馬の手綱を握りしめながら、紅華は何度も何度も刀を振るっていた。

 本来ならこれだけ長いこと扱っていたのなら、すぐに脂を拭いて研いでやらなければならないのに、血塗れのまま振り続けて、だんだんと刀身が鈍くなっているのがわかる。それでも、紅華が無理矢理力任せに振り回していた。

 斬れずとも、突くことも刺すこともできる。

 馬の手綱を握りしめながら、必死で物の怪を突く。刺す。

 それらの死骸を本当なら燃やしてしまいたいが、あまりにもの量のせいで、燃やすこともできない。死骸の上に物の怪たちが群がる光景に、紅華はえずきそうになるのを必死で堪えた。

 刀を振り続けた紅華の直垂もまた、返り血で真っ赤に染まってしまっていた。

 紅華は、目の前の悪夢のような状態に、歯を食いしばりながら馬を操っていた。

 目の前で、物の怪が勢いよく木を薙ぎ倒し、それをむしゃむしゃと食べていく。もう数えきれないほどに物の怪を殺したにも関わらず、そのたびに、毎日必死で世話をしていた山が食われる様が見え、気を張っていなかったら心が折れて、刀を振るえなくなりそうなのを、必死で己を奮い立たせてやり過ごす。

 それでも、日頃から気丈な紅華も、だんだん徒労が、疲労が、彼女の太刀筋を鈍らせていった。

 今までの物の怪たちは、桜の皮を破いて表面のこけだけを食べる、若木の柔らかい部分だけを食べるなど、食べ方を選んでいたというのに、目の前の物の怪たちは、折れたものから片っ端から食らっていっている。こんなのは食事とは言わない。暴食というものだ。


「……畜生、あのときとおんなじじゃないか」


 そして紅華はこの光景を見たことがあった。

 ……彼女が生まれて育ち、そして今はもうない故郷で見たことのある光景であった。


 川から水を引き、あちこちの水路で染色が行われるのが、亡き故郷の風物詩であった。櫻守たちから桜の樹の皮を買い取り、それを煮出して絹を染め上げる。

 出来上がった布はなんとも言えぬ柔らかな色に染め上がり、それを水路で洗って模様をつくり出すのだ。

 当時がごくごく普通の郷娘だった紅華は、故郷まで桜の皮を売りに来る薄墨とは顔見知りであり、よく懐いていた。


「おじちゃん、今日も桜の皮ありがとね」

「おう、お兄ちゃんだ。俺ぁまだおじちゃんって年齢じゃねえよ」


 今よりも気が強くなく、刀を振るう腕っぷしも馬を乗り回す力も物の怪と戦う胆力も持ち合わせていなかった、ただの普通の郷娘だった紅華にとって、櫻守の仕事はただ、自分たちの郷と密接な関係があるくらいしか考えていなかった。

 年に一度、七日間ばかり山を染め上げる薄紅も、春が来たなくらいで、いまいちぴんと来ていなかった。彼女の故郷は、特に花見会の恩恵を受けていなかったのだから。

 櫻守から買い取った桜の樹の皮を皆で大鍋に入れて煮出し、布を染める。水路で染め上げた布を洗って干し、それらは都に運ばれて貴族の姫君の着物となる。

 男は大鍋に布を入れてかき混ぜ、女は水路でじゃぶじゃぶと布を洗う。子供たちは大人の指示の元、細々とした手伝いをして、仕事を覚えていく。それぞれの仕事の手伝いに呼ばれるようになったら、一人前とされていた。

 都の生活に憧れることがあれども、それは自分たちとは関係ない。

 この平凡な日々がいつまでも続くと、そう思っていたのだ。

 ……あの轟音が轟くまでは。

 その轟音が鳴り響いたのは突然だった。

 その日は皆で染め上げて水路で洗ったばかりの布地を干しているとき、いきなり山鳴りが轟いたのだ。


「なんの音だい?」


 誰かがぽつんと呟いたものの、誰もそれに答えられなかった。それだけ、なんの予兆もなかったのである。

 だが、山を見て気が付いた。山からなにかがなだれてきたのだ。

 最初は黒点がぽつんぽつんと浮かんで見え、どんどん山が禿げ上がっていくということ以外なにもわからなかったが、だんだん正体が見え、近付いてきた。

 物の怪が勢いよく山を食い散らかしていたのだ。そして極限に空腹状態の物の怪たちが、人郷にその空腹の矛先を向けてきたのだ。

 そこから先は、地獄であった。

必 死に馬を走らせて役所まで駆けて行った人々も、売り物を必死で回収する人々も、子供たちの手を引いて納屋に籠城しようとした人々も、皆襲われて食われてしまった。

 紅華が助かったのは、本当に偶然だった。

 ただ家の手伝いで、水路で洗った布を干すために、たらいに布を乗せていたとき。


「あっ……!」


 普段だったら二回に分けて干しに行くのに、そのときに限って大人たちは山鳴りを気にして様子を見に行ったために、たったひとりで干さなければいけなくなったのが怖くて、早く終わらせたくて横着したら、そのまま布の重さに負けて、布と一緒に水路を流されてしまったのだ。

 水路は川から水を引いている。水路から川に出たとき、紅華はだんだん見知った景色が遠ざかることに脅えた。

 幸いにもたらいに捕まっていたおかげで溺れることはなかったが、山の黒点がどんどん郷へと近付いていくのを、川から眺めて震えていた。

 皆大丈夫なんだろうか。櫻守や庭師は間に合ったんだろうか。そうひとり祈っていたが。

 少女の祈りが届くことはなかった。

 役所から鳥を飛ばされて庭師や櫻守が駆け付けたとき、紅華が川に流されているのを救出されたときには、郷は既に瓦礫の中に消えていたのである。

 そもそもあの光景は、瓦礫と言っていいのか。

 血の臭いに獣の臭いだけが残され、まっさらにならされてしまった郷。

 もうここに人が住んでいたなんて言っても、誰も信じられない光景が広がっていた。

 原因究明した結果、冬眠していた極限までに空腹状態の物の怪の巣に、誰かが入って起こしてしまい、腹を減らしたものの食料のない物の怪たちが暴れ回ったという、そういうことであった。

 紅華の故郷が襲われたのは他でもない。

 特産の関係上、桜の皮を取り扱っているため、物の怪たちからしてみれば、一番旨そうな匂いがしていた……本当にそれだけの理由であった。

 紅華が天涯孤独になったのを拾ったのが、彼女の家族を助けるのに間に合わなかった薄墨である。

 薄墨は紅華を哀れむこともなく、謝ることもなかった。謝罪をもらったところで、家族も郷も帰ってこない。紅華にとってはそのほうが居心地がよかった。

 朝市で弁当を買って来て、薄墨が他の櫻守たちと山に登っている間、紅華は小屋に残って身の回りの世話をしていた。

 元々故郷の手伝いで、洗濯や洗濯物干しは日常的に行っていた。なにもせずに小屋にいたら、故郷が亡くなった日を思い出しそうで、なにかしていたほうがよっぽど息抜きになった。

 元々紅華は薄墨に懐いていたのはもちろんだが、彼は独り身で育てきれないからという理由で、彼女を孤児社に入れるようなこともしなかった。あそこは女児がほとんど生き残れることはないと聞いているため、それもまた、紅華にとってはありがたい話であった。

 薄墨の弟子が独立し、新しい山に派遣され、ふたりで生活するようになった。

 彼や他の櫻守に大事に育てられたおかげで、紅華は背も伸び体重も増えていた。華奢が過ぎた幼い頃と比べれば、もうどこに奉公に出ても問題なくなった頃、紅華は口火を切った。


「ねえ、おじちゃん。あたしに物の怪の殺し方を教えてくれないかい?」


 それに当然ながら薄墨は顔をしかめた。


「お前が物の怪を憎んでいるのはわかる。だがな、俺たちはあくまで櫻守」


 子供の言い分ではあったが、それに返す薄墨の言葉は厳しかった。


「桜を守るのが仕事であって、結果的に物の怪を殺しているだけだ。物の怪を殺すことを生業にしたきゃ他を当たってくれ」

「でも……山に入って、物の怪の巣を壊滅できるのなんて、櫻守くらいだろう?」

「あのなあ、紅華」


 薄墨は苦虫を噛み潰したような顔をして続ける。


「どうして物の怪を殺しても、絶滅させないのかって、本気でわかってるのか?」

「……どうして。物の怪を全部殺しちまえば、あたしの郷みたいに……」


 紅華が言い募るが、それでも薄墨は首を振る。

 棟梁としてはまだ若い薄墨ではあったが、既に彼の人生の半分以上は櫻守として、山に登り詰めた男だ。山のことも櫻守の使命のことも、よくわかっている。


「あれは冬眠している物の怪の巣をつつき回した奴が馬鹿なんだ。でなきゃお前の郷みたいな大惨事なんて起こりゃしなかった。それに物の怪が食らうのは桜の皮やこけだけじゃねえ。枯れた桜も刈り取った茂みも全部食らう。それらが全部、山を巡っていくんだ。物の怪だけじゃねえ。鹿も猪も増え過ぎたら山も畑も荒らして回るが、減り過ぎると山に無駄な雑草が増え過ぎて、どっちみち山が荒れるんだ。だから櫻守はそいつらが増え過ぎないよう、減り過ぎないよう見るのが仕事だ。俺たち櫻守だけで桜を守っているなんておこがましいことを考えるんじゃねえ」


 それに紅華は押し黙った。

 しばらく黙っていた中、「じゃあ」と紅華は口火を切った。


「物の怪が桜の木を害なすって判断したときに、そいつを殺すんだったら問題ないのかい?」


 そう言い出したのに、薄墨は半眼になる。

 薄墨も頑固なれば、紅華の諦めも悪いのだ。


「何度も言うが、櫻守の仕事はあくまで桜を守ることだ。物の怪だってあまりにも桜に害なす場合は殺すが、それ以外は放っておく。そして桜の世話を行う。それが大前提だ。だから教えるとなったら、刀の振り方だけじゃねえ。山の登り方から桜の世話の仕方まで仕込まないといけねえ。できるのか?」


 そこまで言われたら、途端に紅華は破顔した。


「いいのかい?」

「ああ。あと紅華。俺のことはもうおじちゃんは止めとけ。棟梁と呼べ」

「わかったよ、おじちゃ……」

「棟梁」

「……とーりょー」


 それ以降、紅華は薄墨に櫻守の弟子入りをした。

 薄墨からしてみれば、彼女に故郷の染物の仕事を覚えさせて復興させてやったほうがいいのではないかと気に病んだが、それをぴしゃりと彼女は言い放つ。


「あれのせいで物の怪に郷はやられたんだから、復興させるにしても、あたしが物の怪を殺せるようにならなかったら、また桜の皮のせいで、物の怪に襲われるかもしれないじゃないか」


 ぐうの音も出なかった。

 刀の振り方から山の登り方、下っ端の雑用までを、薄墨によりしっかりと仕込まれた。鬱金に物を教えながら、紅華が幼い頃を思い出していたのは、彼には伝えていない。


 彼女の回想は、再び襲い掛かってきた物の怪の獣臭で、ふっとなりを潜めた。

 彼女は必死で刀を突き上げて、それで物の怪の脳天を突き刺した。しかし、無茶に無茶を重ねていた刀が、とうとうボキンと折れてしまった。

 あとはもう、物の怪避けの香を使って、怒り狂う物の怪を抑え込むしかない。しかし既に空腹で我を忘れている物の怪に、物の怪避けの香がどこまで効くのかわからなかった。

 普段から紅華が世話をしている馬も、だんだん走り方が怪しくなってきた。ただでさえ、大量の物の怪が押し寄せてくる中、無茶な山道を走り続けているのだ。馬も疲労を感じてもおかしくなく、ガクガクと脚が震えてきたのである。


「しっかりおし……ここで倒れたら、あたしたち共倒れだよ」


 そう言って馬のたてがみを撫でてやるが、それだけで状況は変わらない。

 馬を励ましながら走らせている中、再び物の怪が口を開いて襲い掛かってきた。紅華は思わず物の怪避けの香を叩き割るが、それも全く効かない。物の怪たちが興奮状態に陥っているせいだろう。

 手持ちのものがなくなり、いよいよあとは逃げるしかなくなった。

薄墨は大丈夫なんだろうか。紅華はそう思うものの、物の怪の量が多過ぎて確認が取れない。

 またも獣の臭いが迫って来る。

 もう刀も折れ、物の怪避けの香も切れ、馬を走らせるために、途中で積み荷もどんどん捨ててきた。馬だって疲弊でどんどん足が遅くなっていて、もう打つ手がない。


「……お父さん、お母さん」


 紅華は、なにもなくなった故郷を思い出した。

 両親は物の怪に食われたのか、殺されたのかはわからない。ただ両親だけでなく、故郷の人々のほとんどは、まともな遺体すら残っていない。だから紅華からしてみれば、皆が忽然といなくなったようにしか思えない。

 いなくなってしまった故郷の皆も、この迫りくる絶望を感じたんだろうかと、ふと思った。

 足音が近付くたびに、死期が迫る。紅華はとうとう目を閉じた。

 そのときだった。

 ぶわりと広がった匂いに、紅華は目を瞬かせた。

 鼻を通っていくのは、すっとする匂い……獣臭さを掻き消してしまうような清々しい匂いは物の怪避けの香に近いが、それよりもずっと濃く強い……桜の匂いだった。

 その匂いの先にいたのは、九尾の狐に跨った鬱金だった。

 鬱金は声を張り上げて物の怪たちに訴えている。


「お願いだから、皆巣に帰って! ここでもう暴れないで! このままじゃ、山が丸裸になってしまう! 人郷がなくなったら、人間も物の怪も食べるものがなくなっちゃう! お願いだから、帰って!」


 普段の大人しく紅華の後ろを付いて回るような少年が、今は凛とした声を張り上げている。そしてこの匂い。

 この匂いが辺り一面に蔓延したとき、あれだけ目に見えて森を食べ尽くそうとしていた物の怪たちの動きが、ピタリと止まったのだ。

 獣の臭いがどんどん遠ざかり、とうとう残ったのは、必死で紅華が殺して回った物の怪たちの死骸からの獣臭に、桜の匂いだけになった。

 今までどれだけ殺しても、逃げても、終わりなんて見えなかった。意思疎通なんてできなかったというのに。このあり得ない光景を、紅華は呆然と見ていた。

 だが、完全に鬱金から発している匂いだけになったとき、緊張が緩んで、とうとう彼女は馬から転げ落ちてしまった。それを慌てて鬱金が寄って来て、彼女に駆け寄る。


「紅華! 紅華! 大丈夫?」


 鬱金はおろおろしながら、紅華が頭を打ってないか確認しはじめたが、この辺り一面の土はそこまで悪くない。彼女はどこもひどく打ち付けてはいなかった。


「……鬱金……あんた、物の怪たちを……」


 紅華から出る声は、疲労のせいでカスカスとしたものだった。彼女の声に、鬱金はおろおろしたように、うな垂れる。先程まで必死で物の怪たちに呼びかけていた凛としたたたずまいは、いったいどこに行ってしまったというのか。

 いつもの鬱金だったことに、少なからず紅華はほっとした。


「ごめん。紅華は物の怪を嫌いだって言っていたけれど……でも、助けてくれたのは九尾の狐なんだ」

「……もう、どっちだっていいよ。今は山が守れたんだしさあ……ちょっと疲れた。休ませとくれ」

「あっ!」


 紅華はそのまま倒れてしまった。

 鬱金はおろおろとし、それ以上に紅華の馬が心配のあまりに彼女に顔を寄せるものの、彼女は規則正しい呼吸をして、眠っているだけだった。鬱金は安堵の息を吐き出しながら、彼女が寝やすいように場所を移動させ、彼女の馬を一旦木に繋いでおく。

 物の怪たちを埋めようと、木刀を使って穴を掘っている中、「なんだあ、こりゃ」と蹄の音と共に声が聞こえ、鬱金は顔を上げる。

 血塗れな薄墨の姿に、鬱金は驚いて顔を上げる。

 鬱金が駆け寄ると、薄墨は「よっと」と言いながら馬を降りた。そして馬を木に繋ぐ。

 疲労困憊で倒れてしまった紅華よりも、薄墨のほうは幾分か余裕が残っているようだった。血塗れなまま、物の怪の死骸の山を見て顔をしかめ、これらを火にくべるために一カ所に集めはじめた。

 鬱金もそれを手伝いつつ、薄墨を気遣って見上げる。


「棟梁! その……血……」

「ああ? あー、こりゃ全部返り血だ。斬っても斬っても全然追い付かないと思ったら、突然物の怪どもが一挙退却していったが……まあ、麓まで物の怪を食い止めたんだから、櫻守としての仕事は充分だろうさ。御上もこのことについてもっと感謝してくれたらいいんだが」


 そう軽口を叩きつつ、薄墨は鼻を動かして、鬱金を見る。

 そしてようやく九尾の狐のほうを向いた。


「この匂い……それにそいつは?」


 薄墨は紅華と違って、九尾の狐を見てもいきなり斬りかかる真似はしなかった。それに鬱金はどう答えるべきかと考え込む。


「えっと……この物の怪が、ずっと助けてくれていて……ここまでぼくを連れてきてくれたんだ」


 それに薄墨は変な顔をする。なにか間違っただろうかと、またも鬱金はうろたえるものの、薄墨があっさりと指摘する。


「そいつ、物の怪じゃないだろ。そもそもこの匂いの中で、こいつだけは全然なんともないのはおかしいだろ」

「え……?」


 突然にそう言われ、鬱金は唖然と九尾の狐と顔を見合わせた。

 鬱金は困惑して鼻を動かすものの、匂いと言われても物の怪たちの獣臭以外はよくわからなかった。

 しかし、九尾の狐はなにもかもわかっていたかのように、大きく頷いた。


──はい、わたしは物の怪に区分はされるものの、厳密には違います

「違うって……どういうこと?」

──わたしは、ずっと探していましたから。本来いるべき場所からいなくなってしまった化身を

「どういうこと?」


 相変わらず、九尾の狐の言葉は鬱金以外はわからないらしく、薄墨は腕を組んで黙ってふたりがしゃべっているのを眺めているだけだった。

 鬱金の問いかけに、九尾の狐はふさふさとした尻尾を揺らめかせながら答える。


──大変申し遅れました。わたしは化身と共に母樹から生まれたものです。物の怪に区分されるのは、物の怪と同じく他の動植物と生まれが違うせいですね。本来ならば、千年花の守護と言ったところでしょうか。そして化身は……あなたのことです

「え……ええ……?」


 困惑の声を上げる鬱金に、薄墨は「どうした?」とようやく声をかけた。

 観念した鬱金は、薄墨に訴える。


「あの……九尾の狐が……ぼくのことを……千年花の化身だって言うんだけれど……?」


 鬱金が震える声でそう訴えると、ようやく合点したように、薄墨は「ああ……」と声を上げた。


「紅華の話を聞いたときから、おかしいとは思っていたが。でも、お前のあれこれ怖がるのを見ていたら、納得もいくだろう」


 火が怖い。刃物が怖い。そんなもの、桜の木であったら怖いに決まっている。

 桜は切った部分を焼かなければすぐに病気になってしまうが、火を点けたら簡単に燃え尽きてしまう。刃物だって同じだ。皮やこけのようにいらない部分をそぎ落とすならいざ知らず、斬られたらあっという間に折れてなくなってしまうのだから。


「あの……ぼくが毒を出していたのは……?」

「あれか? おそらくだが、桜の防衛本能だろうさ。だから化身のお前も使えるんだろうな」

「防衛反応って、前にも九尾の狐が言っていたけど……」

「……それはもっと早く言え。そんなことわかったら、もう役所を飛び越して、直接都に行って朝廷に訴えに行ってもおかしくなかったんだからな」


 薄墨が呆れたような顔をするのに、鬱金は肩を竦めて「ごめんなさい……」としおらしく謝ってから、九尾の狐に尋ねる。


「桜って、毒があるものの?」


 思わず九尾の狐を見て尋ねると、九尾の狐はこっくりと頷いた。


──桜は自ら食われないように、わずかばかりの毒を出します。実際に、山には桜から距離を置いた場所には雑草や茂みがあっても、真下にはないでしょう?

「そういえば……で、でも……ぼく、どうして物の怪を殺すほどの毒を……」

「そりゃそうだろうなあ……」


 薄墨は困ったような顔をした。

 どういう顔なんだろうか、と鬱金は思って見上げる。


「化身が物の怪に食われたら、一巻の終わりだろうさ。千年花の代替わりだってできないだろうし、この国だって終わる。そうならないよう、過剰防衛なほど、毒を吐き出すんだろうな」

「そう……なんだ。じゃあ……さっきのしゃべったときに、言うことを聞いてくれたのは?」


 鬱金の問いに、薄墨は「俺ぁ見てないことについてはなにも言えんぞ」と首を振ると、代わりに九尾の狐が答える。


──毒の応用です。あれは催眠毒です

「え……ぼく……催眠毒を……出していたの?」


 鬱金の言葉に、薄墨は「ああ……」と声を上げた。


「どおりでお前が来た途端に、物の怪避けの香の匂いがすると思ったら」

「あれ? 物の怪避けの香って……物の怪の死骸を焼いてできた灰でつくられるん……だよね……?」


 今まではそう聞いて、一生懸命集めていたはずなのに。

 そう困惑した声を上げる鬱金に「前にも言ったことあったと思うが」と薄墨が答える。


「物の怪避けの香の大部分は、千年花の灰だ。夏場になったら大量に梢が生えるから、それらを大分切り落とさないといけなくなる。切り落とさないと、花付きが悪くなるからな。そのときに集めて薪としてくべて、その灰を物の怪の死骸と混ぜてつくるんだよ。だからお前が催眠毒を使う際に、物の怪避けの香と全く同じ匂いがしたという訳だな」

「納得できたような……できないような……」

「しかし、どうしたもんか」


 薄墨が参ったという顔をするのに、鬱金は困った顔で見上げた。


「棟梁?」

「俺も化身が自分の管轄で部下になるとは思ってもみなかったからなあ……」

「……化身が櫻守をしてたら、まずいの?」

「いや、そうじゃないだろ」


 鬱金は困った顔で九尾の狐を見ると、九尾の狐が尻尾を大きく揺らした。


──あなたは代替わりを行うために、最下層に戻らなければなりませんから


 それに鬱金は大きく目を見開いた。


「ぼ、ぼく……もう、皆と一緒に暮らせないの?」


 そう震える声で聞くと、九尾の狐が申し訳なさそうに告げる。


──大変に申し訳ありません。わたしがもっと早くにあなたを見つけられたら、こんな寂しい思いはさせなかったでしょうに

「……ううん、あなたはきっと悪くないと思うんだ」


 鬱金は九尾の狐を撫でる。九尾の狐は鬱金に擦り寄る。


「ぼくが化身で、ぼくが代替わりを行ったら、もう棟梁や紅華は、物の怪と危ない目に遭わなくってもいいんだよね? 今までが、異常現象だったんだから」

──少なくとも、異常現象の数は減るはずです。冬眠できない物の怪が、そもそもおかしかった訳ですから

「……うん、わかった。棟梁」


 薄墨は肩を竦めて、物の怪たちの死骸を指差した。


「もちろん、お前たちがさっさと最下層に行って、代替わりを行うのがこの国の一番の力だろうがな。せめて、その死骸の始末だけ手伝ってくれ。紅華もぶっ倒れている中、さすがに俺ひとりで夕方までには終えられん」

「う、うん。九尾の狐。それくらいはいい?」


 尋ねると、九尾の狐は笑ったような鳴き声を上げた。


──今晩中に最下層に着くのでしたら、充分間に合います。それまではあなたの櫻守としての仕事を見守りましょう


 九尾の狐から許可をもらい、鬱金は最後の仕事として、薄墨と一緒に必死で物の怪の死骸を一カ所に集めた。

 やっと物の怪たちの死骸は山を成し、雑草も木もない場所で燃やしはじめた。その死骸に脂が回り、さっさと燃えるように薄墨がつついている中、鬱金は「棟梁」と呼んで頭を下げる。


「……紅華を、よろしくお願いします」

「そりゃ、うちで引き取ってるからなあ。鬱金、千年花のこと、頼んだぞ……あんまり俺の柄でもないがなあ」


 そう苦笑を浮かべる薄墨に、鬱金は「はいっ」と返事をしてから、九尾の狐に乗った。


「ふたりとも、元気で!」

「お前も、あんまり思い詰めんなよ……なあ、九尾の狐。俺ぁ、お前の声はわからんが、こいつはよく思い詰めるから、適度に悩む暇がないよう引きずり回してくれや」


 その言葉に鬱金を乗せた九尾の狐は笑うような声を上げた。


──心得ました


 こうして、ふたりは山を駆け下りていく。燃え盛る炎を背景に走っていく。

 目指すは最下層の──千年花の母樹へ。

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