三
きりりと引き締まっていた空気もすっかりと緩まり、陽光の差す場所はぽかぽかとして暖かい。
その穏やかな日差しを受けて、はらはらと花びらが舞っている。
春の陽光に照らされて、薄紅が綻んでいる。
桜が咲いたのだ。
今まで眠っているように静かで、山に足を踏み入れるのも櫻守ばかりだったのが、花を愛でるために他国から観光客が訪れ、櫻守たちがめいめい案内役を買って出て山に入っていく。
桜の木の上につくられた櫻花国が、もっとも華やぐ季節になったのである。
本来ならば自分たちも案内をするというのに、その日は薄墨も紅華も緊張した面持ちで待っていた。
さすがに普段着ている直垂では駄目だろうと、ふたりとも狩衣を引っ張り出して着ているが、それで礼儀がなっているのかどうか、平民のふたりにはよくわからない。ふたりの給金でぎりぎり買える一張羅ではあったが。
役所仕事をしている
帝一行を山に案内しなければいけないために、今年の山への案内は皆、応援の櫻守や樹木医、郷の者たちに任せている。
さすがに郷の者たちだけで山に入ることは無理なため、郷の者たちは自分たちが桜を愛でる穴場へと案内するだけに留まったが、麓から見上げるだけでも十分に美しい。
やがて、朝廷からの使者が列を成してやってきた。
シャン、シャン、シャン、シャン
鈴を鳴らす巫女たちに、神輿を担ぐ人々。
帝が訪れるということで、普段はあまり人の立ち寄らない櫻守の小屋の付近には、帝の行列分間を空けて、人々が見守っている。
郷の人々もいるし、商いを担っている人々もいる。他国からの観光客も、物珍し気に眺めていた。
そもそも帝の主催する花見会は、庭師の権限の行き届いた山で行われるのが普通であり、ほとんどの権限を櫻守に丸投げしている山で行われることは滅多にない。だからこそ、平民も貴族も他国の人々も帝も一緒という、物珍しい光景が成されるのだ。
その音で振動がするものの、果たして帝を面を上げて眺めていいものかわからず、薄墨も紅華も、ただ地面に膝をついて、鈴の音と足音が止まるのをひたすらに待った。
永遠に続くかと思われた神輿の行進は停まり、神輿を担いでいた人々がそれを地面に降ろした。その上から人が降りてくる。
その人の纏っている香りはかぐわしく、着物にいくつもの薫物を焚き込めているのだろうと察することができた。
薫物を焚き込める習慣なんて、朝廷に出仕している人間でなければまずない。
やがて降りてきた人が、屈んでいる櫻守たちに対して、声を発した。
「そちたちが、此度の山の騒動を鎮めてくれた櫻守たちだな?」
その声は朗々としていて、天に昇りそうな心地を覚えた。
既に頭を下げている状態でなければ、手を合わせて神と同じように讃えていただろう。
「それは……」
「あたしたちは、本当になんにもしてません!」
薄墨の言葉を、紅華は遮った。場はざわめく。他国の観光客は本気でわかっていないという顔で、互いに顔を見合わせている。
帝は紅華の返答に「ほう?」と声を上げた。
薄墨は「おい馬鹿、帝の御前で!」と止めようとするが、それでも紅華は訴えた。
「ここに本当はもうひとりいたんです……その子は火は使えない刃物は怖がる物の怪を殺せないっていう、どうしようもないくらいに櫻守には向いてない子でしたけど……でも、その子がいなかったら、あたしたちは皆死んでましたし、物の怪たちだって郷を襲っていたかもしれません!」
紅華は必死でそう訴える。
紅華はもちろんのこと、棟梁であり熟練の櫻守であるはずの薄墨ですら、あんな物の怪たちの暴走を食い止められたのかはわからなかった。
どれだけ殺しても迫りくる我を忘れた物の怪、植樹したばかりだというのにどんどん食われていく若木。救援がいつ来るかもわからない中で、この場を櫻守が尻尾巻いて逃げていたら……麓の郷の全滅は免れなかっただろう。
それこそ、紅華の故郷のように、まっさらになっていたのかもしれない。
自分たちだけではなにもできなかったと、あの場で死にかけた紅華が一番よくわかっている。だというのに。
自分たちを一番助けてくれた子が、今はどこにもいない。
「あたしは学が足りないから、あの子がなにをどうやって物の怪を止めたのかわかりませんけど……あたしたちが帝に感謝される謂れは全然……ほんっとうに全然ないんです!」
紅華の訴えに、薄墨は彼女を睨みつけるが、それでも彼女は必死で訴えた。
「今回、うちの山に機会を与えてくださりありがとうございます。ですけど、あたしたちが帝の案内するに値するかどうかは……」
「ははは」
突然、帝が笑いはじめた。
意味がわからず、紅華はポカンとする。
「いや失礼、たしかに聞いた話と同じだと思ったまでだ」
「……はい?」
そこでようやく紅華は顔を上げた。
そこに立っていたのは、美しい男性であった。透き通るように白い肌、涼し気な眼差し。烏帽子の下の髪は墨でなぞったかのように黒々として艶やかだ。
その美しいかんばせの彼……帝がなにを言ったのか、紅華はわからずただポカンと口を開いたとき。帝は続けた。
「本来ならば、我が引き受けねばならぬ役目を、そちら櫻守が請け負ったと聞いている。その中で成長を果たし、冬眠を起こされ気が高ぶった物の怪たちを鎮めたともな」
「だ、誰から……ですか?」
「千年花の母樹の、化身からだよ」
「けしん……?」
その名は櫻守たちの中でも、ほとんど噂程度にしか出回っていない。
櫻花国を見守るために、母樹が人の姿を取って歩き回ることがあると。それは式神なのか付喪神なのかさっぱりわからないが、それらは朝廷に迎えられて生活するとされているが、当然ながら平民が見たことある訳がなかった。
しかし帝がその存在を口にするということは、ただの噂やおとぎ話ではなかったということだろうか。
紅華が困惑している中、帝は含みのある笑みを浮かべた。
「実を言うなれば、宴が終わってから依頼するつもりだったのだが、そうもったいぶってもいられぬようでな。そちたちには、化身の面倒を見て欲しいのだ」
「へえ?」
紅華は心底意味がわからないと言う顔で、困り果てて薄墨を見ると、薄墨も戸惑ったようにつくっていた真面目な顔を崩していた。
「それはいったい……どういう意味で?」
「こういう意味だ。隣の神輿を降ろせ」
よくよく見ると、帝の神輿の隣にもうひとつ神輿が担がれていた。帝のものと同様、簾が降ろされて、中身が見えなくなっていた。
てっきり妃を連れてきていたのかと思っていたが、帝の言い方からすると違うらしい。降ろされた途端に、転がるようにして中身が飛び出してきた。
「紅華! 棟梁!」
そう言いながらとたとたと走ってきたのは、間違いなく鬱金であった。
彼に寄り添うように、九尾の狐もついて回っている。
綺麗な水干を纏い、髪もふたつに結われている。
一見すると貴族の稚児にも見えるのだが、あどけない表情も、丸い頬も、「紅華」と親し気に呼ぶ声も、たしかに鬱金のものであった。
よくよく頭を観察してみれば、いつかに物の怪に食い破られてしまってなかなか髪が生え揃わぬ部分には、彼と同じ白髪の鬘が施されているのがわかる。
それに紅華は目を見開いた。薄墨もまた一瞬目を瞬かせたあと、ようやっと「ああ」とにやりと口角を持ち上げた。
紅華は「あーあーあーあー……」と言葉にならない声を吐き出したあと、ようやく言葉を紡いだ。
「なんで!?」
「おい馬鹿、だから何度も何度も帝の御前の前だって言ってるだろうが……!」
紅華も薄墨も、完全に毒気が抜かれてしまい、帝の御前ということが完全に頭から抜け落ちていつも通りの口調で話をしてしまい、互いに気まずい思いをして、帝を見た。
だがそれを気にすることもなく、帝は「すまないな」と謝った。
それに度肝を抜かれる。帝が、平民に向かって謝罪の言葉を述べたのだ。
「全ては、我らが手違いからはじまったのだ。本来、庭師が千年花の化身を発見し次第、我に報告し、我が化身を起こさねばならぬのだが……庭師は化身を探し出すのに手間取った。手間取っている間に、化身が育ってしまったのだ」
「それがぼく」
そうにこにこ笑いながら言う鬱金に、紅華は目尻に涙を溜めながらうろたえ、困った顔で薄墨を見る。
薄墨は「ええっとだなあ……」と、帝と鬱金の言葉をまとめる。
「俺も詳しいことは全然知らないんだがな。本来、物心つく前に化身は拾われて、朝廷に連れて行かれて育てられるんだが、そのだなあ……」
「……恥ずかしい話、昨今の庭師が力量不足な上に、高慢で櫻守と協調することすら覚えなかった。我にごまを擦るばかりでなく、櫻守と庭師、樹木医と力を合わせて山々の最下層を探していれば、もう少し早く探し当てられただろうに。我らがしなければならぬことを、一からしてくれたのは、他ならぬ櫻守のそちたちよ」
樹木医から聞いた、朝廷での人事異動の話が頭に浮かぶ。
あの高慢ちきな庭師たちは、山仕事に不得手な上に、人形だけではとてもじゃないが化身は探し出せないだろうに、一度も櫻守に頼らなかったのだ。
せめて樹木医に頼れば、樹木医を通じて櫻守を動かすことができ、もっと早くに化身が見つかっただろうに。
帝はしみじみと言う。
「本来なれば、我が化身と力を合わせて、千年花の代替わりを執り行うところだったのだが……すっかりと成長なさった化身が、自主的に代替わりを行ってくれてな。櫻花国で化身がこれだけ自主的に、国を思い、人を思い、物の怪たちのことも思って行動したことはなかった。だから、我はそちたちに是非とも化身を預けたいと思ったのだ」
「それって……つまりどういうことで……?」
朝廷の事情は飲み込めたものの、どうして化身である鬱金を再び預かることになったんだろうか。
それににこにこと鬱金自らが答える。
「だって、たしかに千年花の代替わりは終わったけれど、まだなにも終わってないでしょう? 今年の桜が終わったら、また来年の花見のために、桜の面倒を見ないと。物の怪たちにあんまり人間のご飯や桜を食べたら駄目だって教えないといけないし、庭師だって山仕事を覚えなかったら話にならないって、ぼくを探し出せなかったことでわかったじゃない。やらないといけないことを全部するとなったら、ぼくが櫻守として残ったほうが都合がよかったんだよ」
そうにこにこしながら言うのに、紅華は困った顔で薄墨を見た。
「棟梁どうしよう。あたし、本当にとんでもないことをしたんじゃ」
「馬鹿。むしろお前がやったことのおかげで、なんとかなったんだろうが。この間の物の怪とのこと、覚えてるだろ」
そう言われ、紅華はこの冬にあった一件をひとつひとつ指を折って考えあぐねる。
もしも、化身が見つかっていなかったら、そもそも千年花の代替わりが行われなかった。
もしも、紅華が化身を見つけて連れ帰らなかったら、鬱金は人間や物の怪の事情を知らないままだったし、それぞれに情を傾け、憐憫を覚え、彼らを助けようと考えることがなかった。
もしも、庭師が高慢なまま化身を探し当てるために巣をつついたときに、鬱金がその場にいなかったら。鬱金の催眠毒で人間も物の怪も過半数は生き残れたが、その場で凄惨な生存競争が行われていた。紅華の故郷の悲劇が再び繰り返されたのだ。
もしも、もしも、もしも……。
しかし今は今、今に「もしも」は存在しない。鬱金は紅華に近付いた。
「ねえ、紅華。あなたがぼくを起こしてくれて、『鬱金』って名付けてくれた。あなたの傍にいたいんだ……駄目かな?」
「────…………っ!」
紅華は顔を真っ赤にさせてから、帝のほうに振り返った。
「……本当に、いいんですか? あたしが……あたしたちが、化身と一緒にいても」
帝は笑顔であった。
「かまわぬ。此度のことがなければ、我も庭師たちの力量不足を見抜くことができなかった……もっと早めていれば、惨劇は免れたのかもしれぬしな。我はそちらを尊敬する」
「────…………っ!」
とうとう我慢ならなくなった紅華は、思いっきり鬱金を抱き締めた。
この小さな少年が、自分たちを助け、この国を助け、桜を蘇らせてくれた。化身がすごいものだというのは、未だに彼女もピンと来ていないが。
それでも、同じ釜の飯を食って一緒に働いた仲間だ。また一緒にいてもいいと言われて、嬉しくない訳がない。
「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます……!」
そう大声で叫びながらそう訴えるのに、鬱金は小さな体をバタバタとさせてもがいた。
「紅華、苦しい」
「ああ……っ、ごめんよ!」
慌ててぱっと手を離した紅華に、場はどっと笑いが溢れた。
山登りは険しいため、ここから先は神輿を担ぐことなく、緩やかに歩いていく。皆で手入れして回った山は、それぞれ栄華を極め、この世の春を謳っている。
たった七日間の春のために、櫻守は一年をかける。櫻守の仕事は本当に微々たるものだ。だが。
それが巡り巡って、見上げる桜の麗しきことよ。
また次の七日間のために、一年をかけるには、ちょうどいいことだ。
<了>
千年花の櫻守 石田空 @soraisida
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