荷物から箒を取り出し、更に物の怪避けの香を焚き込める。桜の匂いが強く濃くなったところで、作業を開始する。

 冬にもかかわらず、桜の皮の表面にはびっしりと白いこけがこびりついていた。それを馬の毛の箒を使って慎重にそぎ落としていく。


「あんまり力を入れると皮が傷つくから、あんまり力を入れちゃ駄目だよ」

「う、うん……」


 紅華に言われたとおり、鬱金は慎重に慎重に箒の先で桜の幹を磨いていく。

 皆で作業に追われている中、腐葉土をざくり、と踏む足音に気付いた。

 それに薄墨が真っ先に気付き、号令を出す。


「紅華、臨戦準備に入れ。鬱金はこっちのことを気にせず、桜のこけ落としを続行しろ」

「わかった……鬱金。あんたが怖がってるのは知っちゃいるけど、使わせてもらうよ」


 薄墨は背中の刀を抜き、紅華も同じく抜き出す。

 その刃のきらめきに鬱金は一瞬顔を強張らせるものの、気丈に口を引き結んで、ふたりに大きく頷いた。

 物の怪避けの香の煙が立ち昇り、桜の匂いが強く濃くなっているにもかかわらず、物の怪たちはそれを物ともしなかった。

 グルグル……そう喉を鳴らして近付いてきたのは、猿の顔を持ち、虎の手足で走り、馬よりも大きく、尾の替わりに蛇を生やした四つの獣を混ぜたような生き物……ぬえであった。しかも二頭。

 薄墨は大きく刀を一閃させると、鵺はその刃を避けて跳躍しようとする。その脚はすばしっこい。図体は大きくとも、馬のように俊敏なそれに薄墨は舌打ちをする。

 一方紅華はというと、もう一匹の鵺に刃を噛みつかれて、必死で腕を張って抵抗しつつ鵺の腹を蹴っている。しかし鵺の生温かい息が顔の近くに当たるばかりで、腹を蹴ってもぴくりともしない。

 薄墨はおそれて戦うのを必死で避けようとしているのに対して、どう考えても鵺は紅華を格下として扱っている。

 鬱金はそれを見て、おろおろとする。

 こけを落とす仕事を与えられてはいるが、このまま放っておいたら紅華が鵺に食われてしまうのではないか。現に力負けした紅華は鵺に押し倒されて、必死で抵抗しているが、それもどこまでもつのかわからない。

 ふいに薄墨がから逃げ回っていた鵺が、桜のこけを食べに来た。

 そのときに皮ごと食べてしまうから桜からこけを落とさないといけなくなったのであり、こけさえ与えてしまえば、紅華は助かるのではないか。

 鬱金は箒で地面に落としたこけを手にすると、震える足で紅華を襲っている鵺に向かった。

 不思議と、よだれを垂らして牙を剥き出しにしている鵺よりも、紅華の持つ刀のほうが怖かったが、今はそれどころではない。

 カタカタと震える鬱金の姿に、押し倒されている紅華が顔を歪める。


「ちょ……あんたの仕事は、そっち、じゃないだろう!?」


 彼女は鵺に押し倒されているというのに、なおも鬱金を心配する。


「でも。このままじゃ紅華が食べられ……」

「ばっか! 棟梁が来るから、それまでもちゃいいんだよ……っ! くぅ……!」


 紅華は必死で腕を突っ張らせているが、既に鵺のよだれをかぶってべとべとになってしまっている。そろそろ彼女だって限界だろう。

 彼女の刀を折らんとばかりに力を押している鵺は、いよいよ紅華の刃をへし折ってその牙で彼女を食らおうとしている。

 それに鬱金は震えながら、こけをさらさらと鵺の足元に撒いた。鵺はひくり、と鼻を動かして鬱金の撒いたこけのほうを向く。鬱金は震えながら言った。


「こ、こけはあげるから……紅華を離して……」

「グルルルルルル……」


 紅華を押し倒していた鵺は、さっさと彼女に向けていた前足をどけて、こけのほうへと寄っていった。

 蛇の尻尾でビタンビタンと地面を叩きながら、鬱金の撒いたこけを味わいはじめる。紅華は鵺のよだれでべとべとになったまま、その場にへたり込んだ。


「た、すかったのかい……?」

「よかった……」


 一瞬気が緩んだのがいけなかった。

 次の瞬間、へたり込んだ紅華は、大きな衝撃と共に地面に再び叩きつけられたのだ。


「ぐ、はぁ……!」

「紅華!」


 ふたりを我関せずとこけを食む鵺を背に、鬱金は紅華を吹き飛ばした正体を見る。

薄墨が仕留めている鵺ではない。三頭目の鵺が現れて、弱った紅華を襲ったのだ。今彼女は刀を取りこぼしてしまい、構えられない。

 気が緩んだせいで、恐怖で身が竦んで動けないのだ。

 腹を減らした鵺は、「グルルルルルル……」と喉を鳴らし、口元をべちゃべちゃとよだれで濡らす。

 鬱金は必死で桜の樹からこけをかき集める。

 自分のせいで紅華が危機に陥ったのなら、自分で紅華を助けないと。

 彼は必死でこけを集めて、叫ぶ。


「お願いだから、紅華を食べないで……!」


 彼女に牙を立てられようとした、そのとき。

 美しい一閃が決まった。薄墨の刀である。ごろんと鵺の首が落ちた。

 それを見た途端に、こけを食んでいた鵺はそのまま逃げ帰ってしまった。

 鬱金はへたり込み、紅華も恐怖で身を竦めている。その中で、薄墨が怒鳴った。


「お前ら、最初に言っただろうが! 最初に棟梁の命令を聞けと! なにかするときは棟梁に判断を仰げと! 今のはなんだ、全部独断専行で大惨事になってるじゃねえか! まずは紅華! 力負けしそうなときは、さっさと山を降りろとあれほど言っただろうが!」

「す、すんませんでした!」


 いつもの紅華と比べれば、覇気のない声が飛ぶ。しかし薄墨の怒号は続く。


「次に鬱金! 俺ぁ言ったよなあ、さっさとこけを落とせと。それをなんだ、なに撒いてんだてめえは!?」

「ご、ごめんなさい……でも、こけを出さないと、紅華が……」


 鬱金が必死で言い募るが、それを薄墨が一蹴する。


「だからこけを落とすんだろうが! あいつらはこけを食べている間だけは大人しいんだ! さっさとこけを落として、それを食っている間に仕留めんだよ! 山では棟梁の判断を先に仰げ! でないと死ぬぞと、何度も何度も教えただろうが! 死にたいのかてめえらは!?」


 薄墨の激昂はいちいちもっともだった。

 特に櫻守の仕事は山で行う。山を登るのすらひとつ手順を間違えば崖から落ちるし、物の怪とのやり合いも一瞬でも遅れれば殺される。だからこそ命にかかわるような肝心なことは棟梁に指示を仰がなければいけなかった。

 紅華も鬱金もしゅんとうな垂れて、薄墨に頭を下げる。


「……大変申し訳ありませんでした」

「ごめんなさい」


 ふたりのしおらしい声に、激昂を引っ込めた薄墨は小さく溜息をついた。

 薄墨も形式の上では怒らなければならないが、ふたりのことを心配していない訳ではない。


「とにかく、ふたりとも無事でよかった。さっさと残りのこけを全部落として、そしてこの物の怪の死骸を焼くぞ」

「うん」

「……うん」


 ふたりは薄墨の号令の元、ようやく調子を取り戻して、作業に戻った。

 必死に桜に箒をかけて、残っていたこけを全部落とし切った。そして鵺の死骸に物の怪避けの香から火を移して、焼きはじめる。

 相変わらず鬱金は火が怖いようで、紅華が鵺に火を付けて焼いている間も近付かず、落としたこけを集めている。脂がたっぷりと回っている死骸は、普通の動物や人よりもよっぽど早く燃える。

 薄墨は鬱金の集めたこけを眺めながら、指示を飛ばす。


「これは物の怪にとっては恰好の餌だからな。物の怪と一緒に焼くんだ。また物の怪が現れたらたまらんからな」

「……ここではもう……物の怪避けの香を焚かなくってもいいの?」


 基本的に、どの作業でも物の怪避けの香を焚いてから作業をはじめるが、今回の鵺はそんなもの全く効いている様子がなかった。薄墨はそれに軽く首を振る。


「駄目だな。あれは弱い物の怪には効くが、鵺ほど強い物の怪にゃ効かねえよ。もっとも、鵺を燃やした灰でつくった香だったら、大抵の物の怪には効くはずだがなあ」

「そうなんだ」


 鬱金は紅華が鵺を焼いている炎を眺めて、少しだけぶるりと身を震わせた。

 本当だったら、火をおそれることなく作業をしたほうが、刃をおそれないほうが、やれることが増えるはずなのに。

 鬱金は、何度木刀を振るってもちっとも豆のできない掌を見ながら溜息をつく。

 仕込みを終えたはずの鬱金は、何故か成長がなかった。

 鬱金は火に刃物を見ていると体の震えが止まらなくなり、喉が渇き、足がぴくりとも動かなくなった。なにがそこまで怖いのか、鬱金自身にもよくわからないでいる。

 これが記憶を落としてきた弊害なんだろうか。

 脅えつつも、鬱金は集めたこけを紅華に渡す。火に近付きたくなくて、鬱金の仕草ははじめて木刀を振るったときと同じくへっぴり腰だった。


「これ……これも全部燃やせって」

「そうだね。鵺は結構脂が多いから、思っているより早く燃え尽きそうだ。こけを足してもよく焼けるだろうさ……あんた本当に大丈夫かい?」


 紅華に尋ねられ、鬱金は「え?」と尋ねる。紅華は気遣わし気に顔を覗き込んでくる。


「あんたの顔色、本当にひっどいよ。火を全然扱わないっつうのも、貴族くらいしか聞いたことがないんだけどねえ。あたし、他国の様子はちっとも知んないから、火を使わない文化っつうのもよくわかんないんだけどね」

「ご、ごめんなさ……」

「謝って欲しい訳じゃないんだけどねえ。じゃあ燃やすよ」


 紅華は鬱金から受け取ったこけを、さらさらと火の中に入れると、炎の赤がより一層際立った。

 全部を燃やし尽くしたところで、灰を辺りに撒き散らす。

 桜の近くに入念に撒けば、雨で流されない限りは、鵺より弱い物の怪はまず寄って来てこけを木の皮ごと食むような真似はしないだろう。

 ひと仕事を終え、皆で休憩所へと向かう。馬を繋いでいる近くにある机に並んで、皆で握り飯を食べるのだ。


「でもさ、棟梁。鵺なんて、あたしもさっき会ったの以外だったら、ガキの頃に一回しか見たことないよ。あんな大物の物の怪、なんで沸いてきたんだろうねえ」


 紅華の問いかけに、薄墨は握り飯に齧りつくと、顔をしかめた。

「わからん。このところ、本当に異常現象続きで嫌になるさ。櫻守なんて、年ごとに作業内容が違うのが当たり前だが、こうも一気におかしいことが続いた例なんてそうそうねえな」

「どういうこと?」


 鬱金は握り飯を食べながら聞くと、薄墨は大きく腕を組んだ。


「……千年花が枯れかけてるんだ」

「えっ!」


 紅華が悲鳴を上げる。

 しかし、傍から聞いている鬱金は訳がわからない。千年花が枯れかけていることと、この山で続いている異常現象がどう結びつくのかが、さっぱりわからないのだ。


「どういうこと?」

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