千年花の櫻守
石田空
鬱金
一
冬山であり、雪が降っていないとはいえど、最下層は不思議と暖かだった。
辺りには大きな木から盛り上がった根に、腐葉土しか見えない。その腐葉土には冬のわずかな陽光が溜まり、命の循環があり、それが冬でも最下層に暖かさを与えていた。
しかしここには
シャクンシャクンと土をかくたびに、ひとつに結われた赤い髪が散らばり、揺れる。
人気のないこの場に、何故か
「あんた、大丈夫かい!?」
必死でそう呼びかけるが、返事はない。
彼女が必死で土をかく先には白いものが見える。それはつるりとした直垂に日に焼けていない白い肌。そして土に埋まっていてもなおつるりと光沢を見せつける白い髪。
ふっくらとした頬に柔らかそうな輪郭の唇。目を見張るほどに美しい少年が、土に埋まっていた。
必死で紅華は「待ってな! すぐ助けるから!」と必死で声をかけるが、少年の目は閉ざされたままで、目を縁取る睫毛が揺れる気配すらない。
どうしてこうなったんだろう。自分はただ、仕事をしていただけなのに。
柔らかい腐葉土はかけばかくほど崩れて、さらさらと少年を再び埋めようとする。だからかくたびに土の山をどけなければ、堂々巡りだ。
紅華は泣きそうになりながらも、土をかくのを止めなかった。何故埋まっているのかわからないが、埋められている少年を見捨てられるほど、紅華も薄情にはなれなかったのだ。
彼女の奮闘を見下ろすのは、太く真っ白な幹に、伸びやかに梢を伸ばし続ける木だけであった。
これは冬から春……すっかりと枝が葉を落とした頃から、桜の花を付ける花見日和までの物語である。
****
空はまだ暗く、星が未だに散らばっているのが見える。その中、小屋にもうもうと煙が立ち昇っていた。
厩舎の馬に水と餌をやると、かまどに火を仕掛けた。
直垂の袖をたすき掛けして、赤い前髪が額にぴったりと貼り付くほどに汗を噴き出しながら、筒を吹いてかまどに空気を送っている。
米を炊くのは、櫻守の中で一番下の紅華の役目だった。
かまどに火が回ったのを確認してから、やっと額の汗を拭いて、かまどから離れる。
今日一日分の食事の米が炊けるまでの間、自身の持ち物を検める。
背中に佩く刀の調子、箒、鋏、麻布、縄の確認をし、最後に物の怪避けの香を提灯に流し入れる。
だんだんかまどに仕掛けた鍋からクプクプと音が立ちはじめた。その音でようやく紅華は振り返った。
パチンパチンと桜の枝の爆ぜる音を聞きながら、ようやく米が炊けたのを確認した。
鍋がくつくつと煮えたぎり、それがシン……と静まったところで、ようやく鍋から炊き立ての飯を取り出した。
「あっつあっつ……!」
手に塩を付けて、それで飯を握っていく。その頃にようやく
まだ三十半ばのはずの薄墨は、老成した雰囲気を醸し出し、名前の通り煤けた灰色の髪をひとつにまとめながら、握り飯をひとつ手に取ってかぶりついた。
「……おはよう」
つまみ食いをされても、紅華は意に還すこともなく、たすきを解きながら返事をする。
「ああ、おはよう棟梁!
「そう言ってやるな、紅華。俺たちと庭師は管轄が違うのさ。そう毎日毎日物の怪と斬った張っただけやっている訳じゃねえしな」
「そうだけどさあ」
紅華がまだ納得いかないで口をもごもごと動かしている中、ふと薄墨が窓を見上げた。
「……今日の天気は悪いな」
唐突に話を替えられ、紅華は首を捻って一緒に窓を覗いた。
朝焼けの金色は徐々になりを潜めて、雲ひとつない青空が広がりつつあった。
山仕事では天気が重要だ。都では天気予報というものが持てはやされているらしいが、残念ながらそれは山仕事においてはあまり役に立たず、現場の櫻守たちの判断に委ねられている。
紅華は窓から首を出して考える。風もないし、変な湿り気もない。急な雨も雪もなさそうで、これは仕事日和というやつではないんだろうか。
「これだけ晴天だったら、仕事にゃ支障きたしそうにないんじゃないかい?」
「紅華。なにも雨が降らねえことだけが、天気がいいんじゃねえし、雨が降ることだけが天気が悪い訳じゃねえ」
「ええ……?」
薄墨の言葉に、紅華は考え込む。薄墨は三十代半ばながらも、櫻守としては熟練だ。未だに紅華ではわからない勘が働くときがある。
「これだけ雲ひとつない天気のときは、大概厄介ごとが舞い込んでくるんだよ」
「そりゃまあ……」
雨の日は足場が悪いために、山に入らないでできる仕事しかしないが、晴れの日の場合はよっぽど道が悪くなってない限りは山に入らなければならない。雨の日に出てこないのは櫻守だけでなく、
紅華もハムリ、と握り飯を食べてから、残りを全て弁当箱に包むと、お茶を水筒に入れて、荷物を背負う。
小屋の裏にある厩舎で馬に乗り込むと、ふたりで山へと入っていった。
既に日が昇って久しいが、初冬の朝は肌寒く、少しその空気の中を歩いただけで、体温が奪われるように思える。直垂の上に外套を羽織ってはいても、隙間風には敵わず、馬上で外套の裾を引き掴んで、ぶるりと震えていた。吐く息は白く濁り、だんだん日の温かさの届かない山の中へと入っていく。
山に足を踏み入れれば、梢で日の光は遮られ、冬の丸裸の梢が、余計に寒々しさを醸し出していた。馬が一歩蹄を進めるたびに、かさかさと桜の落ち葉の崩れる音がする。
辺り一面若い桜の若木ばかりで、ときおり抉れている幹を見つける。その抉れ方は自然なものではなく、明らかに獣に牙を立てられ食い破られた跡である。
「また盛大に暴れているもんだね」
「ふうむ……まだ暦の上じゃ冬なんだがなあ」
「冬だから余計に腹を空かしているんだと思うよ」
「馬鹿、だからこそおかしいんだろうが。物の怪だって冬眠するだろ」
そう言いながら馬に乗せた荷物を紐解いた。
幹は抉られているものの、まだ生きている。
若木の生命力にほっとしながら、紅華は荷物から麻布と麻紐を取り出すと、それをくるりと巻いた。そして縄で縛ると、最後に辺りに物の怪避けの香を梢の周りに振りかけた。雨になったら流されてしまうものだが、しばらくは晴れが続くのならば物の怪も寄っては来ないだろう。
ふたりが若木を確認してから、次の場所へと馬を走らせる。だんだんと道が険しくなり、馬が通るのは難しい場所に差し掛かった。
馬から降りると、木に繋いで物の怪避けの香を撒いた。
「なにかあったら呼ぶんだよ。鳴いたら飛んでくるからね」
紅華はそう言いながら自分の馬の頭を撫でると、櫻守によく慣れた馬は鼻先を彼女の掌に押し付けた。
「食事までには戻るからね」と言い残してから、紅華は棟梁についていく。刀を背に佩いて、弁当と水筒を懐に引っ掛けて出て行った先。
真っ白な幹から、伸びやかな枝が伸びている樹に差し掛かった。こけ生しているその樹に、大量に群がっているのを見て、ふたりは刀を抜いた。
群がっていたのは、人を飲み込めそうなほどに大きな蛇に、百足。それらが樹に生したこけを食おうと牙を剥き出しにしていた。
「桜を……食べんじゃない……!」
紅華が跳躍し、刀の柄を大きく押して物の怪を突き刺す。
櫻守の仕事のひとつに、物の怪退治が入っている。
物の怪にとって、桜の梢や皮、こけは恰好の食糧であり、森に恵みも、畑に作物もない季節になったら、平気で折られ、むしられる。
本来一番被害が大きくなるのは秋なのだが
この国において、桜の樹は特別な意味を持ち、これらを折られないようにするために、櫻守は日々刀を研ぎ、技を学んで物の怪を屠っている。
最後の物の怪が死んだのを見計らって、紅華は死骸を集めて火を付けた。物の怪の灰は物の怪避けの香になり、物の怪避けになる……もっと強い物の怪には効かないが、今のところ先程屠った物の怪よりも強い物の怪は稀なため、これで充分だ。
土に撒く分以外は集めて持って帰る。櫻守にとって、物の怪避けの香は命綱になるのだから、手に入るときは、できる限り持って帰るのだ。
麻布に灰を集めて縛り上げたところで、薄墨が「うむ」と梢の手に触れた。
「棟梁? 物の怪避けの香集まったよ。そろそろ次に……」
紅華が声をかけると、ようやく薄墨が梢から手を離した。
「やっぱり。この辺りの若木が弱っている」
「弱ってるって……物の怪に食われたからではなくて?」
「見ろ。この若木は冬が来る前に植えた奴だ」
そう言われて、紅華は息を飲む。
櫻守は桜をただ、自然のままに任せて伸ばすことはしない。
あまりにも古木が過ぎて花を付けなくなったら、切り倒すことだってあるし、風に嬲られて折れてしまった枝は火で焼いて消毒した末に落とすことだってある。
若木だって、櫻守が自分たちの家で種から育てたものを植樹し、物の怪避けの香を振り撒いた上で、麻布を撒いて補強して幹が太くなるまで、櫻守たちが面倒を見るのだ。
そこまで手塩に掛けた若木が……弱っている。
紅華は困った顔で薄墨を見た。
「それ、どういうことだい?」
「こりゃ
母樹。この国の桜は全て同じ樹を親に持ち、それは母樹と呼ばれて、櫻守からは特に大事に守られている樹である。
この母樹から取れた種を育て、各地の桜として植樹されている。
もしこの母樹が弱れば、次の若木が育たず、桜も枯れ落ちる。
「どうするのさ。新しい母樹はないのかい?」
「この辺りは俺たちだとどうすることもできねえ。それこそ
薄墨の言葉に、紅華は歯噛みする。
櫻守は目の前の桜を守る以外にできることがない。
庭師のようにありとあらゆる術が使える訳でもないし、樹木医のように桜の病気を治すこともできない。ただ目の前の物の怪を殺すこと以外、やれることがない。
ふたりは歯がゆく思いながらも、次の桜のほうへと向かった。
桜の幹に付いた物の怪の餌になりうるこけを箒で剥がし落とし、それらを燃やして灰にする。桜の栄養として、灰は完全に消火されたのを確認してから、土に混ぜ込む。
淡々と作業を終えてから振り返ると、すっかりと日が高くなっていた。
これだけずっと物の怪を斬ったり、桜の世話をしていたりすると、体も温まってくる上に、腹も減る。
ふたりは馬の元に戻ると、馬に餌をやり、自分たちも握り飯を食べる。
山の桜を見上げる。未だ蕾を付けていない、歯を落とした枝が寒々しい。
「母樹が枯れかけているのと、冬場でも物の怪が減らないのとなにか関係があるのかな」
本来ならば、物の怪は冬場になったら冬眠している。しかしこのところの物の怪の遭遇率がおかしい。それに薄墨がむっつりとした顔をする。
「わからん」
即答であった。それに紅華が唇を尖がらせる。
「棟梁―。今日は本当に頼りにならないなあ」
「仕方がねえだろ。櫻守の仕事に型がある訳ねえだろ。その場で起こったことを対処していくしかねえさ」
「そりゃそうだけどさあ」
薄墨の気のない返事に、紅華は少しだけむすくれて、握り飯を飲み下したとき。
馬が激しく嘶いているのに気付いた。
「あれ、馬? 今は物の怪の姿もないのに」
紅華がひくりと鼻を動かす。物の怪独特の獣臭は、特にない。
「あいつらは、俺たちよりもよっぽど賢いからな。山のほうでがけ崩れでもあったのかもしれねえ。ちょっと見てくるから、紅華。そこにいろ」
薄墨は急いで握り飯を口に突っ込むと、馬のほうへと走っていった。
残された紅華は、憮然とした顔で水筒の水で口を湿らせた。
このところ山でおかしなことが続いているが、自分たちは庭師でも樹木医でもない。あくまで櫻守であり、桜の面倒を見ること以外やれることはない。
この国のことを考えている朝廷や帝がなにを考えているのかなんて、現場で働いている櫻守のところまで降りてくることがないし、逆に言ってしまえば上にまで、山の異常現象の報告が上がっているのかわからないのだ。
この胸糞悪い気分はなんなのか。そのせり上がってくるいら立ちを、水筒の水と一緒に飲み下そうとしたとき、パキンパキンと枝の折れる音を耳にした。
休憩中に物の怪が現れて襲ってくることは珍しくないが、まさかひとりで物の怪とやり合わないといけないんだろうか。紅華はいらりとしながら、背中に佩いた刀に手をかけた。
「人の休憩中になんなんだ。棟梁だって今いないっていうのに……!」
紅華は、まだ櫻守になって日が浅い。ひとりでどこまで戦えるのかわからない。
パキンパキンパキンパキン
枝が折れる音がどんどん遠ざかったと思ったら、ぐるりと回って戻ってくる。
まるでこちらの様子を観察するかのように、音が周回して続く。
目に見えずとも、物の怪がいない訳ではないということは、紅華だってよく知っている。
耳を澄ませ、神経を研ぎ澄まし、やがて紅華は刀を一閃させた。
そのときに刃がなにかを引っ掛け、紅華の足元に「ピギャッ」と鳴き声を上げて落ちた。山にいる
「なんであんた、こんなところにいるのさ」
紅華が刀を突きつけて尋問しようとすると、その臆病な性格のまま逃げ出した。
薄墨には「そこにいろ」と言われていた。棟梁の命令は絶対で、櫻守にとっては命にかかわることでもなるのだが、そのときの紅華は頭に血が昇っていたがために、そのまま木霊を追いかけてしまった。
「待て! 本当にさっきからなんなのさ、あんたは!」
「ビピャッギャッ」
木霊は人には到底わからない声を上げながら逃げる。木々に登られてしまったら、木霊の特性上姿かたちは人間の目からは見えなくなってしまう。
紅華はそのまま走り、木霊目掛けて物の怪避けの香をぶん投げる。
途端に木霊は抵抗してビタンビタンと体を跳ねさせる。強い物の怪の気配に脅えているのだ。
そのまま暴れている木霊をもう一度捕まえようと、紅華が木霊に足を踏み出したとき。そのまま足を踏み外した……足場が緩く悪くなっていたのだ。
薄墨もがけ崩れのことを気にしていた。
櫻守の死因で圧倒的に多いのは、足場の悪い作業での落下死。そのまま紅華は落下に身を任せる。
苛立ちを木霊に当たらなければよかった。本当に嫌になる。
彼女は痛みと衝撃に備えて、そっと目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます