何の漢字が出る?」
「ドリルと教科書、どっちからが多い?」
「制限時間長めにして欲しいな」
これは別に、明日がテストだからこうなっている訳では無い。
本当はみんな、テストの話なんかどうでも良くて、青木先生とコミュニケーションを取りたいだけ。人気者は大変だ。
ランドセルを背負うと、後ろの方から教室を出た。隣のクラスはまだ終わっていないようで、ドアが閉められている。廊下の人通りは少ない。とはいえ、今上へ向かってうちのクラスの誰かに見られるのは面倒だ。これ以上秘密基地に侵入者を増やしたくない。私は隣のクラスの人に用がある風に装い、本を取り出して読み始めた。
すっ、と世界から隔離されるように、教室の中から聞こえる笑い声が、どんどん遠ざかっていく。何かに集中しているときの感覚が、私は好きだ。余計なことを考えなくて済むから。
もう何分経ったのか、分からない。きりのいい所まで読み、意識を物語から戻すと、いつの間にか隣のクラスのドアが開いていた。
待ったことは待ったのだから、様子を確認して、まだ談笑しているようだったら、もう帰ろう。そう決めて教室のドアの前を通り過ぎた。教卓には五人くらいの生徒と先生の姿があり、まだ話してるっぽいなと思ったその時に、チラッと先生はこちら側を見た。表情までは確認できなかったが、やってしまった。こうなったら帰る訳にはいかないだろう。
はぁっと短くため息をついて、すっかり人気のない廊下を歩く。
階段を一段一段、ゆっくり上がる。放課後にここに来ることは無かったから新鮮だ。別の場所みたいに空気が違う。
無数に立ち続ける水滴の落ちる音が、うるさい。いつもは落ち着く音なのに。
窓を眺めても、朝から変わらない空の色は退屈だ。私は今、どうしてこんなにブルーになっているんだろう。別に、練習が特別嫌でもなければ、楽しみにしていたということもない。ただ、生徒に囲まれた先生を見ると、わざわざ私に構わなくたっていいじゃないかという気持ちになった。他人に何かを期待することはしたくない。
期待は自分にだけすればいいんだ。応えるのも自分。じゃないといつか何かの拍子に無くなってしまうから。先生は、どこか期待してしまいたくなるような雰囲気を纏っていて。でも私には、私に見合う明度がある。きっと、先生は明るすぎる人だ。
明日の漢字テスト、今回も満点を取れるようにしないと。そういう、意味の無いような小さな点数の積み重ねで、私は出来ているのだから。テストの点数や通知表でしか自分の価値を生み出せないような、ちっぽけな人間なのだ。しかし、そんなものでも無くなったら、私という価値は底を尽きてしまうだろう。
何となくもう本を読む気にはなれず、いらない思考をぐるぐる回して、ランドセルごと壁に寄りかかる。
「わっ」
ズズズ、と下に引きずるように腰を下ろすと、教科書が沢山入ったそれは、重力に従って私のお尻を早く床につけようと引っ張った。
思わず漏れた声と同時に、教室に残っていたクラスメイトたちの声が近づいていた。
「じゃ、気をつけて帰れよー」
真下で先生の声が響いた。
クラスメイトの声は、それから徐々に下の方への向かっていった。
彼女らの声が聞こえなくなると、今度は階段を上る音がした。結構小刻みな、急いでいる足音。
「ごめん! 遅くなった」
先生は申し訳なさそうに顔の前で手を合わせた。
「いえ、大丈夫ですよ」
「本当ごめん」
「遅れたのは先生のせいじゃないでしょう」
「そう言ってもらえると助かる。」
私の隣に体育座りした先生は、いつもより少し小さく感じる。
「で、先生。今日は何を話してくれますか」
「木下、最初から丸投げかよ。はは」
さっきの態度はなんだったのか、いきなり先生が背中を丸めて可笑しそうに笑った。
「提案したのは先生じゃないですか。」
「うん、そうだね。悪い。違うんだ。さっきまで女子たちのマシンガントークの中にいたから、反応が真逆で、面白くなった」
「別に面白くないですよ、私と話しても」
だからもう、今日限りで終わりますように。
「ノーノー、他人の感情を決めつけるのは良くない。それは僕が決めることだよ」
先生はおどけた調子で私の発言をたしなめた。
「そうですね。すみません。あ、聞きたいこと思いつきました。明日のテスト、何の漢字が出ますか」
本当はそんなことどうでもよかった。さっきのクラスメイトのように。つまらない事を聞いて、早く私から興味を捨てて欲しかった。
「いやー、面白いよ。木下」
え、どの辺が。私は瞬きを二回高速でして、横を向いた。
「だって、一ミリも知りたいと思ってないだろ。それ」
まだ笑いながら、あっさりと私の本心を当てた。
「そんなことないですよ。いい点取りたいですから」
「自分の実力で、ね。ズルをしていい点取っても君はそこに意義を感じはしないよ。自分でよく分かってるだろう」
ひとしきり笑うと、壁にコツンと頭をつけて顔を上げ、なんだか先生らしい表情をしてみせた。それがひどく気に入らなかった。
「先生って、先生ですよね」
おそらく私はムッとした顔をしているんだろう。気に入らない。
こんなことで一々イラついてしまう自分の子供っぽさが。私は早く、大人になりたいのに。
「なんだ、それ」
とんちか、なんて呑気に聞いてくる。どこまでも余裕だ。
「あの、今日はもう帰ります。遅くなるっておじいちゃんに言ってこなかったので」
否。祖父には今朝、帰りが遅くなるかもしれないと伝えた。それに、家は門限がない。突然居残りで作業することもあれば、下校中、友達と話をしていて遅くなることもある。つまり、帰りたいのは単に私がこれ以上平静を保てそうにないからだ。
「そうだな。遅くなってしまったし、今日はこのくらいで」
「はい。それと、なんか今日話してたら、意外ともう苦手じゃないのかもって気がしてきました。だから、練習、もうしなくて大丈夫です。今日はお忙しい中時間を作ってくださってありがとうございました。では」
なんとか笑顔を作って、出来るだけ明るく告げた。立ち上がると、背負ったランドセルの重みを急激に感じた。
「木下」
まだ座ったままの先生は、こちらを見上げた。
「何かあったら、いつでも話してくれていいからな」
寂しそうに眉毛を下げて、のらりくらりとしていない、真剣な眼差しをしていた。意外だった。ただ、教師の仕事の一環として私にかまっていただけなのだと思っていたのに。あるいは、上手く先生が出来なかったことに対して落ち込んでいるのだろうか。
「さ、行くか」
立ち上がった青木先生は、もういつもの雰囲気に戻っていて、そこから感情は読めそうになかった。
家に帰り、リビングのドアを開けると、おじいちゃんがテレビで時代劇を見ていた。いつもと変わらぬ光景だ。
「ただいまー」
「しぃちゃん、おかえり」
幼い頃はともかく、しぃちゃんなんて呼ばれ方はそろそろ恥ずかしいのだが、呼び名を気にしていると思われるのもそれはそれで別の恥ずかしさがあり、言い出せずにいる。
「雨、強くなってきたのか?」
おじいちゃんは、ポケットから取り出したタオルハンカチでせっせとランドセルを拭く私を見て尋ねた。
「うん。結構降ってた」
帰り道、雨は私を咎めるように、バシャバシャと降り注いだ。精神的に未熟であることを自覚させられて、それでイライラしてしまうなんて、私は人間としてまだまだのようだ。
「ランドセルだけじゃなくて、服も濡れているじゃないか。風呂入ってきたらどうだ」
雨ってやつは、真上から降ってくるとは限らないところが厄介だと思う。しかも雨脚が強くなればなる程、風を伴って横から直撃してくるのだ。
「うん。そうする」
風呂から出たら夕飯を作って、食べて、漢字テストの対策をしよう。私が、私を保つために。
× × ×
「お先に」
お風呂から上がった先生は、おじいちゃんの服を着ていた。着ていた、といっても用意したのは私だが。祖父は背の高い人だったので、丈は足りたようだ。
「私もお風呂入ってきますね。水とか勝手に飲んでください」
先生、出てくるの早かったな。もしかして、気を使ったのだろうか。それとも男の人は大体あんなものなのか。いつもより湯船が熱い。おじいちゃんは入浴が好きだった。後に入ったときは、今よりもぬるいお湯加減だった。
熱い湯に浸かり、数か月前から行かなくなった“あの場所”での先生との出来事を思い出していた。
おじいちゃん以外の人にも甘えてもいいのかな。強くなれなくてもいいのかな。本当は自分がどうしたいのか、玄関であの笑顔を見た瞬間から決まっていたんだと思う。だから、どうかあと少し、勇気をください。
勢いよく湯船から立ち上がると、一瞬目の前が真っ暗になった。
長風呂し過ぎてのぼせてしまった。まだ先生の布団出してないから急がないと。
「出ましたよ。今日は布団でもいいですか。」
「全然かまわないよ。ソファーでもいい。それより、髪を早く乾かさないと」
「あ、忘れてました。乾かしてきます」
ショートヘアは乾かす時間が短くて楽だ。ドライヤーが億劫な私には一生ロングヘアに縁がないように思う。
リビングに戻ると、先生が冷凍室からアイスを取り出した。
「勝手に冷蔵庫借りてごめんね。これ、コンビニで買ったやつ。買わなくてもあったみたいだけどね。はい」
「ありがとうございます。先生、夏じゃなくてもアイス食べるんですね」
「風呂の後はアイス! だろ」
「ですね。私もほぼ毎日食べます。おじいちゃんがたくさん買ってくるので」
「確かに、たくさん入っていたな」
「おじいちゃんは、こんなかわいげのない私を甘やかすんですよ」
「かわいい孫だったんだよ。木下は」
「そうですかね」
言いながらかじったアイスはチョコミント味だった。好き嫌いの分かれる味。スーッと甘い、私の好きな味。また、しばらく無言で食べた。食べ終わる頃に
「もしかして、チョコミント味嫌いだった?」などと聞くから
「正直に言うと、ちょっと……いや、ちょっとというか、かなり好きです」
少しイジワルしてみた。最後まで聞いた先生は、一気に肩の力を抜いた。
「そうなのか。俺も好きなんだ、チョコミント味。気が合うな」
「冷凍室にも入っているので、気付いていると思ってました」
「そこまで見なかったなぁ」
アイス談義もそこそこに、私たちは寝ることにした。先生がソファでいいと言い張るので、毛布だけ出した。リビングを抜け、自室のベッドに横になる。今日は休日にしては珍しく早起きだったのに。今は何も考えずに寝たいのに。またさっきみたいに孤独に襲われるのは嫌なのに。眠くない。
眠くもないのにもう目を閉じた。視界が塞がれた分、鈍らせたかった思考は裏腹に速度を上げた。
嫌なことを考える時間になんの意味があるのだろう。楽しいことだけ考えていたい。バカでもアホでも能天気でもいいから。
仕方ない、読書でもしよう。
読書と言っても、読み始めたのは漫画。文字列だけを追っていく気にはなれなかったからだ。
手に取ったのは忍者がモチーフの漫画。最初に買い始めたお気に入りの漫画だ。それに約七十巻もあれば夜も明かせるだろうと思ったのだ。
一気に読み進めて、少年篇が終わった。彼らの抱えている孤独は重い。小さなうちからずっと背負い続けて、これからも一緒に生きていかねばならないのだ。それに加え、復讐の道を選んだ彼は。友達を引き止められなかった彼は。それでも彼らはそれぞれの方法で強くなっていくのだからすごい。死んでも生きるんだって思いがあるのが羨ましい。
正直、私には死ぬほど生きたい理由がない。おじいちゃんがいなくなって、より生きる理由はなくなった。ただ、死にたい訳でもない。死ぬ理由も、ない。
今日は朝食を作る約束をしてしまったから死んじゃ駄目だな。なんて、死ぬ気もないのに考えながら、昨日買ってきたじゃがいもの皮を剥く。床に転がったままだったはずのそれはきちんと冷蔵庫に入っていた。先生が入れてくれたのだろう。お湯を沸かして適当な大きさに切ったいもを入れる。
茹でている間に、きゅうりと玉ねぎとハムをひと口大に切る。茹で上がったいもは完璧に潰さず、 ごろごろ感を残す。マヨネーズはいもがふわふわするまで入れて、塩と粗挽き胡椒で味を整える。これでおじいちゃん特製ポテトサラダの完成。おじいちゃんの料理は基本、感覚勝負だ。そうしたら普段の料理では私も見事に感覚派になった。
ただ、お菓子作りは計量が命。おじいちゃんは作らなかったけど、私はお菓子作りが好きだ。アイスを食べるなら甘いものも好きなのかな。後で聞いてみよう。知らないことが沢山ある。『先生』ではなく『青木静也さん』のこと。
それはそうと、これだけでは最初に出す手料理として物足りない。
先生が起きたらポテトサラダをホットサンドにするとして、あとはスープ。あ、ヨーグルトがあったはず。冷蔵庫を漁った後、コンソメスープに入れるキャベツを切っていると、ごそごそと物音がした。
「美味そうな匂い。おはよう」
「おはようございます。まだ早いので寝てていいですよ」
「大丈夫。いつもよりよく寝たくらいだよ。木下こそ、眠れなかったのか」
誤魔化しても無駄だろう。
「えぇ、でも平気です」
「そう。まっ今日は俺の家に行くだけだし、眠くなったらいつでも寝ればいいよ」
まだ気だるげな足音が遠ざかり、ソファの前で止まる。
「もう朝ご飯食べられますか」
「あぁ。皿運ぶの手伝う」
先生は寝起きのゆったりとした動作でテーブルにお皿を並べて、手を合わせた。
「「いただきます」」
ボサボサ髪で、パジャマで(しかもおじいちゃんの)、しまりのない顔でホットサンドを頬張る先生の姿は何だか不思議で、少し可愛い。
「うまっ」
「よかった」
「これはコンビニ弁当の付け合せじゃ敵わないな」
「そうでしょう」
おじいちゃん自慢の味を褒められて得意気になる。
「朝からちゃんと食べたの久しぶりだな」
「普段はもう少し適当ですけどね。でも、先生朝起きるの早いんですよね。朝食用意する時間ありそうなのに」
「目が覚めるのは早いが、起き上がるのはギリギリなんだ。それに一人だと中々ちゃんと用意する気にならなくてな」
いつもそんな状態で朝から授業してたのか。体調崩しそう……って、これも一緒に暮らす気にさせるための罠だろうか。
「いつも朝は何食べてるんですか」
「水」
「食べ物ですらない……」
「あ、スープおかわりしていい?」
「話を逸らさないでください。これからはせめておにぎりくらいでも食べてくださいよ。おかわりよそってきます」
皿を先生の手から奪い、台所へ向かった。
長めの朝食を終え、着替えて出かける準備をした。先生の家は最寄りから三駅の場所にあるらしい。
「通勤、時間かかりますね」
「そりゃ生徒と比べたらな。会社員だとすれば普通だと思うぞ」
なるほど。社会人って大変なんだな。話しながらの移動は早いもので、もう降りる駅だ。そこから十分程歩いて、先生の部屋があるマンションに到着した。
「着いたな。ここの四階だよ」
先生はエレベーターで四のボタンを押した。
「お邪魔します」
「はいはい、どうぞ」
入ってすぐにリビングが見えた。一人暮らしにしては大きい部屋。綺麗とは少し違う、散かる物がそもそもないと言った方が正しいような素っ気ない部屋。この人は一体どんな生活をしているんだろう。
「じゃ、家の中案内するな」
先生の後をついてまわった。トイレ、お風呂場、寝室。どこもリビングと同じような印象だった。寝室なんて備え付けのクローゼットとベッド以外に何も無かった。
「ここは空き部屋。一緒に住むことになったら木下の部屋になるかな。どう?」
「何も無い、ですね」
空き部屋ってなんとなく物置部屋になりそうなイメージだったけど、この部屋には本当に何も無い。
「使ってないんだから当たり前だろ?」
「まぁ、そうですかね」
空き部屋が最後の場所だったようで、私たちはリビングへと戻ることにした。一人暮らしの男性の部屋、と言うにはあまりにイメージと違った。生活感がまるでないのだ。
リビングは、ダイニングテーブルではなく、ソファとローテーブルが置いてある。そのソファの座り心地がとても良くて、
「うわ……」
と声が出た。
「ははっ、お気に召したかな」
先生はテーブルにコップを二つ置いて、隣に腰を下ろした。入れてくれた温かい緑茶を飲んでほっとしてしまったのか、今意識が半分飛んでいる。こんなに簡単に、他人の陣地で、気を緩めている自分を、私は許せるだろうか。眠り際そんなことを思いながら完全に意識を手放した。
いい匂いがして、目が覚めた。ここはどこだ。
ローテーブルが目に入り、そうだ、先生の家にいたんだと気がつく。
「すみません。寝てしまいました」
「おっ、起きたか。夕飯、カレーでいいかな」
普段料理をしないのなら、食材もないはずだ。私が寝ている間に買い物に行ったのか。
「ありがとうございます。料理できるんですね」
「最低限はな。一人じゃ作る気にならんだけだよ」
確かに、私も自分だけのために料理はしないかもしれない、と納得した。口に運んだカレーの味は、甘口だった。当然辛さはなく、まろやかさだけが口の中に広がった。
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