櫻守
一
ひと月。鬱金は紅華から仕込みを受けた。
刃物は刃を見せただけで震えあがってしまい、とてもじゃないが刀を持つことができなかったために、仕方がなく替わりに木刀を振ることができるように鍛錬を続け、木刀で紅華と打ち合いが難なくできるようになるまで、必死で素振りを繰り返した。
最初の一週間は、厩舎の掃除も肥料をかき混ぜる作業もへっぴり腰でなかなかままならないものだったが、日を追うごとに体力も身について、どんどん普通にできるようになった。
その合間合間を縫って、座学が加わる。櫻守として覚えないといけないことがとにかく多かったのだ。
桜の一本一本の名前からはじまり、道具の名前、得物の名前、観光客を案内する方法、山に登ったときに対峙することのある物の怪の名前まで教えられる。
「これも覚えないといけないこと……?」
鬱金が困り果てて尋ねると、紅華は大きく頷いた。
「物の怪避けの香はね、材料に使った物の怪よりも、強い物の怪には通用しないんだよ。だからあんまりにも強い物の怪と対峙したら、もうあたしたちは持ち場を放棄して逃げ出し、役所を通して救援を呼ばないと駄目なのさ。だから、物の怪の名前は覚えないと絶対に駄目」
紅華の座学には、たったひとりで山に登って作業を続けている薄墨も混ざることがあった。
薄墨は定期的に「棟梁の話には、絶対に逆らうな」と釘を刺してきた。日頃から特に横柄な物言いをする人間ではないので、その言葉にはたびたび鬱金は困惑していたが、それはあっさりと紅華が教えてくれた。
「棟梁はあたしたちよりも経験が段違いだからね。引き際をわかっている。もしあたしたちがひどい目にあっても、絶対に死ぬほどのような目には合わないから。だから、棟梁の話は聞かないと駄目だよ?」
そう言われ、鬱金は困りながらもどうにか頷いた。
座学を身に付けると、見るもの全てが見違えたように思えた。
世の中全てに名前や意味があるとわかったら、座学も楽しくなってくる。
もっとも……その間も鬱金は、自身の記憶を思い出すことはなかった。
その内細やかな仕事として、山に登るための縄や網をかける訓練や、木に麻布を括り付ける訓練も行って、ようやく棟梁の薄墨から山に入る許可をもらうことができた。
「ひと月、どうにかやり遂げたねえ」
仕込みを行っていた紅華は、やれやれといった様子で鬱金に笑いかけた。それに鬱金もこくんと頷く。
ひと月の間の仕込み、やることも覚えることも多く、鬱金はてんてこ舞いになりながらもどうにか、それらひとつひとつを乗り越えていった。小さな体が木刀を素振りする様は木刀を振るというよりも振り回されているものであったが、終盤のほうではきちんと振り下ろすことができるようになったので、及第点だ。
しかし不思議なことがあった。
あれだけ毎日の鍛錬や掃除などの仕込みを繰り返したにもかかわらず、何故か鬱金の手は綺麗なままだったのである。
紅華は仕込み期間中に、まだ皮膚が薄く柔らかった手は皮がめくれ、豆だらけのでこぼことした手に変わっていったというのに、鬱金の手は最初に彼女が腐葉土から引っ張り上げたときと同じく、つるんとしたままであった。
おまけにこれだけ力仕事をしても、鬱金は体格が変わることもなかった。
紅華は女で、ひと月間の仕込みの中でもそこまで筋肉が付くこともなかったが、鬱金は最初の日と同じように、綺麗な子供のままだった。髪は丁寧に梳いている暇もないのに、ずっとへたる様子もなくつるんと光沢を保ったまま。腕も足も相変わらず細くて、山仕事をしているものとは、とてもじゃないが思えなかった。
「これだけ肉が付かねえ体質で、仕込みを終えた奴はひとりもいないんだがなあ……」
何人もの櫻守の仕込みを行い、他の山へと巣立つのを見送った薄墨も、鬱金が全く変わらない有様を不思議がっていた。
「じゃあその例外第一号が、鬱金ってことかい?」
「そうかもしれんが、こうも珍しいことはなかなかねえんだがなあ」
皆で顔を突き合わせて首を捻っても、誰も答えを得ることはなかった。
さて。今日初めて山に入るからと、馬にあれこれと荷を乗せる。乗せながら紅華が薄墨に尋ねる。
「棟梁、山に登ったら、今日はなんの作業を行うの?」
「今日か。今日は桜に付いているこけを全部そぎ落とさないといけねえ。ひと月の間は、俺もできる限りのことはしたが、それでも俺が間に合わないで大分物の怪に幹ごと食われたからなあ。今日こそは全部やらねえと、春までに桜が全部食われて折られちまう」
「わかった。鬱金、桜の幹のこけはどうやって落とす?」
仕込み期間中に、櫻守の仕事内容はあらかた教えた。座学は学ぶのも教えるのも苦手だった紅華ではあるが、鬱金はそんな彼女によくついてきてくれた。
「箒で引っ掛けて、丁寧に。幹を食べられた桜は麻布を巻いて補強する」
「よし。その荷物を馬に乗せるんだよ」
鬱金と紅華は麻布をひと巻き、箒を馬に積むとようやく自分たちも乗り、薄墨について山に登りはじめた。
今日は雪も雨もない。まだ日は低いために空は白いが、時期に青へと変わるだろう。雲はほんのりと出てはいるが、今日は雨にはならないだろう。
馬に乗りながら、鬱金は山を見上げる。
登っていけばいくほど、道はどんどん細く狭くなり、馬が一匹かろうじて通れる程度の幅しかない道を通り抜ける。ようやく目的の場所に辿り着いた。
紅華は馬から降りると、手綱を木に括り付けながら鬱金に言う。
「速く括っちまいな。ここから先は歩いていくから、積んでいる荷物を全部背負って」
「うん」
「それじゃあ行くぞ」
薄墨がそう言って先導しながら、馬に乗せていた荷物を背負い直して、上へと登っていく。
山に登っていくごとに、ひんやりとした空気が鬱金の頬を容赦なく突き刺してくる。今までは麓で一生懸命仕込みを行っていた鬱金だが、こうして冬山を感じるのは初めてだった。
山の斜面には腐葉土が積もり、土は柔らかくふかふかしているが、上を登っていくごとに、ところどころ岩肌が目立つことに気付き、鬱金は首を傾げる。
岩肌が目立つと桜が目立たなくなるからと、見かけたらすぐに植樹するようにと、仕込みの際に教わっていたから、これだけ岩肌があるのがおかしいのだ。
「この辺り、桜の樹は生えてないの?」
「ああ、この辺りか」
薄墨は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、岩肌を見下ろす。
「桜の樹が物の怪に食われちまったのさ」
「……物の怪って、こけや桜の皮を食べるんじゃなかったの?」
「ときどき若木も食われちまうが……原因はわからねえが、この数年岩肌を補強するために若木を植樹しても、すぐに駄目になっちまう。このあたりは
「くすし?」
鬱金がきょとんとして尋ねるので、話を聞いていた紅華が答える。
「
「そんなお医者さんがいるんだったら、桜の樹を診てもらうことってできないの?」
鬱金の当たり前のような質問に、今度は紅華が苦虫を潰したかのような顔になった。
「来てって頼んですぐに来てくれるんだったら、あたしたちだってとっくの昔に呼んでいるさね。でもねえ、あいつらも直轄は庭師だし、庭師は朝廷の仕事を優先するのさ。下っ端の櫻守がどれだけ訴えたら来てくれるのか、とんと見当できないんだ」
「ちょうてい……? じゃあそのちょうていに頼んでは駄目なの?」
鬱金の素朴な疑問を、紅華は心底嫌な顔をして赤いまとめた髪を揺らして否定する。
「朝廷は、簡単に言っちまうと役所の上の上の一番上のところだけれど、あそこに訴える権限なんて、下っ端のあたしたちにはないよ。役所にでも庭師が出てきたら、庭師越しに頼めるかもしれないけど、庭師もあたしたちのこと完全に舐めているからねえ……」
「にわし?」
先程から知らない言葉ばかり出てくるものの、鬱金は薄墨と紅華から交互に解説され、少しずつそれらを咀嚼していっている。
庭師もまた、すかさず薄墨から説明が入った。
「庭師っつうのは、朝廷管轄の櫻守だ。俺たち庶民側で下っ端の櫻守の管理者に当たる。でも本当にたまにしか俺たちに接触してこないから、俺たちから直接庭師に朝廷に交渉してくれと直談判しに行くことはできねえ」
それにますます鬱金は困った顔になった。
「同じ櫻守なのに……協力できないの?」
「うーん……どう言えばいいかね。広義の上では同じ櫻守なんだけれど、あたしたちは一般庶民。平民。庭師は貴族って言えばわかるかい?」
「一般庶民と貴族だと、協力できないの?」
鬱金の当然ながらの疑問に、紅華は「うう」と呻き声を上げながらも、どうにか答える。
「あたしたちは協力する気はあるよ。利害が一致するんだったらね。ただねえ……貴族は平民とは人間が違うって思い込んでいるところがあるからね。そのせいで協力できないって話なんだ」
その話に、鬱金はただただ困惑していた。
身分についてわかっていない鬱金からしてみれば、同じ桜を守っているんだったら協力すればいいのにと、そればかり考えてしまう。千年花が枯れたら困るのは、この国に住んでいたら皆一緒なのだから。
「ふうん……桜が枯れたら、この国の人皆困るはずなのにね」
鬱金のぽつりと言った言葉に、薄墨も紅華も押し黙る。
櫻守として、ずっと桜の樹の世話をし続けていたら、このままじゃまずいということくらいわかってはいるのだ。ただ、朝廷に訴える手段がないだけで。
「……まあ、その内庭師だって定期連絡にやって来るだろうさ。そのときにでも訴えればいい」
「うん」
「さあ、俺たちは俺たちの仕事をはじめようじゃねえか」
三人がしゃべりながら山を登っている間に、目的の桜の森に到着した。
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