三
鬱金の問いに、薄墨は握り飯を食べ終え、水筒の水を飲み干してから答える。
「櫻花国が千年花の上に存在しているというのは知っているな?」
「うん」
実感はないが、最下層でたしかに優美な千年花の母樹を見たことがある。あれの上にこの国が乗っているというのは、未だによくわかっていないが。
鬱金の言葉に薄墨が頷いたあと、ちらりと細い木を見た。
「たとえばあの木の上を見ろ」
薄墨に指を差された木は、こんもりとした桜であった。まだ裸のままで、花も葉も落としたままだが、春になれば美しいだろうと想像することができた。鬱金がそう想像している中で、薄墨が続ける。
「あの木の上に、鳥が巣をつくっているとする。上から下まで、鳥が巣をつくり、物の怪が皮を食んだらどうなると思う?」
「……物の怪が皮を食べてたら、幹が抉れて折れちゃうんじゃないの?」
先程の抉られた若木のことを思い返しながら、鬱金がそう口にしてみる。一応応急処置はしたものの、どこまで回復するかまではわからない。
ふたりの会話を握り飯を食べながら聞いていた紅華が、握り飯の残りを飲み込んでから口を挟んできた。
「それ以前に、鳥の巣が大量につくられているんだったら、枝がばきばきに折れるんじゃないかい? 折れ続けたら、木だって病気になっちまうよ」
「あ……」
鬱金が喉を鳴らすと、薄墨が大きく頷いた。
「櫻花国は千年花の上に存在しているんだが、その上に人間が住み、森が乗り、物の怪が食んでいるんだ。そうなってきたら、どんどん千年花に負担がかかってくる」
鬱金は初めて見た千年花の樹を思い出した。
真っ白な太い幹。大きく伸びた枝は、人の抱擁する様のような安心感を与えていた。
花こそ咲いてはいないが、その美しく神々しい姿は、誰が見ても心奪われるものだろう。それが枯れかけているという言葉が、どこか遠くに聞こえた。
鬱金の思惑はともかく、薄墨は淡々と続ける。
「千年花が強い内は、物の怪もそう簡単に食おうとはしない。そもそも古くて硬い皮やこけは物の怪も食まないからな。だが、弱く柔くなれば、話は変わってくる」
薄墨は残っていた握り飯を全部口に放り込んだ。
「基本的にここで植樹される若木は全て、千年花の母樹の種を育ててつくってるが、母体が弱ってたら子供だってまともに栄養が回らないのと一緒。どれだけ植樹しても、丈夫に育ちやしねえ」
「……このままいったら、物の怪に千年花も全部食われちまうってことかい?」
紅華が緊張した声を上げると、薄墨は考え込むようにして首をぐるぐると回した。
「わからん」
「って、そこまで言ってもまだわからないんだ、棟梁……!」
「仕方がねえだろ。千年花が枯れたときのことなんざ、櫻守はなんの関与もできやしない。それこそこの辺りは全部庭師の管轄になるんだからなあ」
「……前から朝廷に仕えているって言っている庭師、全然見たことがないんだけれど、本当に動くの?」
紅華は心底嫌そうな顔をし、薄墨があまり語りたがらない庭師の存在は、鬱金にとってはずいぶんと胡乱なものに思えて仕方がなかった。
鬱金の言葉に、薄墨は渋い顔をする。
「何度も言うが、俺たちはおかしいということを役所を通して朝廷に上げることまではできるが、千年花をどうこうすることはできねえ。俺たちは庭師のように朝廷で意見を通せる立場でもなければ、樹木医のように千年花の治療に当たるための知識も技術もねえ。せいぜい、次の春までの間、桜の世話をすることしかできねえんだ」
その言葉を鬱金は複雑な気分で聞き、紅華は苦虫を噛み潰した顔をして聞いていた。
毎日櫻守が桜の世話をしなければ、病気や物の怪にやられて花を咲かせないかもしれないのに、桜が枯れかけていても、手をこまねいて見ていることしかできない。つくづく櫻守は因果な仕事であった。
「下っ端の俺たちには、目の前の桜の面倒を見るだけで、精一杯だ」
その言葉で、薄墨はこの話題を切り上げた。
なにも解決していない上に、あまりにも人任せであった。
まだ櫻守になったばかりで、なにもできない鬱金では説得力がないのはわかっているが、ただ歯がゆくは思った。
どうにかしたくても、それをする術がなにもないというのは窮屈だった。
****
次の桜のこけ落としのために、次の場所に向かって作業を進める。
鵺の灰でつくった物の怪避けの香を焚き込めたおかげで、先程のようにいきなり物の怪に襲われることはなく、この場での作業は、比較的淡々と終わらせることができた。
物の怪退治さえ行う必要がなかったら、そこまで荒れた仕事ではないのかもしれない。冬場でも、日差しが梢に遮られた山の中でも、懸命に働けば体も温まり、汗も噴き出してくる。鬱金は汗をびっしょりとかきながら、桜を見上げた。
表面に浮かんでいた真っ白なこけはすっかりと削ぎ落とされ、美しい桜の幹が顔を覗かせていた。
でも作業を進めるために山を登っていくごとに、だんだんと道が険しくなってきた。ただ移動するだけでも、足元を気にしながらでなかったら、進むことすらできなくなってきた。
麓近くでは腐葉土の柔らかさで多少滑り落ちても危なくなかったが、山頂近くは岩肌が出ていて危ない。一歩足を踏み外せば命に係わる。
先頭を薄墨は歩きながら、顔をしかめる。
「……まずいな、今日は道が悪い。引き返すか」
山はときおり土の具合を変える。
雨が続けばがけ崩れが起こりやすいのはもちろんだが、晴れの日が続き過ぎても土が乾き過ぎて、道が滑りやすくなる。今日の山道は、晴天続きが原因で土が乾き、足を踏みしめられなくなっていた。おまけにこの辺りは腐葉土も積もってないので、余計に危ない。
道のよしあしの判断もまた、棟梁の仕事であった。
「あと一件なのに、残念だねえ。でも最近ずっと道が悪いじゃないか。大丈夫なのかね」
紅華の言葉に、薄墨は軽く首を振る。
山での仕事は棟梁の判断が全てだ。駄目だと言われたことは駄目だし、やれと言われたことはやらなければいけない。
このまま今日は下山しようと元の道についた、そのとき。
鬱金がふたりについて元来た道に帰ろうとしたとき、踏み出した地面が抉れた。乾いた土は、力を込めた途端に脆く崩れる。
「あ……」
「ちょっと鬱金……!」
紅華が手を伸ばすよりも先に、鬱金が下へと落ちるほうが早かった。
体重に引っ張られるようにして、鬱金はどんどんと最下層へと落ちてしまった。
鬱金はどうにか背中に佩いていた木刀を壁面に突き立てて、そのまま落ちる速度を緩める。
「うっ……! ううっ……!」
足を踏みしめて、どうにか踏みとどまろうとするものの、土の崩れやすさで止まることができない。
とうとう最下層まで起きる勢いまでを殺すことは叶わず、とうとうころんと地面に落ちてしまった。
かつて自分が埋まっていたらしい腐葉土に落ち、鬱金はその柔らかさにびっくりしながらも、そこが緩急材となって怪我をするのを避けることができた。
鬱金は「はあ……」と息を吐き出すと、木刀を背中に佩き、立ち上がりながら周りを見渡す。どこも大きく打ち付けていないらしく、立ち上がってもどこも痛くはない。あれだけ高いところから落ちたのに、運がいい話だ。
前に紅華と一緒に登っていた道を探して帰ろうとするものの、前に落ちた場所とは違うらしい。
ただ白く太い幹が見えた。
花も付けていないのに、ただ立っているだけで神々しく、この美しい木がこの国を支えているというのには驚きを隠せない。土を盛り上げる太い根までが、ただ目を見張るほどに美しい。
これが母樹であり、櫻花国を支える千年花の本体だと思うと何故か胸を締め付けるような郷愁の念すら覚える。しかし、今はこの神秘的な木が枯れかけていると言われているのは複雑な気分であった。
鬱金はなにげなく母樹に触れ、耳を幹にくっつけた。
とぼとぼと水の流れる音が聞こえてくる。その音は水を吸い続けている音だ。それは生きている証。生きたいという主張だというのに、それなのにどんどん弱っていると聞くと歯がゆい。
「……どうしたらいいんだろうね。お前を助けるには」
そう鬱金がぽつりと漏らしたところで。
グルルルルルル……と嘶く声が響き、鬱金の肌が粟立った。
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