そこには物の怪が喉を鳴らして立っていたのだ。白く逆立った毛並みに鋭い牙を剥き出しにしてぐるぐると喉を鳴らしているのは、大神おおがみであった。

 それに鬱金は震える。

 大神の牙は鋭く、簡単に千年花の硬い樹皮も噛み砕いてしまう。

 物の怪の中でも大神は滅多に冬眠しない種類だが、こんな真冬に山をうろついているものでもないと、紅華の座学で習ったはずだった。

 薄墨の言っている通り、千年花が枯れかけているせいで、大神も変調してしまっているのだろうか。

 そもそも冬になれば川の水も凍ってしまうから、起きている物の怪たちが水を飲む手段と言ったら、柔い木を噛み砕いて、その木が吸った水をすする以外にない。

 このままではただでさえ弱っている千年花が。


「お願い、止めて」


 鬱金が震えて大神にそう訴えるが、ぐるぐると嘶く大神は鬱金の話を聞いてはいない。ただ喉を鳴らして訴えるばかりだ。お前はどけと。

 鬱金は震える体をどうにかしゃんと伸ばして、背中に佩いた木刀を手に取ると、それを必死で振った。

 日頃から紅華にさんざん怒られてきた木刀捌きで、どうにか大神を退けようとしたが、それは簡単にひょいと高く飛んだ大神に避けられてしまった。

 鬱金の木刀は空振りして、そのままつんのめる。

 その勢いで大神は金色の瞳で鬱金を見た。大したことない、そう判断を下されたようであった。

 つんのめっても、へっぴり腰でも、それでも鬱金は必死で木刀を構え直して大神に訴える。


「困るんだよ、本当に。お願いだから……君を、殺したくないんだ」


 紅華に聞かれたら本気で怒られてしまうんだろうし、薄墨に見られたら「生死かかっている場で交渉なんかするんじゃねえ」と怒鳴られてもおかしくなかったが、これは紛れもない鬱金の本心であった。

 鬱金は心の底から、物の怪を殺すことを躊躇っている。

 今まで物の怪に襲われたことがない。

 遭遇したのだって先程の鵺が初めてだからかもしれないと思っていたが。

 今、一対一になっていてもなお、鬱金は物の怪を殺したいとさっぱりと思えなかったのだった。

 しかし大神はぐるぐると喉を鳴らすと、大きく跳躍した。大きく口を開くと、鋭い牙が見える。息は荒く、口からは粘液のような唾液が顔を覗かせている。

 噛み殺される。

 鬱金は思わず座り込んでしまったとき、大神は鬱金の真っ白な髪をひと房引きちぎるようにして食らった。


「グルウゥゥ」

「あうぅっ……!」


 鬱金は悲鳴を上げる。

 頭皮がひりひりと痛むのは、無理矢理髪を引き千切られたせいで、皮膚が破れたせいだ。

 血が滲んでぽたぽたと額を伝って落ちてくる中。鬱金はよれよれと大神を見る。

 大神は髪をぺっと吐き捨てると、続いて鬱金に牙を剥いたが、なにかおかしい。

 いきなりだらだらと唾液を垂らしはじめたが、先程の空腹を訴えるものと趣が違うように見える。

 先程まで俊敏だった大神の動きが、鬱金の髪をむしった途端に鈍くなったのだ。

 まるで食あたりのように足元がふらふらとするが、大神がむしったのは毒を含んだ草木ではなく、鬱金の髪なのだ。やがて、鋭かった大神の視線がぐにゃりと曲がったかと思ったら。


「アォォォォォォォォン」


 まるで悲鳴のような嘶きを上げ、そのまま倒れてしまった。口からは粘液のような唾液に混ざって泡と血を噴き出して。それに鬱金は唖然とする。

 恐々と倒れた大神の近くに寄ってみるが、ぴくりとも動かない。

 倒れたふりをして鬱金を襲う真似もしない。先程まで荒れていた生温かかった鼻息も、ぐるぐるという喉の音も消え、ただ静かに腐葉土に横たわっている。


「どう、して……?」


 ぽつんと呟いた。

 鬱金は助かったものの、どうして大神が死んだのかがわからない。

 可能性があるとしたら鬱金の髪をむしり食ったことくらいだが、鬱金の髪なんて大したことがないはずなのに。鬱金はひとりでおろおろとうろたえたが、櫻守としては物の怪の死骸をこのまま放置しておくこともできないことに気付いた。

 本来なら、物の怪の死骸はすぐに火を点けて灰になるまで燃やし、物の怪避けの香に変えなければいけないのだが。鬱金は物の怪避けの香の器も火打ち石も持ってきていない上に、火そのものが怖くてどのみちできない。

 だからと言って物の怪の死骸を放置していたら、他の物の怪が寄ってきてしまうので、千年花を食らいに他の物の怪をおびき寄せてしまう可能性だってある。物の怪はあまりに腹を減らしていたら、共食いだって平気で行ってしまうし、人間だって食らってしまうのだから。

 結局は、他の物の怪に食べられないようにと、腐葉土を掘って埋めることにした。

 木刀を使って柔らかい腐葉土を掘り起こし、掘った穴に大神を落とす。


「……ごめんなさい、ごめんなさい」


 突然死んでしまった大神に腐葉土をかけて、そのまま沈める。これが正しいのかどうか、鬱金にもわからなかったが。

 それに未だに最下層から出ることができていないが、日が落ちてしまう前に上に戻らないといけない。

 ひりひりと痛む頭皮と血の匂いを嗅ぎながら、木刀を背中に佩くと、どうにか鬱金はよれよれと上へと登る道を探し出して、壁を這うようにして登っていった。

 前に紅華と一緒に登った道よりも険しい上に、横にならなければ通ることもかなわないほどに細く狭い道だった。

 どうにか中腹まで登り切ったところで、ようやく紅華と薄墨と合流した。ふたりは慌てて落ちた鬱金を探しに降りようとしていたが、道が悪くてなかなか鬱金の落ちた最下層まで到達できなかったようだった。

 紅華は鬱金を目に捉えて、すぐに走り寄って来る。


「鬱金! あんた大丈夫だったかい? って、全然大丈夫じゃないね!」


 彼女はあからさまに髪が無残に食いちぎられ、皮膚が破れて血を出している鬱金を見て、当然ながら悲鳴を上げた。それに鬱金は困った顔で頷いた。


「ごめん、大神に襲われたんだ……」

「あんた大神に襲われておいて、よく髪をむしられただけで済んだね……!」


 紅華が悲鳴を上げている中、薄墨は渋い顔で腕を組んで鬱金を見た。


「どうやって逃げおおせた?」

「……逃げてないよ。ただ、大神がいきなり襲ってきたと思ったら、勝手に死んでしまって……」

「勝手に死んだ? なにやったんだ。あいつは鵺よりもよっぽど強いから、香木を焚いて鼻が言うこと聞かないうちに逃げおおせる以外に、距離を取る手段すらなかったはずなんだが」


 鬱金は自分でも信じられないと、大神が死んだ経緯を語る。

 そもそも襲われた際に髪を引きちぎられたら、勝手に死んでしまったなんて言っても、どうやって証明すればいいのか鬱金にはわからなかった。だからと言って証明したいとも思えないし。

 それに紅華は首を傾げ、鬱金は腕を組んで考え込んでしまった。鬱金からしてみれば訳がわからない上に、それ以外に説明しようがない。

 しばらく考え込んでいた薄墨は、ようやく口を開いた。


「とにかく、山を降りるぞ。降りたら紅華、鬱金の妙ちくりんになった髪を切ってやれ。あと、その切った髪を調べさせてくれや」

「へえ……? そりゃいいけど」


 ふたりとも訳がわからないまま、薄墨についていき、馬の元にようやく戻ると下山していった。

 その日は本来、桜のこけ落としという櫻守にとって一番楽な仕事のはずだった。

だというのに、鵺や大神など明らかに強過ぎる物の怪が現れるわ、櫻守が最下層に落とされるわと、さんざん過ぎる日であった。

 干しきのこを酒で戻した澄まし汁に、鳥の燻製を炙って食事を済ませたあと、紅華は鋏を持ってきて鬱金の髪を切ってくれた。

 鬱金は鋏も怖そうに震えていたので、紅華が溜息をつく。


「さすがにあたしも物の怪のようにあんたに牙を立てて髪を切る訳にゃいかないだろ。髪くらい切らせておくれ」

「う、うん……」


 紅華は鬱金の真っ白な髪に鋏を入れるたびに、彼のつくった怪我や破れた皮膚に渋い顔をする。


「あんた、本当によく助かったね。これ、もっとやられていたら、死んでたよ」

「ご、ごめんなさ……」

「謝って欲しいんじゃなくてさ。でもおかしな話だよねえ。最下層にそんな厄介な物の怪がいて、それを放置してたんじゃ、ますます庭師の奴らの職務怠慢じゃないか。あいつらなにやってんだよ」


 髪をどうにか切り揃えたものの、破れた皮膚やしばらく剥げてしまった部分までは擁護することはできず、三角巾を巻いて生え揃うまでそれで誤魔化すことにした。


「せっかく綺麗な髪だったのに、もったいなかったねえ……」


 紅華が残念そうに言うのに、鬱金は少なからず申し訳ない気分になった。彼の傷みひとつ知らなかった髪は、無残にむしられたことで毛先がボロボロになってしまい、結構な量を切らなかったら、三角巾を巻いても誤魔化しきれなかったのだから。

 髪を集めて薄墨に渡すと、鬱金はきょとんとした顔で紅華を見上げる。


「でもその庭師、ぼくは一度も会ったことないけど、本当にいるの?」


 たびたび紅華の口からは、庭師の悪口が漏れている。

 しかし鬱金はそもそも彼らに会ったことがないために、どういう人物なのかが判断できなかった。

 貴族だということ以外、なにもわかっていない。朝廷で働く櫻守だとは聞いているが、そもそも最下層にいる物の怪を放置していたら職務怠慢とか、彼からしてみれば謎過ぎるのだった。

 鬱金の素朴な疑問に、紅華は肩を竦める。


「いるはずなんだよねえ。あたしはあいつら、えらっそうで嫌いだけどねー。あと数か月で春だし、そのときに今年の花見会はどの山で催すかの選定に入るから、そろそろ山にいるはずなんだけどねえ」

「花見会?」

「あー……そういえばその話はしていなかったっけ」


 紅華が言う。


「朝廷の帝が、花見会を行うんだよ」

「みかど?」

「櫻花国の一番偉い人のことさね。その人がうちの国の数少ない外国からの客を迎え入れる行事を執り行うんだよ」

「それが花見会?」

「ああ、そうだよ。桜がもっとも美しい場所で祭りや宴を開いて、それで一年のねぎらいを行うんだよ……まあ、最近だったら庭師が花見会で山を選ぶ選考基準も細かくなってしまって、詳しいことはあたしたちもよくは知らないんだけどねえ」


 どうも朝廷にいる櫻守が庭師と呼ばれているのは、帝のいる朝廷……庭を守る櫻守だかららしい。鬱金がぼんやりとそう納得していたら。


「その庭師だが」


 薄墨は紅華の切った鬱金の髪きれを弄りながら言う。


「お前みたいに術を使って物の怪を屠るんだが……」

「じゅつ?」


 鬱金はいきなりそんなことを言われて、途方に暮れる。そもそもそんなものを使った覚えがない。薄墨の指摘に、紅華は口を尖がらせた。


「術ぅー? 棟梁、鬱金は術なんか……」

「そうとしか思えんのだがなあ。鬱金の髪だが、これは俺たちが物の怪避けの香に使っているものと同じ匂いがする」


 そう言って薄墨が鬱金の髪きれに鼻を推し当てるのに、紅華は思わず目の前の鬱金の髪に鼻を当てると、鬱金は目を白黒とさせる。


「な、なあに?」


 ただ汗と土、鬱金が落ちたらしい腐葉土の匂いしかせず、桜の匂いすらしなかった。紅華はピンとしなかったようで、首を捻って薄墨に振り替えった。


「……あたしにはよくわからないけど」


 紅華がようやく離れたのにほっとしながらも、鬱金は薄墨に対して疑問をぶつけた。


「……そもそも物の怪避けの香は、物の怪の死骸からつくるんじゃ……?」

「基本的にはな。物の怪の死骸を燃やしておけば、それより強い物の怪は寄ってこれないから。だが、そんなもん鵺だったり大神だったりに効く訳がない」


 物の怪は強い物の怪の死骸の灰を撒けば、おそれて寄ってこなくなる。たしかに物の怪避けの香を焚いておけば弱い物の怪は来なかった。

 が、鵺にも大神にも物の怪避けの香は一切効かなかったのは、今日身をもって証明している。

 それにさらに薄墨が説明を付け加える。


「しかしそんな大物の物の怪にも効くものがなかったら、朝廷を守れる訳がないだろ。あそこに物の怪が湧いた話は聞いたことがない。それで物の怪避けの香の替わりに多用されるのが、庭師の使う術だ」


 薄墨にそう説明されても、鬱金は納得ができずに困った顔をして首を横に振って見せる。


「ぼく、そんなものを使った覚え、やっぱりないよ……?」


 熱心に講義を受けたものの、やっぱり鬱金はそんなものを使った覚えがなかった。落としてきた記憶のものを無意識に使ったのなら理解できるが、やっぱりおかしなことをした覚えがない。

 そもそも、いきなり髪をむしられたことが術を使ったことだと言われても、やっぱり納得はできなかった。鬱金は術をどのようにして使うのかすら知らないのだから、余計にだ。


「無意識に、なのかもしれんなあ……」


 そう薄墨に言われてしまい、ますます鬱金は困り果てた顔をしてしまった。

 その日はそれだけに終わり、寝床で寝るときも鬱金はひとりで悶々と考え込んでしまった。

 櫻守として初めて山に登った今日、ずいぶんとさんざんな目に遭った。

 物の怪に襲われる、仲間が物の怪に殺されかける、山から落ちる、今度は自分が殺されかける……そこまでさんざんな目に遭い、それでもなお鬱金は自分自身の気持ちに気付いてしまった。

 あれだけ紅華に鍛錬に付き合ってもらったにもかかわらず、鬱金は一度も憎悪を物の怪に対して向けなかった──いや、向けられなかった。

 紅華が殺されかけても、自分が殺されかけてもなお、鬱金は物の怪を殺したくなかったのである。物の怪に幹を食われてぼろぼろになってしまったいつ折れるかもわからない若木だってさんざん見たし、それに麻布を巻いて補強したにも関わらず、それでも物の怪を憎む気にも嫌う気にもなれなかった。

 千年花がどうして弱ってしまったのかはわからないし、この木が枯れてしまったら、その上に住んでいる人々がひとたまりもないということだってわかっている。それでもなお。

 自分はなにかが欠けているんだろうか。そう鬱金は不安になる。

 疲れが溜まり、本当だったらすぐにでも寝入ってしまいたいのに、頭だけはずいぶんと冴えてしまい寝付くことができず、ひとり鬱金は寝返りを打ちながら、ひとり悶々としている中。

 隣で眠っている紅華の声を耳にした。


「……お母さん」


 そうはっきりと声にしているのに、鬱金は少し目を見開いて驚いた。普段気丈な姉御肌の彼女から出たとは思えないほどに、儚い声であった。まるで幼い子供のように頼りない、日頃の紅華の気性を知っていたら意外だと思うような、そんな声。

 思えば。櫻守の仕事は命がけなのだ。だから、あんな声が出てもおかしくはない。

 鬱金は彼女の声を聞かなかったことにして、蒲団を深く被って眠りについた。

 必死で眠ろうとしたら、やっと体の疲れが頭に追い付いて、意識を飛ばすことができた。

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