最初に鼻を通ったのは、土の匂い。続いて濃い桜の匂い。なによりも真冬とは思えないほどに暖かい。

 ここが極楽なんだろうか。

 紅華はうっすらと目を開く。


「ん……」


 喉から息が通る。土を吸ったせいで痰が絡んでいるものの、まだ生きているようだ。

 彼女の目に最初に入ったのは、白く太い幹の桜であった。人が何人も手を繋がなければ一周することもできないほどに太い幹に、いったいこの樹は何千年そこに生えていたのだろうと、ぼんやりと思う。物の怪に食われることもなく太く育った桜を、紅華はなかなか見たことがなかった。

 地面を盛り上げるくらいに太い根が脈打ち、地面をでこぼこにしている。

 まだ花を付けていない涼し気な枝を見て、ようやく紅華は起き上がった。多分ここは最下層だろうと辺りを付ける。

 上に戻らなかったら、薄墨に怒られる。

 そう思って彼女は直垂に付いた腐葉土を払いながら立ち上がった。この土は何層にも腐葉土が積み重なった結果、ふかふかの蒲団のようになっていた。おかげで彼女は落下してきても衝撃を受けることも、怪我をすることもなくピンピンとしている。

 どうやって上まで登ろう。近くの壁面に触れてみるが、柔くて足が踏ん張れない。とてもじゃないが上まで登り切れそうもない。彼女は帰れる場所がないかと桜の樹の周りをぐるりと歩いている中。

 腐葉土におかしなものが埋まっていることに気付いた。

 最初はこの古い桜の樹の枝が自然に折れたのだろうかと思っていたが、ふさふさとした毛、日焼けしていない肌……人であった。

 紅華は慌ててしゃがみ込むと、背中に佩いた刀の鞘を取ると、それで腐葉土を掘り起こしはじめる。真っ白な髪に真っ白な直垂を着ていたのは、幼い少年であった。


「ちょっと……なんでこんなところに人が……!」


 最初は人さらいを考えたものの、それはあり得ないと紅華はすぐに却下した。

 最下層なんてところに許可を持っていない人間が来たら、見つかり次第朝廷から罰せられる。こっそりと行くにしては、ここまで櫻守や庭師、樹木医でもない限りやって来るとは考えにくい。そもそも道が険し過ぎて、そんな仕事に就いている人間以外が好き好んで山に入らないのだ。


「あんた! ちょっと……!」


 真っ白な少年は目を閉じたまま、なんの反応も示さない。

 まさか死んでいるのでは。そう恐ろしい想像が紅華の中で生まれる。

 紅華は少年の腕を取ると、どうにか腐葉土から引っ張り上げる。そして横に寝かせてぺちぺちと頬を叩いた。しばらくはなんの反応もなかったが、やがて睫毛が震える。


「……んっ」

「ちょっと、あんた大丈夫かい!? こんなところに埋まって、なにがあったんだい?」

「……ここは?」

「ここは最下層さね。千年花せんねんかの根本って言えばわかるかい?」

「さいかそう? せんねんか?」


 少年の声はあどけなく、意味をわかっている顔をしていない。それに紅華は顔をしかめる。

「なんだい、あんたよそから来たのかい? 櫻花国おうかこくの人間だったら知らない訳ないだろ」

「おうかこく?」


 千年花のときと同じく、少年はただ反芻するだけで、意味をわかってなさそうな顔をしているのに、紅華は口をひん曲げる。どうも言葉が木霊のように返ってくるだけで、会話が成立しない。


「一応聞くけどあんた、そもそも誰だい?」

「だれ」

「ほら、木霊の真似して反芻ばっかりすんじゃないよ」

「こだま……?」


 少年はコテン、と首を傾げた。さらさらとした真っ直ぐな白髪が揺れる。どうもそれが少年の考える素振りのようだが。やがて困ったように眉を下げた。


「ごめん、ぼくはだれなんだろう?」

「……はあ?」


 あまりにも的外れな回答に、紅華は途方に暮れてしまった。

 てっきり他国の人間かと思ったがそうでもなさそうだし、そもそも名前すら思い出せないようだ。

 たまに頭を大きく打ち付けた人間が、記憶を飛ばしてしまうことがあるという。

 この少年も腐葉土に埋まっていたくらいだから、頭のひとつやふたつ打ち付けていてもおかしくない。

 これから最下層から上に帰らないといけないのに、面倒臭いことになった。紅華は大きく大きく溜息をついて、屈んで少年に顔を見合わせる。


「あたしは紅華。あんたはそうだねえ……名前がないと不便だ」


 そう言いながら紅華は少年の顔を凝視した。美しいかんばせの少年は、照れる素振りも見せずにまじまじと紅華と目を合わせる。

 櫻花国では、人の名前に古い桜の名前を付ける習わしがある。紅華も薄墨も、桜の名前から取られている。

 紅華は頭の中にぼんやりと桜の名前を並べ、真っ白な少年に名を付けた。


鬱金うこんとでも名付けようか」

「うこん」


 鬱金は白と呼ぶには、むしろ緑に近い花を咲かせるが、腐葉土に埋もれて一瞬気付かなかった様は、緑の木々の中で咲いてもなかなか花だと気付いてもらえない鬱金の花を連想させたのだ。


「さて。こんなところにずっといててもよくないね。いつ物の怪が襲ってくるかわからないし、さっさと登ろうか」


 そう言って少年についた腐葉土を叩き落として、歩きはじめた。

 真っ白な太い桜を、鬱金はまじまじと眺めている。呆けたように凝視している様に、紅華は苦笑する。


「珍しいかい? まあ、あんたは記憶喪失だからわからないかもしれないけど」

「すごい木だと思う」

「まあ、そりゃあすごい木だろうね。あれは母樹だからね」

「ぼじゅ?」

「あれがこの国を支える桜全ての親だからねえ」

「……この国?」


 鬱金は困り果てた顔をしているので、ようやく紅華は気が付く。

 この子は、この国の一般常識すらも忘れてしまっているのかと。

 本来ならば、この手の話は母親が子供に子守り話として教え聞かせるものだから、未だにその手の話にとんと縁のない紅華に上手くできるかはわからなかったが、とにかくいちから説明することにした。


「櫻花国は、千年花の上につくられた国なんだよ。だから千年花が枯れないように、国があちこちに桜の面倒を見る人間を配置している。あたしもそういう桜を管理する人間のひとり……櫻守なのさ」


 鬱金が目をパチパチとさせながら、紅華を見て、もう一度千年花の母樹を眺めた。ふたりは急な坂を登り、少しずつ上へと上がっていく。

 普段だったら大したことのない物の怪でも寄ってくるというのに、何故か登っているときには一度も遭遇しなかった。

 やっと最下層から出て、見覚えのある桜の元にまで辿り着いたときには、空は未だ青くとも、わずかばかりに日が傾いてしまっている。本来だったら作業終了時刻であった。

 既に作業を終えていた薄墨が、血相を変えてやってきた。


「紅華! なにやってるんだ! 崖崩れが起こったんだから、危ないからその場で待機していろと言ったはずだろう!」


 握りこぶしでゴツン、と殴られ、紅華は目に星をバチンバチンと飛ばす。紅華は目尻に涙を溜めて抗議をする。


「わかってるさ! わかってるけど……でもしょうがないだろう!? 物の怪が湧いて出たんだからさぁ!」


 紅華の言葉に、薄墨があからさまに嫌そうな顔をした。


「なに。まさか物の怪避けの香を撒いていても湧いてきたのか?」

「そうだよぉ。追い払おうとしたら最下層まで落ちて……あ、棟梁、こいつどうしよう?」

「こいつ?」


 薄墨は怪訝な顔で、紅華が連れてきた子供を見る。紅華と一緒に歩いていた鬱金が困った顔で、真っ白な髪を揺らして、ぺこんと頭を下げる。


「う……こん」

「こいつ、どこから来たのかわかんないんだよ。頭を打ち付けたみたいで、記憶も落っことしてきたみたいで、櫻花国の常識すら全部飛んでる。他国の子かもしれないけど、最下層に埋まってたのを掘り出してきたんだよ」


 いくらなんでも子供が地面に埋まっていたなんて話、穏やかではない。


「埋まってたって……そりゃずいぶんな話じゃないか。で、名前があるのは?」

「こいつ名前がないのも不便だったから、あたしが便宜上付けておいた。鬱金だよ。鬱金」

「鬱金なあ……」


 薄墨は深く溜息を付いた。


「やっぱり青天なんてろくでもないじゃないか。厄介ごとばかり降ってわいてきやがる。まあ、いい。日が暮れたら山を降りれなくなるから、晴れている内に降りるぞ」

「はあい。鬱金、行くよ」

「うん」


 櫻守としては下っ端の紅華は、鬱金を拾ってきたことで、一番下ではなくなった。心なし背筋をピンと伸ばして歩いている。要は調子に乗っているのだ。

 その様子に薄墨は苦笑した。


「まあ、そうだな。まずは連れ帰るか」


 鬱金を紅華の馬に乗せ、山を下っていく。桜の木々がどんどんと遠ざかり、香っていた桜の匂いも遠くなっていく。

 櫻守の仕事は桜の匂いと共にはじまって、桜の匂いと共に終わりを迎える。

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