千年花

 紅華がふっと目を覚ましたとき、既に小屋の中にいた。

 火を付けた覚えがないのに、かまどには既に火がともり、朝食に鬱金が買ってきた市場の味噌汁が温め直され、干し肉が炙られていた。その匂いに、そういえば昼食を物の怪との戦いで食いっぱぐれたことを思い出し、紅華はきゅるりと鳴る腹を押さえた。

 蒲団をかぶされ、ここまで運ばれたことを思い出すと、紅華は顔を赤くして起き上がった。そこで「イダイッ!」と悲鳴を上げる。

 今日は半日も物の怪討伐のために腕を振るい続け、馬で走り続けたのだ。いつも以上の激務で、彼女の若い体もさすがに悲鳴を上げていた。

 そこでゆるりと煙が立ち昇っていることに気付いた。

 このところはずっと禁煙していたために、久しぶりに煙管に火を付けている薄墨を見た。元々よく煙管をふかしていた薄墨だが、紅華を引き取ってからはぱったりと辞めていた。

 久々に煙管を揺らめかせている紅華に「棟梁」と声をかけると、薄墨はさっさと煙管の灰を火鉢に落とした。


「おう、紅華。もう起きたか。体は大丈夫か?」

「ん。馬から落ちた割には元気だよ……あのさ、鬱金は?」


 それに薄墨は少しだけ目を細める。鬱金もいるんだったら、彼は火を極端に怖がるから、薄墨は引き続き禁煙を続けていただろうにと紅華は思う。あの大人しい性分の少年だったら、火に脅えても禁煙を勧めるような真似もしないだろうが。

 思い返すのは、あの大量の物の怪のなだれに割り込んできた、鬱金の姿だった。真っ白な髪が汗でぺたんと額に張り付く姿は、冬だとなかなか考えられないものだった。

 あれだけ必死で頑張った子を……紅華は感情に身を任せてなじってしまった。


「あたし、あの子に大人げないことばっかり言っちゃったから……あの子そんなあたしでも助けてくれたのにさ。謝りたいけど、どこにいるか知らないかい?」

「ああ、あいつは帰ったよ」

「えっ?」


 紅華は一瞬なにを言われたのかわからず、戸惑って薄墨を見る。

 薄墨は煙管を火鉢に立てかけてから、腕を組んでいる。


「帰ったって……親が見つかったのかい?」

「似たようなもんだ。お前もずっと物の怪と戦い続けて疲れて寝てたのに、起こすのもどうかと思ってな。あいつも『紅華をよろしく』と言って帰っていったよ」

「嘘」

「そんなくだらねえ嘘なんかつく訳ねえだろ。飯はつくったんだから、さっさと飯食って寝ろ。今日の分の作業がちっとも終わってねえ上に、人手が減ったんだからな」

「嘘……!」


 紅華は思わず飛び出した。既に辺りは暗く、彼女が息を吐き出すたびに夜闇を白く濁らせる。

 厩舎に辿り着くと、三頭の馬が眠っている。

一頭は気のせいかしょんぼりとしたまんまだ。鬱金がよく面倒を見ていた馬は、鬱金がもう帰ってこないことを知っているんだろうか。


「あたし……まだ謝っていないのに。お礼だって言えてないのに……」


 紅華はそのまましゃがみ込んで、嗚咽を漏らした。

 自分の心の傷を、伝えてもいないのにわかってもらえないとわがまま言う気はなかった。それで当たり散らした上に、謝る機会さえ奪われ、後悔が彼女を責める。

 その中、紫煙のにおいを纏わせた薄墨が小屋から出てきた。そして紅華を見下ろす。


「泣くのは勝手だが、さっさと飯は食え」

「……食べたくない」


 日頃は気丈な彼女が、まるで子供返りしたように愚図る。それに薄墨が息を吐き出した。普段は姉御肌ではあるが、彼女もまだ十代の少女なのだ。


「馬鹿なこと言うな。仕事は待っちゃくれねえんだ。鬱金がいなくなってもなあ」


 それはひどく薄情なことを言っているように聞こえるが、たとえ少女であっても櫻守の紅華には、その薄墨の言葉の意味をよくわかっている。

 既に桜の季節まで、ひと月切っていた。

 今は寒くとも、じきにこの身を切るような寒さも緩み、桜の花も綻ぶ。

 わずか七日間の桜の季節のために、櫻守は一年をかけるのだ。その七日間を無駄にすることは、櫻守の矜持が許さない。

 紅華は薄墨に頷いたあと、彼の用意したご飯を泣きながら食らった。

 どれだけ食べてもぽっかりと空いた穴が塞がる訳ではないけれど、明日のためにも食べない訳にはいかなかった。

 もうすぐ、春になる。


   ****


 ここに来るのは三回目だった。

 不思議と最下層は雪が積もっていない。むしろ暖かく、ここには冬があるんだろうかとなんとはなしに思う。

 ただしんと静まり返り、木々が眠っているのがわかるだけだ。

 ザクザクと腐葉土を踏みしめながら、美しい母樹を鬱金は見上げた。

 花ひとつ未だに付けてない真っ白な幹に、天に伸ばす梢の数々。根は盛り上がり、その根がこの国を支え、梢がこの国を抱き締めているのかと思うと、荘厳なものであった。

 未だに自分がこの美しい千年花の化身だと言われてもピンと来なかったが、この太くそびえたつ真っ白な幹を見ると、胸を締め付けられるほどの郷愁の念に駆られた。

 生まれ落ちてしまったものが、そう簡単に千年花に還れる訳ではない。


「ぼく、どうしてここに埋まっていたの?」


 紅華に掘り起こされるまで、鬱金は最下層の腐葉土の中に埋まってしまっていた。この辺りの記憶は、うっすらとは言えども彼も覚えている。

 鬱金に寄り添っている九尾の狐が答える。


──逆です。あなたが生まれるところだったのです。それをたまたま起こされたのです

「ふうん……もしこのまんまぼくが埋まっていたら、どうなっていたの?」

──本来ならば、あなたを起こすのは帝のはずでした。櫻守でも庭師でもなく、帝があなたを起こし、あなたが化身としての使命に目覚めるまでの間は、朝廷の庇護下に置かれるところだったのですが、先に物の怪が空腹で我を忘れてしまったので、あれこれと予定が狂ってしまったのです

「そっか……」


 千年花が弱り果て、各地で腹を減らした物の怪たちが暴れはじめた。

 各地の櫻守たちが役所を通して朝廷に陳情を送っていたものの、肝心の庭師は帝に取り入るべく、よりよい日を探して、なかなか化身を探しに行かなかった。

 そのせいで生まれたはずの化身は、人に起こされることなく、こんこんと最下層で眠り続け、代替わりが大幅に遅れてしまった。

 さすがに帝が号令を出し、慌てた庭師たちが化身を探し回ったものの、既に化身である鬱金は紅華に起こされ、櫻守として育てられはじめていた。

 そもそも化身のことを知る訳はない紅華はもちろんのこと、眠っている化身を見たことがない庭師たちは、ひと目見ただけで鬱金を化身だと見破ることができなかったのである。

 もし鬱金が紅華に起こされなければ、鬱金は鬱金という名前がなかった。薄墨に会うこともなかったし、櫻守として山に入り、桜の世話をして回ることもなかった。でも。

 櫻守として桜と関わらなければ、きっと櫻守のことなど知らないままだっただろう。貴族たちに混ざり、朝廷で大事にされていただろうが、今の鬱金は山での生活も、櫻守の使命もよく知っている。

 化身の守護たる九尾の狐に会うことは大幅に遅れてしまったが、全部が全部悪いことではなかった。


「ねえ、九尾の狐。ぼくはもう、千年花の代替わりができるかな?」

──そうですね……今を逃したら、また来年まで時間を待たねばなりません。早過ぎれば桜が咲かず、遅過ぎたら国が沈みますから。あなたの力も十分蓄えられました。なによりも、あれだけの物の怪を無傷で巣に戻せたあなたは、充分役割を果たすことができます

「うん。わかった……今年の春のために、やろう」

──はい


 鬱金は九尾の狐に頷くと、母樹に抱き着いた。

 今までは右も左もわからず、途方に暮れていた少年だったが、今は自分の役割がよくわかっている。

 記憶が全く戻らないのではなくて、単純に生まれたばかりだったということがわかったことで、鬱金はきちんと物事を前向きに見られるようになっていた。

 あとは化身の本能で、役目を果たせばいいだけだ。

 耳を母樹の幹に擦り付けると、とぷとぷと水を吸っていく音が聞こえる。前にも同じように耳を当てて音を聞いた。母樹が生きている証拠だ。

 それでも、若木と比べれば明らかに水を吸う力が弱い。母樹が年老いて、枯れかけている。

 鬱金は力を込めて、どれだけ手を伸ばしても幹を一周せずとも、必死に手を伸ばして、抱き締める力を強める。

 そこでふわり……と匂いが放った。

 桜の強い香り。鬱金が放つその強い芳香は、だんだん鱗粉のように辺りに散らばっていく。

 変化は突然だった。

 今まで枯れかけていた母樹が若返っていったのだ。

 しゅるしゅると巻き戻るように見えるが、実際は違う。

 どんどん年老いて、とうとう水を吸わなくなり、乾いて母樹は枯れて、とうとう砕け散ってしまった。しかし、母樹の真下、新しい種が芽吹き、その種が勢いよく芽吹いて、梢を伸ばし、若木を伸ばし、どんどん幹が、枝が太く長く伸びて行ったのである。

 鬱金の腕が届かないほどだった幹は、彼の幼い腕でも抱き締められるほどの細さに変わっていったと思ったら、それがどんどん育っていくのである。

 この速さには、桜の上に生える土も、木も、人も、追い付けない。追い付こうとしたら、あっという間に育ち、なにごともなかったかのように千年花が存在している。

 この国に住まう誰もが、千年花の代替わりに気付かないのはなんてことはない。代替わりが行われていても、誰も気付かないという、それだけの話だ。

 やがて、鬱金の腕が回るくらいに細まっていた若い木が、すっかりと幹を太くし、この国全てを支えられるようになったところで、代替わりが終わりを迎えた。

 鬱金はほっとひと息つく。抱き締めた母樹の幹は水が流れ、鬱金の腕が回らないほどの太さを取り戻していた。

 櫻花国に住まう全ての人々や動植物、物の怪すらもわからない内に、全ては終了したのだ。


「これから、どうしよう」


 役割を終えた鬱金がそう九尾の狐に尋ねたとき、九尾の狐が明後日の方向を見ていることに気付く。鬱金は九尾の狐の視線の方向を追い、少しばかり目を瞬かせた。


「あなたは?」


 そこには束帯を着た男性が立っていたのだ。

 しかし彼は庭師のように陰険な目つきはしておらず、櫻守にしては身なりがよ過ぎる。

 最下層までやって来られる人物。櫻守に庭師、化身を除けば、あとひとりだけだ。

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