第7話 出会い

 ⒎


 喉が焼ける。私は昔から、風邪を引くと喉が真っ先にやられるタイプだった。熱はまだないが、今のうちに病院に行かなければ後で高熱が出ることは、何度も経験済みだった。梅雨に突入したせいか、ここの所毎日雨が続いている。


 私は静也さんに近くの病院を聞き、学校が終わるとそこへ行った。

 その病院は『大沢クリニック』という名前で、街の中に溶け込んだ、言ってしまえばなんの変哲もない病院だ。


 受付をし、待合室で三十分程度待つと、名前を呼ばれた。

 中に入ると、四十代くらいの穏やかそうなお医者さんが座っていた。たまに高圧的な態度で患者を萎縮させる医者もいるが、この人はおそらく当たり、だ。

「今日はどうされましたか」

「二日前から喉が痛くて」

 口を開けてあーと言わされる。


「腫れてるね。喉のお薬と、トローチと抗生物質、熱が出た時のために解熱剤も出しておきますね」

 正直、その言葉を全く聞いていなかった。私の神経は、大沢先生の胸元に付けられたネームプレートに向けられていた。

『大沢啓介』

 亡き母が専用のフォルダまで作っていた連絡先と、同じ名前だったからだ。






 引越し前、祖父の遺品を整理していると、祖父のものでは無いであろうピンク色の携帯電話が出てきた。コードも同じ引き出しから出てきて、私は興味本位で充電をし、中を開いた。

 

 私の亡くなった母の携帯であると分かるまで、そう時間はかからなかった。

 私の母は、私を産んだ時に亡くなったらしい。運が良かったのか、悪かったのか、私は今生きている。お陰で祖父を孤独死から避けられたのだから、きっと運が良かったのだと思う。

 

 メールボックスを開くと、一つ専用のフォルダが作られていて、全て同じ人からのメールが届いている。もしかしたらこの人が私の父親なのかもしれない。だからって、どうこうする気は無かった。


 母が未婚を選んだのは、今に至るまで何のアクションも無いのは、父親が最低な人間だったからだろうと推測していたからだ。

 だけどその考えは、先頭のメールを開いた事により揺るがされることになる。

『いままでありがとう。別れるのは正直寂しい。でもしつこい男だと思われたくないから、連絡をするのはこれで最後にします。別々の人生を歩むことになるけれど、君の未来がいつまでも明るいことを願ってる。元気で』


 そんな文章が書かれていた。文面だけでは判断のしようがないが、なんとなく、誠実そうな雰囲気だ。最後に取り繕っただけという可能性はあるが。

 私は『大沢啓介』さんの登録画面を見た。

 そこには電話番号も記されていた。もう十数年前の番号で、繋がるかどうか怪しいが、一か八かかけてみようか。

 一瞬考えて、携帯電話を閉じた。繋がったとして、話すことなんてないだろう。







「何かまだ、不安な症状があれば遠慮なく言ってください」

 大沢先生は患者の緊張を解す柔らかな笑みをして、私の返答を待った。


「木下志保という女性を、知っていますか」


 一音発する度に喉がヒリヒリと熱を持った。掠れた声は、それでも難なく届いたようで、後ろで聞いていた看護師が変な顔になったのが見えた。


 大沢先生は、笑顔のまま固まったが、やがて真剣に

「知っている。君も、木下さん、だね。もしかして、志保さんの娘さんかな。」

 そう聞いた。

「はい。そうです」

「良かった。娘さんが元気そうで。といっても今は風邪を引いているけれど。お母さんは元気にしているかい?」


 彼はまた、ふわりと笑った。


「母は、私を産んだ時に亡くなりました。」

 その顔がまた、ピタリと固まった。

 空気を読んだのか、看護師は姿を消した。


 私はスクールバックから付箋を取り出して、自分のスマホの番号を書き込んで、放心状態の大沢先生に手渡した。

「診察、ありがとうございました」


 お決まりの「お大事に」を聞かないまま、診察室を出た。

 病院から帰って、暗いだけのスマホの画面をぼんやり見つめた。

 あの時なぜ、母のことを聞いたのか、電話番号を渡したのか、自分でもよく分からなかった。どうでもいいはずなのに。

 

 何分そうしていたのか、先生が帰ってきた。

「おかえりなさい」

 私は小走りで玄関に向かい、言った。心がざわざわしていた。今日は言わなきゃいけないと直感が働いた。


「ただいま。酷い声だぞ。 無理すんなよ」

 静也さんは三秒ちょっと、私の頭に手を乗っけた。思わず私はその手を掴んだ。

「どうした。甘えたがりか」

 風邪で弱っていると思ったのか、優しい声色だった。そうか、弱ってるのかと自覚したと同時に、頭が痛くなってきた。


「は? 何言ってんですか。邪魔だから退けようとしただけで」

 払い除けようと掴んだ手に力を込めた。が、いくら待っても力は入らず、抜けていく一方だった。しまいには視界がフニャフニャと水中みたいに湾曲して、私は意識を遮断した。





 目が覚めると何故か、静也さんのベッドに横になっていた。すぐ側には私の部屋にいるはずのサメの抱き枕があり、おでこにはぬるくなった冷感シートが貼られている。

 ゆっくり体を起こすと、ベッドを背もたれに床に座った静也さんが振り向いた。

「良かった。すごい熱で、心配したんだぞ」

「ごめんなさい。ずっとそこにいたの?」

「んなこと気にしてんじゃないよ。病人」

 静也さんは立ち上がると、部屋から消えた。またすぐ現れると、水とスポドリとパウチに入ったゼリーを手に持っていた。


「ゼリーならいけるか? 薬飲まないと」

 なんとかゼリーを流し込み、薬を飲むと再びベッドに横になった。

「静也さん、ご飯食べた? お風呂は……まだだね。」

 

 帰ってきたときのシャカシャカしたジャージ姿そのままで、お風呂に入っていないことは一目瞭然。ご飯もおそらく食べていない。

「だから、病人が余計な心配すんなって」

 わざとらしく呆れた態度を取った。なんかあったら呼んでと言って、彼は部屋を去った。


 一時間後には、静也さんは寝室に戻ってきていた。黒のロンティーと紺色のスウェットという色合いは、夜の保護色みたいだ。顔や手足がやけに明るく見える。

「私、自分の部屋で寝た方がよくない?」

 何故か静也さんのベッドで寝ているのを思い出した私は起き上がって足を床に下ろした。静也さんは目の前に立って、私の移動を阻止した。


「ここで寝てろよ」

「静也さんはどこで寝るの?」

「ここ」

 んん。それはつまり、一緒に寝るということだろうか。


「甘えたがりなの?」

「そうかもな。駄目?」

 彼は恥ずかしげもなくあっさりと肯定した。

「まぁ、いいですけど」

 言うと、静也さんは電気を消してから私の反対側に回り込んで横になった。


 内側を向くと、目が合った。私は気恥ずかしくて、横にあるサメを回収すると、勢いよく外側に寝返った。


 後ろでフッと笑ったのが聞こえた。

 しばらくして、背中が温かくなった。とてつもなくあったかくて、安心する。怖かった。安心すればする程、いつか手放さなければならないその日を想像して寒気がする。


 翌日、運良く土曜日だったので、家の中でだらだらと安静に過ごしていた。昨夜の居心地の良さを引きずって、私と静也さんはソファでくっついている。


「普通の父子や兄妹は、こんなに距離が近いものでしょうか。私もう中学生になるのに」

「嫌か?」

「嫌、とかではなく」

「大体俺たち、普通じゃない。だから適切な距離を示すサンプルがない。つまり、わからん」


 静也さんは堂々と屁理屈を述べてみせた。


「普通にしたいことをやればいいだけだと思わないか。年齢も関係ない。しずはどうしたい?」

 私は、どうしたい。触れた肩が温かい。そうだな、出来れば

「じゃあ、このままで」

 いたい。目を閉じる。安心して眠くなる。

「了解」

 

 私の頭に手を添えた。静也さんは頭を撫でるのが好きなのかな。

 おじいちゃんはいつまでも私を甘やかそうとしたけれど、こんな風に素直に甘えることは中々出来なかった。でもこれは、静也さんにだからなのか、祖父に出来なかったことをしたいだけなのか、見当がつかない。


「もう」と言って私は横を見上げた。両手を振りあげてロックオンすると、静也さんの髪をガシガシと乱暴にくずした。

「ちょっ、やめろって、っはは」

「まだまだ余裕がおありですね?」

 照れ隠しを見透かされているようで癪だ。


「あー、ギブギブ、勘弁!」

 ようやくわたしが手を止めると、ボサボサになった静也さんがまだ楽しげに笑いながら、元の体勢に戻った。ソファの背もたれがボスッと音を立てた。片側がぬくい。

 重心が一気にこちらにかかるのを感じてそっと隣を窺うと、穏やかに寝息を立てていた。その姿を見て、これが普通になったらいいと願った。そんな事は、有り得ないと知りながら。


 私たちは、最初から偽物であることを望んだ。

 本物に傷付いて、もうあれはいらないのだと拗ねた。求めることも求められることもない予防線のぬるま湯を張った中は、冷えきった心には丁度いい温度で、居心地が良かった。

 じゃあ、その後は。

 ぬるま湯がぬるいと気付いてしまったら、どうすればいい。

 

 私はスマホのショートメール通知を開いた。

『体調が治ってからでいいので、一度話をさせてくれませんか』

 それに対して、都合のいい日程を聞いた。

 来週の木曜日、近くの喫茶店で、大沢先生と話をすることになった。



 待ち合わせの二十分も前に、私は喫茶店に着いてしまった。流石にまだ居ないだろうと思いながらも見回すと、大沢先生らしき人が奥のテーブルにいるのを発見した。

 

 私はレジでココアを注文し、手に持つと、大沢先生の向かいの席に座った。

「おまたせしました。先日は急にすみませんでした」

「いえいえ。風邪は治りましたか」

「もうすっかり」

「それはよかった」

 

 私は、ピンク色のガラケーを大沢先生の前に出した。

「これ、母、木下志保の携帯で間違いないですか」

 大沢先生は、その携帯をじっと見つめた。

「あぁ。間違いない」

 見てすぐに彼は答えた。

「志保とは十四年前まで恋人だった。僕が医療の勉強をしに海外に留学するのをきっかけに別れたんだ。でもどうして、僕が志保と関係のある人間だと分かったんだい? 君のお父さんは僕のことを知っている人なんだろうか」


 大沢先生は自分がそのお父さんであるかもしれない、というところまで頭が回っていない様子だ。

「母は未婚のまま私を出産しました。なので父親が誰なのか、私は知りません。今年の三月に亡くなった祖父の遺品を整理していたら、その携帯が出てきて。母はあなたの名前で別のフォルダを作っているようでしたから、親しい方だったのかなと」

 

 何から聞くのか迷っているのか、情報を飲み下しているのか、顎に手を当てて思案していた。

 私には聞きたいことがあった。

「大沢先生」

「はい」

「もっと早くお聞きするべきでしたが、ご結婚はされていますか」

「していないよ。独身。」

「そうですか。もしご家族がいらっしゃるのなら、今更昔の話を蒸し返すのは迷惑かと思いまして」

 

 私は安堵した。誰かを傷つけてまでこの話をするのは嫌だった。

「もし、可能ならばDNA鑑定をしていただけないでしょうか」

 大沢先生は息を呑んだ。

「僕と、君の、ですか」

「はい。そうです」

 しかし決断は早かった。

「分かった。その代わり、君の保護者の方にご挨拶をさせて欲しい。僕は大人として、君を一人でここに来させてしまったことを謝罪しなければならない。焦って順序を飛ばしてしまった」


 静也さんに、話さなければいけないのか。一人でここに来てはいけなかったのか。私は愕然とした。大沢先生の言わんとすることは正しい。間違っているのは自分の認識だ。私はまだ一人では何にもできない子供なのだということを、改めて痛感した。

 



 その夜、私は大沢先生のことを静也さんに話した。


「肉親かもしれないんだろ。良かったじゃないか」

 なんでもない顔で、静也さんが言った。その顔をする時は大体、なんでもなくないのだと、私はもう分かっている。


「本当は良かったって思ってないよね」

「思ってる」

「思ってない」

「思ってる」

「思ってない」

「思ってないよ! だからなんだよ。」

 

 声を荒らげた静也さんを、初めて見た。


「私の前でカッコつけなくていいって前に言ったのに、結局静也さんはいつもカッコつけて大人ぶってるよ。気付いてないでしょう」

「そんなことない。俺は充分カッコ悪いし甘えている」

「そんなことあるんだよ。肝心なところで自分を優先してよ。そうじゃなきゃ意味ないよ」


 静也さんは押し黙った。

 私も黙った。

 それでも、その場から立ち去ることはしなかった。してはいけないと思った。

「俺の父親は、母親と自分を殺したくせに、俺を一緒に連れて行ってはくれなかった」

 ぽつり、と零した。


「今日、両親の命日だった」

 先生は視線を床に落として、低い声で呟いた。

「何も知らない俺は、学校から帰って、チャイムを鳴らした。誰も出なかった。買い物にでも行ったのかと思って、ランドセルの内ポケットから鍵を出して、家に入った」

「誰もいないはずのリビングで、父と母が倒れていた。」

「俺は、殺される価値すらない人間で」

 ちゃんと見てよ。こっちを。


「あのね、私は感謝してるよ、連れて行かれなくて」

 生きている意味だとか、殺される価値だとか、そんなもんはみんな等しく無いのではないだろうか。だから自由に、自分で探すんだ。

「もう、やめようよ。愛されることを拒絶するのは。偽物で、満足するのは」

 私は静也さんの頭に手を置いた。少し癖のある髪は硬くて、チクチクした。

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