第3話 寒い

 ⒊


 翌朝、私は普段通りに登校し、先生もいつものように授業をした。

 いつものようにとは言ったものの、卒業間近の私達の時間割は、式の練習やレクの話し合いばかりだ。先生の腕がいいのか、やるべきカリキュラムは余裕を持って終わっていて、本来国語や算数だった時間を度々レクやその準備に使用していた。

 青木先生は、自分たちで企画、実行をするように。と極力口出しせず、その間教卓で何やら仕事をしている。


 私はというと、あの遊びがいい、この遊びがいいと大真面目に議論するクラスメイトを頬杖をついて眺めていた。


 もう話し合いなどせずに、この瞬間から全部の遊びをやっていけばいいのにと思う。いや、分かってる。話し合いの過程から彼らは楽しんでいるのだと、分かってはいた。それでも私にとっては何をしようがどうでもいいことに変わりはない。こういうことに無邪気にはしゃげる気分ではいられない。


 我関せずに傍観していると、近くの男子と何をしたいか相談でもするのか、なぁ、と左隣に座る中山が声を発したのが聞こえた。

「おーい、俺、木下に話しかけてんだけど」

 って私か。

「ん、どした?」

「この感じだと、多分バスケになりそうじゃね?」

「あー、かなぁ」

 

 雑に相槌を打つ。すると、多数決をとりまーす! とレク係が声を上げた。一人二回手を挙げて、多かった順に実施していくらしい。

 

 私は人気がありそうなバスケとドロケイに手を挙げておいた。案の定、その二つが圧倒的に多く、体育館レクの日はバスケ、校庭の日はドロケイという具合でまとまった。

 次に、バスケのチーム決めが始まった。

 黒板には男女混合、五、六人で一チームと書かれている。

「木下、バスケ、一緒のチームでやろうぜ」

 それを見た中山が真っ先に誘ってきた。

「おっけー」

 

 それから中山は、座ったまま体をくるりと捻った。私も後ろを向いた。

「誠、涼真! 同じチームでいいよな」

 後ろの席の吉村誠と、佐田涼真のことも続けて誘う。

「もち、いいに決まってる」

 

 よっしーはニッと笑って頷いた。

「ああ。あと女子一人だな」

 

 佐田が呟いた。普段の生活班は三十二人を八で割った四人班となっている。卒業前ということで最後の席替えは自分たちの好きにしていいことになり、なんだかんだそこそこ気の合う私達四人は同じ班になった

 だから、レクのチームもこのメンバーで、というのは自然の流れで、それは周りのみんなも同じだ。既にある程度メンバーが固まりつつある。

 そんな中、私は一人、チームに入れたい子を思い浮かべた。

 立ち上がり、私達廊下側の席とは反対の窓側最後方の席へ向かった。

「よかったら、一緒にやらない?」

 

 焦る様子もなく、一人窓の外に目をやっていた彼女に、私は声をかけた。

「私でよければ」

 目線を私に合わせると、彼女――宮崎紗良はそう答えた。


「ミヤがいいから誘ってんだよ。最初から私が来るのを待ってた癖に」

「あれ、ばれた?」

 私以上に本の虫で、基本寡黙なミヤは、ふふ、と笑い出した。本当のところは、話すとユーモアがあって何事も器用にこなせる子なのだ。対人関係節約モードを解除して、いつもそうしていればもっと沢山の人に好かれるだろうに。そう思う一方で、自分の中で生きていて、優柔不断さがないミヤのことが私は好きだ。羨ましくもある。


 自席に戻ると、三人にミヤの勧誘に成功したことを報告した。

「お、ナイス。宮崎、意外と運動出来る方だよな」

 中山が好感触を示した。そうなのだ、彼女は運動もそつなくこなす。あまりにもさらっと無駄なく、目立った動きはせずに出番を終えるものだから、気付く人は少ないが。


「中山分かってんねー。じゃ、メンバー決まりで」

 お仕事完了。

「俺ら、全員割と動ける方だから、もしかしたら、一位取れちゃうかもな」

 よっしーが言った。

「ただのレクだぜ。楽しけりゃそれでいいよ」

 佐田の言葉に、私も同意だ。


「ま、それもそうだなー」

 一位にこだわりはないのか、よっしーはすぐに頷いた。

 そうこう言っていたらチャイムが鳴り、六時間目の終わりをつげた。



 分かるよな、と言われた場所が、もしも私の思い浮かべているところ以外だったら、それがどこなのか全く検討も付かない。

 逆に言えば、その場所は屋上の手前の階段の踊り場――私の秘密基地で間違いないはずだ。


 帰りの会が終わってすぐ、いつものように生徒の輪の中心となった先生は

「ごめん。今日は職員室でやらなきゃいけないことがあるから、またな」

 そう声をかけて、そそくさと教室を後にした。


 今日は晴れているから、校旗の当番が屋上へ出入りする。彼らの仕事が終わるまで待つ必要があり、急ぐ理由はない。


 ならば本当に職員室で急ぎの仕事があるのかもしれない。どのくらいかかることなんだろうか。この後私に予定などないのだから、待つのは別に構わないけれど。


 校旗を持った子が職員室へ旗を返しに向かっているのを確認すると、私は教室を出て、秘密基地へと赴いた。

 そこにはまだ誰もいなくて、でも、雨の放課後に来た時とは違い、薄暗さも雨の音に包まれた静寂もなかった。


 代わりに、学校から解放された子供たちの談笑する声が飽和している。日も延びてきたせいか、休み時間の雰囲気とさして違いがなかった。

 すっかり馴染んだ壁際に腰を下ろすと、階段を上る音がした。今日はやけにゆっくりで、もしかして先生、緊張しているのかもしれないなと思った。


「待たせたね」

「全然待ってないです。今来ました。職員室での用事はもう大丈夫なんですか」

「あぁ、あれね。校旗を戻しに来るのを先回りして待ち伏せするのが用事、だったから。もう済んだよ」

 なるほどそういうことか。


「それならいいですけど」

「うん」

 口角をを僅かに上げて、それでも固い印象を与える顔が、さっきのかもしれないを確信に変えた。

 

 脚を伸ばして座っている私と向かい合って立っている先生は、“練習”のあの日ように隣に座る予兆をまるで見せない。

 私は立ち上がって、それでもまだ目線の上にある先生の顔をしっかりと見据えた。

「先生。いや、青木静也、さん」

「はい」

「お世話になっても、いいですか」

 先生はゆっくりと瞬きを数回した。


「え、いいの?」


 やがて、間抜けな声で聞き返してきた。

「いいの?って先生が分かんなきゃ私にも分からないです」

「あ、いや。そうじゃなくて」

「私には好都合、なんでしょう」

 これ以上に都合のいいことなんて、多分ない。


「うん、絶対。君が生活しやすいように、出来ること全部やると約束するよ。これからよろしくな」

「はい。私もちゃんと、おかえりって言います。」

 こうして私たちはまた同じ場所で、今度は、親子、兄妹、親戚、……どれとも違う、名前の無い関係の同居生活をスタートさせる取り決めをした。



 通学の関係で、私が小学校を卒業するまでは、私の家に先生が泊まることになった。

 十九時を過ぎた頃、先生は大きなスーツケースとリュックを持って、家の中に入った。

「えーと、おかえりなさい?」

 私は早速、業務を遂行した。

「ただいま?」

 にも関わらず、先生まで不思議そうに答えるから、私たちは顔を見合わせて笑った。慣れるにはまだ、時間が必要そうだ。


 先生が来る前に適当に冷蔵庫の残り物で作った野菜炒めと味噌汁を食べながら、明日の予定についての話をした。

「明日は午前授業で終わる。学校が終わったら、この家で落ち合って、火葬式を行う火葬場に向かうよ。」


「はい。よろしくお願いします。手続きとか、色々ありがとうございます」

 先生がいなかったら、誰がどうやってこういうことを決めてくれたのか、考えると怖くなる。こんな状態で、一人でなんて生きられるはずがない。

「いえいえ、ってどうした?」

 先生は箸を止めたままの私を覗き込んだ。


「いやっ、なんでもないです」

 そう言った私をそれ以上追求することはなく、先生はご飯を食べ進めた。

 夕飯を食べ終わると、先生が食器を洗ってくれた。

 お風呂に入り髪を乾かした後、冷凍室を開け、アイスを二本取り出した。

「食べますか?」

 片方を差し出す。

「さんきゅ」

 受け取った大きな手に、一瞬触れた。

「つめたっ」

 先生が驚いた声音をあげた。

「アイスですからねぇ」

 

 でも、そう言ってしまう気持ちは分からなくもない。反射というやつだ。私も皿が熱い時、結構なリアクションを取ってしまうことがよくある。

「違うよ、手。木下の手、すごく冷たかった。風呂の後なのに」

 ところがどうやら違ったらしい。

「末端神経冷え性なんですよ。でも冷たいだけで、これといって特別困るようなことでもないですから」

「アイス食っていいのかよ」


 青木先生は結構、大袈裟に心配するんだな。

「大丈夫ですよ。暑がりの人が、あえて激辛ラーメン食べたりするじゃないですか。それと一緒なんで」

「絶対違うだろそれは」

 言いながら先生は袋を開けた。


 年季の入った三人がけのソファに座り、彼にならってアイスを取りだした。

 今日食べているのは、バニラアイスをチョコでコーティングしたもの。このチョコがパリパリしていなくて、口の中で滑らかに溶けるのが、たまらなく美味しい。

 

 アイスを食べ終わると、祖父の書斎、という名の物置部屋を案内した。一応先生が来る前にいらないものはどかして、最低限の掃除をしてある。

「ここは先生の部屋ということで、自由に使ってもらって大丈夫です」

「あぁ、ありがとう」

「しばらく布団かソファで寝てもらうことになりますが、すみません」

 

 ベッドは私の部屋ともう一つ、祖父の寝室にもあるが、亡くなったばかりの人のベッドで寝るのはいい気がしないのではないかと思った。それに、ベッドで寝るにはシーツを洗う必要があるので、今日のところはどのみち布団か、一昨日のようにソファで寝てもらうしかなかった。


「全然、構わないよ。寝具にこだわりはないからね」

 昨日、先生の家に泊まって、そういう雰囲気を少し感じ取れた。

 こだわりがないというか、自分の生活に執着がない人なのかなと思った。シンプルで必要最低限の家具しか置いていないところや、生活感のなさ。あれだけ物が少ないのに、一人暮らしにしてはやや広い部屋が、漂う寂しさを余計に助長していた。

 

 先生をしている時の彼は明るくて、とてもあのような印象の部屋に住んでいる人だとは思えない。そのギャップに、私は驚かざるを得なかった。

「そうだ。家にいるとき俺の事は気にしなくていいから、木下の過ごしたいように過ごしてね」

 先生は思い出したように言った。

「はい、ありがとうございます。先生も」

「うん」

 

 私は旧物置部屋、現先生の部屋を出て、自室へ向かった。

 ワイヤレスイヤホンを付け、音楽を流す。このイヤホンは去年の誕生日プレゼントに祖父がくれたものだ。イヤホンだけじゃない。スマホも、この勉強机も、椅子も、私の身の回りの物全部、これまで祖父が私を守ってきた証だ。 意識すると途端に、そこら中から気配を感じた。


 暖かい気配だ。それ故に、寒い。

 一昨日買ったばかりのスケッチブックを開いて、シャーペンで下描きを描こうとした。


 描けなかった。

 

 何を描いたらいいのか分からず、分かったとしても今この大事な紙面を彩る自信がなかった。


 変化が無いままのスケッチブックを閉じると、落書き帳代わりにしている無地のノートを取り出した。

 

 好きな漫画を開いて、黙々と模写をしていく。

 模写は好きだ。何も考えずに模写をしてもさして絵は上達しないなんて言うけれど、今はそれでも良かった。絵が上手くなるためのことでさえ、考えたくなかった。

 何も考えずにできる作業を、私は求めていた。



 いい加減手が疲れたと自覚して、私は模写をやめた。

 時計を見ると、夜中の二時だった。喉が乾き、水を求めに冷蔵庫へと足を運んだ。すると、リビングには先生がいた。明かりを付けて、パソコンをいじっていた。

 

 私に気付いた先生は顔を上げた。

「どうした。目が覚めたのか」

 先生は尋ねた。

「はい。喉が渇いて。飲んだらまた寝ます」

 咄嗟に、さもさっきまで寝ていたようなことを言ってしまったが、もう後戻りはできない。

「そうか」

 追及はされなかった。


「先生は、まだ寝ないんですか」

 大人にとっても、もうとっくに遅い時間だ。朝も早いのに、夜寝るのも遅いんじゃ体に良くない。

「もう寝るよ」

 言うとパソコンを持って立ち上がった。


「せっかく用意してくれたから、今日は布団で寝るよ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 すれ違いざま、先生はポンと私の肩を軽く叩いた。

 冷蔵庫から水を取り出し、コップに入れて一気に飲み干す。


「さむっ」

 しっかり冷やされた水は、私の体の温度を下げた。

 早く毛布にくるまりたかったけれど、歯を磨いていないことを思い出した私は、洗面所へと向かった。

 そこにはまたもや、先生がいた。私と同じく歯を磨きに来たようだ。

 私達は並んで歯を磨いた。私が口をゆすいで、先生も後に続いた。


「今度こそ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 さっきまで感じていた言いようのない寒気は、ほんの少し和らぎ、毛布を掛けると更に温かくなった。



 卒業式の練習二時間、通常授業二時間で学校終えた私は、帰宅して先生が来るのを待っていた。この後、祖父の火葬式を行うことになっている。葬式を行わず、火葬だけをするのだ。その前にお別れの時間、というのが少しだけ設けられるそうだが。


 中身すかすかのランドセルを下ろし、お茶を飲む。

 あとはただ、先生が来るのを待つだけ。

 私がやるべきことは、それしかなかった。


 世間一般的に、最期くらいもっとちゃんとやった方がいいのかもしれない。しかし、おじいちゃんがそれを望んでいるとは到底思えない。だからこれでいいんだ。

 五分も待たずに、ガチャ、と鍵の開く音がした。


「さっきぶりだね。もう準備出来てる?」

「はい。よろしくお願いします」

 私の返事を聞くと、先生は着替えのために自室へと急いだ。

 リビングへ戻ってくると、黒いスーツに黒いネクタイ、所謂喪服、という格好をしていた。


「それじゃあ、行こうか」

 彼は格好に伴いキリッと顔を引き締めて、出発の合図をした。十三時半の予約時間ギリギリに着くと、火葬式は直ぐに始まった。

 小さな頃描いた全く似ていないおじいちゃんの似顔絵と、『いままでありがとう』とだけ書いた紙切れを箱の中へと入れた。先生が便箋のようなものを入れると、箱は閉められた。


 エレベーターの大きい版、みたいな扉が開いて、閉じて、一時間してまた開いて、もう祖父だったとは分からないただの骨が、目の前に登場した。先生と一緒に箸で壺の中へと移していく。最後に「これが喉仏ですよ」なんて言われて、なんだかよく分からない説明をされて、骨上げが終わった。


 小学校の年に一度開催する文化祭のような催しの出し物で、箸で豆(に見立てた紙粘土)を三十秒以内に何個別の皿に移動できるか、というゲームをやったのを思い出した。

 不謹慎ではあるものの、じゃあこんなの、どんな気持ちで行えばいいのか。本当に意味なんてあるのか。そういうものだからってどういうものなのか、納得する説明を出来る大人は多分いない。


 何故なら私は納得する気がないからだ。

 こういった儀式を経たら祖父が死んだという実感が湧く、なんて都合のいい心情変化は起こらないみたいだ。

 そうだ。いつだって現実なんて、そんなものだ。



 火葬式が終わり、帰宅するとすっかり夕方になっていた。

 先生がネクタイを緩めながら着替えに行った。


 私は手を洗うと鍋に水とパスタを入れ、火にかけた。塩をシャシャッと振る。茹で上がった麺をザルにあけ、買い置きしてあったトマト味のソースと一緒に皿へ移す。

 お昼を食べ損ねたせいで私と先生はとてもお腹が空いていた。


 持って帰ってきた遺骨や書類かなんかを整理していた先生は、私がテーブルに皿とフォークを置くと、手を止めて椅子に座った。

「いただきます」

 二人とも、やっとありつけたご飯に夢中になった。先生はあっという間に完食し、背もたれに体を預けてはぁーっと脱力した。


「先生、今日は、いや、今日もありがとうございました」

「木下も、疲れたろ。お疲れ様」

「何から何まで任せ切りで、すみません」

 先生は、家族でもなんでもないのに、どうしてここまでしてくれるのだろう。おかえりを言って欲しいなんてそんな理由でここまでしてくれるはずが無い。

 同情。親切心。気まぐれ。

 でもそんなの、何でもいいか。


 考えたって意味がない。彼が私のためになることをしてくれている。すごく助かっている。事実はそこにしかないのだ。

「俺は大人で、君は子供だからな。君の力だけでどうにもならない事があるのは君のせいではないよ」

 信じるべきなのは見えない裏側ではなく、真摯に向き合おうとしてくれている表側だと、それを聞いて思った。



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