四
薄墨が役所に出て行ったのを見てから、まず紅華は木刀を持たせた。
それを持っただけで、鬱金はよろめいた。木刀なんて軽々しくいうものの、重さは日頃紅華や薄墨が背に佩いている刀となんら変わりはない。持ち慣れなければ、どうしても重さに負けてよろめくのだ。
「まずは木刀の素振りを三十回から!」
「すぶり?」
「……そこからかあ。ええっと、こう構えて、振る!」
紅華が見本としてぶんっと上下に振り下ろせば、風を切る音が響く。それで鬱金の髪が揺れる。
「わかる? この行動のこと。やってみて?」
「う、うん……」
鬱金は言われたとおりにぶんっと振るが、小柄なせいなのか、慣れてないせいなのか、へっぴり腰な上に、振った途端に勢いに負けてすっ転んだ。
それに紅華は「んー……」とこめかみに手を当てる。
「もうちょっと木刀の掴み方を緩めて。そんでもって、足を上下に広げて。こう」
「こう?」
紅華に言われるがままに、鬱金は足と腕を構え、木刀を振るう。
先程よりも姿勢はよくなり、ぶんっと振り下ろすことができたが、五回振ったところでだんだん腕が痺れてきて、木刀を持つ手にも力が入らなくなってきた。
「う、でが……」
既に鬱金の腕はプルプル震えているが、紅華に容赦はない。
「木刀をちゃんとすっぽ抜けないように持ちな。それにあと二十五回もあるよ。そんなところで止められる訳ないさね」
「で、でも……」
「ほら! 物の怪は刀がすっぽ抜けても、拾い上げるまで待ってくれる訳はないさね。ちゃんと持つ! そして素振りを続ける!」
「う……う……」
紅華は言い方はきつかったものの、鬱金があどけない顔を歪めて、今にも泣き出しそうなのを見て、内心胸が苦しくなっていた。
だが、働かざる者食うべからず。
そもそも櫻守が桜を守らずにただのほほんと小屋で配膳係だけさせる訳にもいかないし、そもそも自分たちにだってそこまで余裕がある訳でもない。だからと言って、なんの仕込みも終えていない子供を櫻守と称して山に放り込む訳にもいかない。
泣いても心を鬼にして続けるしかなかった。
鬱金は泣きそうな顔をしながらも、どうにか木刀を振るう。
二十七、二十八、二十九……。
「三十! はい、終わり!」
「うう……うう……」
そのまま鬱金は地面に寝っ転がってしまった。腕は木刀を振るい続けた結果上がらなくなり、そのままぷるぷると震えている。
紅華は屈み込んだ。
「お疲れ様。ほら、休憩したら次の仕事があるよ」
「こ、んどはなにを……?」
「肥料をつくらないと駄目なのさ。桜を育てるためのね」
「ひりょう……?」
「桜を太く丈夫に育てるためには、肥料を持っていかないと駄目なのさ。休憩したら行くよ。ほら、お飲み」
そう言いながら、紅華は水差しから水を汲んで、それを鬱金に差し出す。
それをごくごく大きく喉の音を立てて飲み干した鬱金は、重い体を引きずって、紅華に付いていった。少しの休憩では、素振りで疲れ切った体の重さはなかなか消えやしない。
小屋の裏に、肥料をつくっている作業場が存在した。
作業場には、厩舎から取ってきた馬糞に、藁、桜の腐葉土が積まれて、大きな筒の中に入れられていた。それらを定期的にかき混ぜるのだ。
「一日に一回、これをかき回すんだよ。あんまりかき混ぜ過ぎても意味ないんだけどね。全くかき回さないと、ただ腐っただけになっちまう」
紅華は筒に材料を入れると、それを棒を使ってかき混ぜはじめた。
「ほら、あんたもやってみな」
「うん……おっも……っ!」
ただでさえ素振りで腕がぷるぷると震えている鬱金にとって、粘りのある肥料をかき混ぜる作業は何度も何度も肥料にかき混ぜ棒を持っていかれそうになり、つらい作業ではあったが。
裏庭からだと、普段櫻守が登る山がよく見えた。
まだ桜の季節からずれているために、花一輪咲いてはいない山ではあったが、桜の樹の色が見える山は見ていると何故か郷愁の念が締め付けてくる。
「どうして桜を大切にしているの?」
鬱金の問いに、紅華は「んーんーんーんー」と困ったように声を上げる。彼女は鬱金の向かいで一生懸命肥料をかき混ぜている。
「難しいね。そもそもうちの国自体が千年花の上にある国だからかもしれない」
「千年花って、最下層に見えた、あの真っ白な?」
鬱金の問いに、紅華は大きく頷く。
「そうさね。あたしたちは、その上に住んでいる。地面も他の桜も、全部千年花の上に存在しているし、あたしたち人間も動物も、その上に住んでいるのさ」
「だから守っているの? でも、棟梁と紅華だけで守っているの?」
ここに住んでいる櫻守は、このふたりだけなような気がする。鬱金の問いに、紅華は軽く首を振る。
「そんな訳ないよ。あたしたちが担当しているのがここの山一帯ってだけ。他の山は他の櫻守の管轄だし、守っている桜の種類も変わるからねえ」
そう言って他の山を指差す。普段登る山と同じく、今は木の色しか見えない山は高く険しそうだ。
「そうなんだ……物の怪って? 見たことないけど」
鬱金に言われ、そういえばと紅華は気付く。
彼を連れて小屋まで戻ってきたが、それまで物の怪に襲われることもなかったから、彼は未だに物の怪を見たことがないのだった。紅華は「んー……」とまたも言葉尻を伸ばしながら、説明を頭の中で組み立てる。
「知らない。人間じゃないし、区分じゃ動物とも違う。ただ、あいつら桜を枯らそうとするんだよ。腹を減らしたら桜の幹や若木を際限なく食っちまうし、更に腹を減らしてたら空腹を満たすためだけに、人だって容赦なく食らう。だから見つけ次第殺さないといけない。桜が枯れたら、あたしたちは間違いなく死ぬから」
「死ぬの?」
食べられたら死ぬ。それは簡素でわかりやすいが、桜が枯れると死ぬというのに、鬱金はいまいちぴんと来なかった。しかし、紅華は仰々しく頷いた。
「当たり前じゃないか。あたしたちは千年花の上で生活しているんだ。それが折れてみろ、地面が割れて、この国に住んでいる人間が皆死ぬ。だから櫻守が山ひとつ任されて、それぞれ配置された場所の物の怪を殺して回っているんだ」
「……そうなんだ」
鬱金はそう言いながら、再び肥料を混ぜる作業に戻った。粘りのある肥料を混ぜる作業を終えたら、次は厩舎の世話に向かう。
「本当だったら朝一番に厩舎に行くんだけどねえ。今日は特別だよ。ちゃんと馬の機嫌を取ってあげないとねえ」
「うん」
そこには馬が二頭入っていた。
「あんたももうちょっとしたら、あんた用の馬も借りてきて、馬の乗り方も教えないと駄目だねえ」
「どうして?」
「山の中に入るまでは、馬を使わないと駄目だからさ。夜になったら物の怪が活発化するから、作業なんてできやしない。だから櫻守は朝一番に山に登って、夕方になる前に切り上げて戻るのさ」
「そうなんだね」
鬱金はそう言いながら、馬の頭を撫でる。
普段紅華が面倒を見ている馬は、気持ちよさそうに鬱金に頭を擦り付けるのに彼はあどけない笑みを浮かべる。それを紅華は少しだけ驚いた顔をして見つめていた。
刃物が怖い、火が怖いと、なんでもかんでも脅えた様子を見せていた割には、鬱金どころか紅華よりも大きな馬に対して動じる気配がない。
馬を一旦厩舎の外に出して、近くの木に繋ぎ直すと、その間に馬糞をかき集めて大八車に乗せて裏庭まで運び、藁を新しいものに入れ替え、掃除していく。
鬱金は紐を引いて馬を連れて行くときも、馬は暴れることなく大人しくしていた。それを紅華は関心した顔で眺めていた。
「鬱金、あんた馬には好かれる性分なんだね?」
「そういうものなの?」
それに紅華は頷く。馬は上下関係というものに敏感で、一番下だと判断した人間の言うことはまず聞かないから、妙に馬に好かれている鬱金が珍しく見えたのだ。
「少なくとも、あたしがここで仕込まれはじめたときは、馬に舐められて、厩舎の掃除のために外に連れて行くだけで大騒ぎだったさ。だけどあんたが連れて行くと馬も大人しいし、少なくとも舐められちゃいないんだろうねえ。案外、馬を操る才能はあるのかもね」
「そうなのかな」
鬱金は優しく馬の鼻の頭を撫でると、馬はもっと撫でろと言わんばかりに頭を下げた。やはり馬に好かれている。紅華は笑いながら、掃除を終えたところで、今日一日の仕事は終わった。
食事の準備をする際に、相変わらず刃も火も怖がる鬱金に、せめて切った薪をかまどに運んで欲しいとか、糠床を混ぜて新しい野菜を漬け込んで欲しいとか頼むと、それは小柄で怖がりな彼でも難なくこなしている。
味噌玉を溶かして味噌汁をつくり、今日は時間があるからと干している魚を取って、それをあぶっていたところで、役所に行っていた薄墨がようやく戻ってきた。
「ただいま……」
朝から役所に出かけていた薄墨は、ややくたびれた様子だった。
役所は平民が数少なく朝廷と連絡が取れる場所だ。
そこでのやり取りはなにかと心身が削れるため、このような顔になるのも当然だった。
「ああ、お帰りー。この子の保護者見つかったかい?」
紅華の問いに、薄墨は履物を脱いで小屋に上がってから、あぐらをかいて座り込む。
「それがなあ。この数日子供の捜索願は出されちゃいなかった。それどころか国外から子供連れが来たって話もなかった」
「ええ……」
鬱金はあまりにも世間知らずなのだから、どこぞの貴族の子供なり、他国の旅行者なりを想像していた。相当大事に育てられたのだろうと、紅華は勝手にそう思っていた。なのに捜索願すら出されていないというのはどういうことなのか。紅華は口を尖らせてながら、鬱金を見る。
彼は薄墨の言葉にも、首を傾げるばかりで、なにも気にしている素振りは見せなかった。彼の保護者は放任主義だったんだろうか。物を知らな過ぎるのだから、放任にも程があるように思うが。
紅華は気を取り直して「鬱金、お皿取っておくれ、魚を焼いたから」と告げると彼はぱたぱたと魚を入れる浅皿を取ってきてくれ、それにあぶった魚を載せた。
皆でお膳を囲みながら、食事をはじめる中でも、薄墨は味噌汁をすすりつつ言う。
「役所に届けが出てねえってことは、この子の保護者は見つかってねえってことだ。でもうちにただで置いておく訳にもいかねえから、やることは変わらない。わかってるな、紅華」
「……わかってるよ。ねえ鬱金」
「なに?」
鬱金は魚を分解して食べていた。小骨を喉に刺して目を白黒とさせていくので、薄墨は静かに「米を噛まずに飲み込め」と教えて、どうにか飲み込んでから、紅華と顔を合わせた。
つるんとした顔は端正で、真っ白な髪の艶は、今日一日櫻守の仕込みで動き回ったのにもかかわらず、へたったり乱れたりしていない。最初に会った日から、相変わらず鬱金は美しい見目を保っていた。
紅華は言い含めるようにして告げる。
「明日から、ますます仕込みは厳しくなると思うよ。山に登るには、自分で自分の命を守れないといけないからね」
「うん」
「……一応聞くけど、嫌なら嫌って言ってもいいんだよ?」
これはなにも、紅華が鬱金を追い出したい訳ではない。
山を舐めていたら山に殺されるし、実際に事故で死ぬ櫻守は後を絶たない。そのせいで櫻守は、「訳あり」のなる職だと言われていた。
継ぐ者がなにもない者や、自立するために手段を選んでいられない者、身内が誰もいない者が、櫻守になるとされている。
紅華の気遣いに、鬱金はわかっているのかわかっていないのか、あどけない顔で真っ白な髪を揺らしながら答える。
「だって、ぼくは行くところが他にないよ? できないことは多いけれど、できないからってしない理由にはならないでしょう?」
澄んだ瞳でそう聞き返すので、紅華は心底ほっとしたように息を吐き出した。何者かもそうだが、いまいちなにを考えているのかさえもわからない子ではあるが、なにも考えていない訳ではないとわかっただけでも僥倖だ。
はっきり言って、鬱金は本来ならば櫻守としては落第点であり、他の仕込みであったらさっさと孤児社に捨ててもおかしくはなかった。仕込みを行っているのが紅華であり、彼女の育ての親が薄墨でなかったら、間違いなく孤児社行きであった。
火は怖い、刃物が怖い。物の怪と刀で対峙し、死骸を燃やすことを生業のひとつとしている櫻守としては致命傷であったが。
だがいい櫻守の特徴である、馬に好かれる性分をそのまま放り捨てるのはあまりにも惜しかった。馬に舐められたせいで山の急な坂道に置き去りにされ、結果として餓死してしまった櫻守もいる中で、馬に好かれるのは美徳であった。
こうして、食事を終え、明日の食事と仕込みの準備をしてから、眠りにつくことにした。
桜の匂いが濃い。今日は山に登ってもいないというのに。
紅華は初めて仕込みをする側に回った疲労で、朝までぐっすりと眠りこけてしまった。
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