薄墨が機嫌悪く戻ってきたのは、日が落ちる直前であった。

 ただでさえ、本来なら雪の日に山に入る櫻守はまずいない上に、日が落ちるまで作業を終えることのできない櫻守だっていないのに、ふたつも禁忌を犯した薄墨の機嫌は、いつもと比べてすこぶる悪い。

 慌てて紅華は酒を湯で温めてそれを出し、鬱金に「漬物を出しておあげ」と酒のあてに漬物を差し出す。紅華が汁を温め直している間に、鬱金がそろそろとそれを差し出すと、薄墨は漬物をボリボリと齧りながら、酒を呷りはじめた。


「……本当にどうなっているんだ、今の庭師は」


 その怒り様は、昼間の紅華とほぼ変わらない。鬱金は怒り心頭の薄墨に脅えながらも、疑問を口にしてみる。


「雪を落としていた犯人って、庭師だったの?」


 それに薄墨が機嫌悪く頷いてから、手酌でお替わりを汲んで、再び一気に呷る。


「ああ、よりによって勝手に雪山に立ち入って勝手に遭難していたんだ。雪山に入る櫻守だっていやしないし、庭師なんて普段は朝廷で偉そうにしているというのに、あんな迷惑なことをされたのは初めてだ。ありえない」

「ほんっとうに、元々偉そうだった庭師の態度は目に余るよ!」


 薄墨の苛立ちに、紅華まで同調する。

 それに鬱金はなんとも言えなくなった。

 食事を終え、明日の分の水を井戸に汲みに行く。

 井戸の釣瓶を引っ張りながら考え込むのは、九尾の狐に言われたことであった。

 物の怪は食事がなくなってしまったせいで荒み、冬眠すらできなくなっていると言っていた。そして人間も。物の怪の脅威にさらされているせいか、普段は温厚な人物さえ態度が悪くなってしまっている。

 千年花の代替わりさえ終えられたら、皆丸く治まるはずなのに。

 朝廷はなにを考えているのか、庭師はなにを企んでいるのか。現場の櫻守たちには一切伏せられているために、皆が皆疑心暗鬼に陥ってしまっている。庭師は庭師で、櫻守たちを侮蔑していて、なにをしているのかを教えてくれない。これでは、互いに協力することだってできないというのに。

 どうすればいいんだろう。

 九尾の狐から全部を聞き出すことができなかった鬱金はそっと溜息をついた。彼が悪い訳ではないのだけれど。

 その中で。あの獣のにおいがして、鬱金は顔を上げた。

 小屋より遠く、明かりの遠い場所。

 かろうじて鬱金が目を凝らさなければ見えない美しい毛並みの九尾の狐が、じっと鬱金を見ていた。

 鬱金は慌てて辺りを見回した。紅華が再び激昂して襲い掛かってきたら一大事だと思ったのだ。彼女がいないことに少しばかりほっとしてから、そっと鬱金は九尾の狐に囁いた。


「どうしてこんなところに来たの? 人に見つかったら、殺されてしまうかもしれないのに」

──あなたがいましたから


 九尾の狐が落ち着いた声で言う。紅華には一切なにをしゃべっているのかわからなかったという声。やはり鬱金には、九尾の狐の声がはっきりと聞き取れた。

 九尾の狐には聞きたいことがいくらでもあった。

 どうして鬱金にしか九尾の狐の声がわからないのかとか。どうして物の怪が我を忘れてしまっている中で、九尾の狐だけが正気を保っているのかとか。なによりも。


「あなたが言っていた……千年花の代替わりって、どうすればいいの? それさえ終われば、皆がぎすぎすしなくっても済むんでしょう?」


 鬱金は刃物が怖いし、火も怖い。櫻守をしている紅華に拾われたからしているが、櫻守としての素養が見事までにない。その上、物の怪と戦うことも殺すことも可哀想だと思ってできず、そのたびに紅華に怒られているが。

 丸く治まる方法があるのならば、それを選択したい。今のままでは、無駄に物の怪が死んでしまうし、このまま放置していたら人間にだって犠牲が出る。

 九尾の狐は黙ってじっと鬱金が見る。


──あなたとわたしが契約できれば手っ取り早いのですが、あなただとまだできませんね


 聞いたこともない提案に、鬱金は戸惑った。九尾の狐に限らず、櫻守が物の怪と契約するという話は、聞いたこともなかった。


「え、契約? それって、どういう意味?」


 戸惑っている鬱金の様子はともかく、九尾の狐はそれをものともせず説明を加える。


──あなたがわたしのことを使役するという意味です。あなたが誰よりも強くなれば、代替わりも滞りなく終わるでしょうが、今のあなたでは千年花の代替わりを成すことはできません


 そう言われて、ますます鬱金は困惑した。自分がそんな大それたことができるとは思えない。


「ちょっと待って。ぼくが……? どうして……?」


 ふいに九尾の狐が美しい鼻先を動かした。


──これ以上はあなたが怒られてしまいますね。またお会いしましょう


 そのままひらりと九尾の狐が飛んだ。

 また聞きそびれてしまったと、鬱金は呆然と立ち去る姿を見送った。

 そのふさふさとした尻尾が揺れて見えなくなったのと同時に、「鬱金―!」と呼ぶ声が飛んできた。冬の夜長に井戸に水を汲みに行って、ちっとも戻ってこない鬱金を心配して、探しに来たのだ。


「どうしたんだい、ちっとも戻ってこないから心配したよ」

「ご、ごめんなさ……」

「ごめんなさいって、謝るようなことでもしたのかい? ほら、こんなに鼻を赤くしてさあ。早く戻るよ」


 そう言って紅華は鬱金の手を引いた。

 彼女は蓮っ葉な口調で姉御肌の優しい人だ。あれだけ物の怪を毛嫌いしていたが、やはり優しい人なのだ。

 鬱金は手を引かれて小屋に戻り、蒲団の準備をしながら、尋ねてみた。


「ねえ、物の怪と契約って、そういうことってできるの?」


 九尾の狐に言われたことの意味がわからず聞いてみたが、途端に紅華が目を吊り上げた。昼間に怒りながら鬱金の胸倉を掴んだ彼女が見え隠れする。


「物の怪と契約ぅ? あんた、また変なこと考えてるのかい?」

「そうじゃなくって……純粋な興味」


 まさか昼間に出会った九尾の狐に教えてもらったなんて言える訳もなく、あまりにも下手糞な誤魔化しをしたが、露骨に紅華の機嫌が悪くなってしまった。

 彼女がぶすっとしてなにも答えてくれない中、それに「ああ」と薄墨が答えた。


「それこそ、庭師の役割だろうなあ」

「そうなの?」


 そういえば、薄墨はなにかと鬱金の持っている毒を使った力を気にし、庭師に見て欲しいと役所を通じて打診していた。もっとも、庭師からはなしのつぶてではあったが。

 薄墨が「ああ」と頷いた。


「あいつらは物の怪を使役し、使いにする術があると。本当だったら、鬱金の得意分野はそっちなんだろうが、庭師も難癖を付けて櫻守が庭師になるのを嫌がるからなあ……」


 そういえばと鬱金は思い至った。人形を自由に操っていた庭師だったら、物の怪と契約する術があるのかもしれない。


「そうなんだ……じゃあ庭師に聞けば」

 もっとも、彼らはあからさまに櫻守を下に見ているのだから、どうやって教えてもらえるのかは未知数だったが。鬱金の言葉に、薄墨は「そうかい」とだけ答えた。


「俺ぁかまわねえと思うぞ。鬱金は普通の方法じゃ自分の身すら守れねえからな。手数が増えて困るこたぁねえだろう……」

「や・め・と・け・ば!」


 薄墨と鬱金の言葉は、紅華により遮られた。

 彼女はすぽんと蒲団をかぶってから言う。


「物の怪なんて使役してどうするのさ。使役したからって、裏切らないとは限らないだろう? 物の怪なんて、なにするかわかったもんじゃないじゃないか」

「あの、紅華……?」


 蒲団の中の紅華に声をかけるが、彼女の返事は素っ気ない。


「おやすみ! 明日は晴れるらしいから、さっさと寝な。明日は山に登るんだからさ!」


 彼女はなだめる間も与えず、そのまま眠ってしまった。彼女のあまりにも有無を言わせない態度に、鬱金はただ途方に暮れるばかりであった。

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