朝焼けと常夜灯
新田理志
第1話 喪失と
⒈
吸いこまれるような青空、いつの間にか少し近づいた日差し。いつも通りの穏やかな休日。今日は友達と遊ぶ予定もないし、ダラダラして終わるんだろうなぁ。暇を潰せるものが欲しい。後で図書館で本でも借りてこようか。思案しながらカーテンを開けた。
「しぃちゃん、おはよう」
「あ、おはよ」
そうしているうちに、おじいちゃんが起きてきた。取りあえず朝ご飯にしよう。
「朝ご飯、パンでいい?」
「ああ、いいよ」
焼いた食パンにハム、スライスチーズ、レタス、トマトを適当にはさむ。完成。木下家の朝は基本的に雑なメニューである。
「しぃちゃん、今日予定あるか?」
「なんもないよ」
「買い物行かないか。車でショッピングモールまで」
「いいけど、なんで? 買う物あったっけ」
「卒業祝いと入学祝いに、服でも文房具でも、好きな物買ってやるから。自分で選んだ方が間違いないだろう。遠慮はしなくていいからな」
本当はそんなのいいのにと思うけど、ここは素直に甘えるべきなんだろう。
「いいの? ありがとう」
声のトーンを上げてみた。嬉しそうにしてこそ意味がある。
「そうと決まれば、早く準備しなければな」
正解だ。全く、すぐに私を甘やかすんだから。
「張り切りすぎでしょ」
でもやっぱり、緩んだ祖父の顔を見て、悪い気はしない。
朝食を取り終えて出かける準備をすると、私たちは車に乗り込んだ。モールのある郊外に近づくと、都会の狭苦しさよりも解放感がある。
目的地に着いてからは、私がちょっとでも目を止めた物をすぐに買おうとするおじいちゃんを説得するのに必死だった。
お小遣いで買うには高めのペンケースといい紙のスケッチブック。それから服を何着か。ここでお互いの妥協点とした。
「遠慮するなと言っているのに」
「してないって。毎年誕生日にもクリスマスにもたくさん貰ってるもん」
なんとか祖父の爆買いを引きとめて、夕食の買い物をして帰ることにした。今夜は特製のポテトサラダを作ってくれるみたいだ。高学年になってから炊事は主に私の担当だけど、それまでは祖父が毎日作ってくれていた。おじいちゃんの作る料理はおいしいから、楽しみだ。
家に着くと、さすがに少し寒かった。暖房をつけて、荷物を運ぶためもう一度車に戻る。
ずっしりと服の入った袋を持って、玄関前まで来たところで、車の鍵を閉め忘れたことに気がついた。
「おじいちゃん、車のキー貸して」
玄関で声を張る。
「……おじいちゃん?」
そんなに耳は遠くないはずだけど。
トイレかな。仕方ない、取りに戻ろう。靴を脱いでリビングへ向かう。
ふと、足に何かが当たった。ジャガイモだった。
その先で、人が倒れていた。さっきまで元気に運転していた人だった。動揺しているはずなのに、ひどく冷静でもあった。
遂にこの時が来たんだ。
救急車を呼んで、衣服を緩めて、救急隊員が通るのに邪魔な物をどかす。
おじいちゃんは、待っているうちに大きないびきをかき始めた。
病院についてすぐ、学校に連絡した。学校というよりは担任の青木先生に。土曜日でも大抵は出勤しているらしく、すぐに電話は繋がった。
『何かあったら、いつでも話してくれていいからな』
何か月か前の彼の言葉を、その時の表情を、なんでか今、思い出していた。
仕事中に迷惑をかけたくはないけれど、生憎頼りにできそうな大人は先生以外思い付かなかった。
電話ですぐに行くと言った先生は、本当にすぐに来た。ICUには家族しか入ることができないから、先生は外で待っていることになった。
「木下、病室にいるときは先生の事は忘れて、ただそばにいてあげて。でも、そこから出たら僕がいるからね。忘れないで」
「忘れろか、忘れるなか、どっちかにしてください。……でも、ありがとうございます」
病室で、本当に私は言葉通り、そばにいることしかできなかった。時々思い出したように名前を呼んで、手を握っているだけ。おじいちゃんの命があとほんの少しなんだということはお医者さんや青木先生の反応でも容易に想像できた。
今この瞬間に消えてしまうかもしれない祖父に、私は何もできなかった。今日の買い物みたいに、与えるだけ与えていなくなろうとしている。そんなの嫌だよ。恩返しさせてよ。成人式の着物は何色かな、最初の酒はじいちゃんとだぞって、気の早い話をしていたのに。中学の制服も見せてないじゃん。その次は定期テストでいい点取って得意気な顔を披露する予定だったんだよ。ねえ。まだ、駄目だよ。ねえってば。
何時間そうしていたか。おじいちゃんは静かにこの世を去った。
気が早いよ。
立ち尽くした私を時々気遣いながら、看護師さんが祖父の体をきれいに拭いている。
ねえ。おじいちゃん。一人でだって生きていけるから心配いらないよ。さっきはつい取り乱しちゃったけど、この日が来ることをずっと前から覚悟してた。だから、大丈夫。
そうやって言い聞かせて平静を装わないと、崩れてしまいそうだった。
何度もしたシミュレーションは意味をなさなかった。
その辺の人よりも孤独に慣れたつもりでいた。
後悔しないようにと、接してきた。
それなのに、空っぽだ。何も見えない。見たくない。
「……した」
「木下」
誰だろう。もう誰かに呼ばれることはないはず。
「だから、忘れるなと言っただろう」
そこでようやく意識が戻った。
「あ、先生」
「あ、じゃない。手続きとかは僕に任せてくれればいい。取りあえず遅いから帰ろう」
驚くほどいつも通りだ。普通は、もっとこう、気まずそうにするものではないのか。
「それから、君を一人にするのは心配だから、一晩泊めてくれないか」
この人は何を言い出すんだ。
「え、いいです。大丈夫です」
「駄目。決定事項」
なら最初から疑問形なんか使わなければいいのに。
「そんなに危うい状態に見えますか?」
「いや、全然。でも、だからこそ心配なんだ」
「どういうことですか」
「とか言いながら、自覚しているんだろう? 君は頭がいいからな」
そうだ。そうだった。確かに青木先生は唯一信頼できる大人だ。だけど、他人のことを簡単に見透かしてくるこの感じも、断る隙を与えてくれない柔らかな強引さも、私は苦手だった。
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