「え……? 人形ひとがた?」


 それは紙でできた人形であった。

 それがいきなり飛んできたかと思ったら、まるで意思があるかのように鬱金と紅華の周りをくるくると回る。

 その人形は、まるでふたりの諍いを止めようとしているかのようだった。紅華の怒りもだんだん鎮まってくる。


「これって……」


 怒りに身を任せていた紅華の手の力が緩まり、ようやく首が締まりかけていた鬱金は地に足を付けることができた。その場にしゃがみ込んで、背中を丸めてゲホゲホとしていたところで、新しい足音が響いてきた。

 鬱金は足音の方向へと顔を上げる。


「気が済みましたか、お嬢さん?」


 そう声がかけられ、紅華も声のほうに振り返る。そこでふたりは少しだけ驚いた顔にする。

 光沢を放つ布地でつくられ、香を焚き込めて匂いを移した狩衣を着た男性が立っていたのだ。頭には烏帽子が乗っていて、口元には笑みが浮かんでいる。

 その格好はどう見ても庶民ではなく、人形を操る術を持つと言えば、おのずと彼の正体がわかる。

 紅華はむっと鼻筋に皺を寄せて声の主を睨んだ。


「いったいなんの用だい、こんなところまで。庭師」


 その声に、鬱金は幾ばくかほっとした。紅華は相変わらず声に怒りが滲んではいたが、先程までの我を忘れたような怒り方ではなかった。

 一方庭師と呼ばれた男性は、紅華の声も涼し気に受け流す。


「いえいえ。仲間同士で揉め事を起こしていたようですから、少しばかり喧嘩の仲裁をしたまでです。櫻守のお嬢さん」


 それに鬱金は呆気に取られていた。

 紅華はあからさまに庭師を毛嫌いしている素振りを見せていたが、なんとなく理由がわかった。庭師の言葉使いこそ丁寧なものの、その吐き出した言葉のひとつひとつには、あからさまな侮蔑の音が含まれていた。

 彼らは朝廷に仕える貴族であり、それより下の役所管轄の櫻守を、最初から下に見ていたのだ。薄墨にしろ紅華にしろ、庭師を全くいいように言わない理由を、ようやく鬱金は理解できた。

 それでもおずおずと庭師に「あの、ありがとう……」と形だけの礼をしてから、疑問を口にしてみた。


「どうして、こんなところにまで来たの? 庭師は忙しいからこんなところまで来ないと聞いていたのに」

「ええ、忙しいですよ。本来は櫻守の喧嘩の仲裁なんてしている暇などないくらいには」


 ……やはり、彼が紅華と鬱金の諍いを止めたのは、用事のついでらしい。

 鬱金は恐る恐る尋ねる。


「さっきまで紅華が役所に行っていたのと、庭師さんがここまで来たのと、なにか関係があるの?」

「いえ。全然。役所の仕事はもっと下方の庭師が行いますので。ところで」


 先程までこちらを小馬鹿にするように眺めていた庭師は、ちらりと鬱金を見てきた。その目つきに、鬱金はたじろぐ。

 その目つきは、日頃獣臭いにおいを撒き散らしている、物の怪を思わせたのだった。


「この辺りに物の怪の気配がしますけれど、おふたりは櫻守のはずなのに取り逃がしたのですか?」


 庭師のねっとりとした物言いに我慢ならなくなったのか、とうとう紅華が激昂した。


「ああ、いたさ! いたとも! 逃げたけどね! あいつは人間の住処には来ちゃいないよ! さっさと山に帰っていった。今棟梁と鉢合ったら、棟梁が殺すだろうさ。だから心配しちゃいない」

「なるほど……」


 傍から見ていたら、庭師は紅華の激昂に対してどこ吹く風であった。まるで心ここにあらずだ。話を向けてきたのは向こうからなのに、と鬱金は思いつつも、ふと思いついた。


「あのう……」


 鬱金はおずおずと庭師に口を開いた。

 庭師は未だに顔を真っ赤にして怒っている紅華を無視して、鬱金と視線を合わせる。ねっとりとしているのは、物言いだけでなく視線もらしい。


「なんでしょうか?」

「……千年花の代替わりって、どうすればいいの?」


 九尾の狐に聞きそびれたことを、鬱金はたどたどしくも口にしてみた。


「最近山で起こっている異常現象は、全部千年花が枯れかけているからだと、棟梁が言っていた。物の怪がここにまで降りてきたのも、これが原因だと……代替わりすれば全て解決するって……だから……」

「それを知ることは、櫻守の仕事ではないでしょう」


 鬱金の質問は、ぴしゃりと庭師に遮られてしまった。そして今度はねっとりとした視線を紅華に向けて、彼は薄ら笑いを浮かべる。


「それでは、自分はこの辺で。櫻守は政治のことなどなにも気にせず、頑張って桜のお守りだけしていればいいんですから」


 そのまま立ち去ってしまった。それに紅華は若木に肥料を撒いていた木杓子をガンッとぶん投げる。木杓子はそのままこんもりとした土山に突き刺さった。まるで愛玩動物の墓場みたいに見えた。

 その中で、紅華は地団駄を踏み鳴らしながら叫ぶ。


「ほんっとうに自分たちはいかにも特権階級って考え方で! あいつら桜の世話なんてかけらもしたことないのに、いつもいつもえらっそうに……!」

「で、でも……そんな偉い人? 朝廷の人? なんでこんな櫻守の居場所にまで来たんだろうね? 紅華が役所に上げた苦情は全然関係ないんでしょ?」


 鬱金は必死に紅華をなだめようと試みるが、なかなか上手くはいかない。

 先程助けてくれたのか馬鹿にしたのかわからない庭師の行動は、あまりにも不可解に鬱金には思えた。

 そもそも庭師は、何度現場の櫻守たちが苦情を上げても、自ら出向くことはなかったはずなのだ。

 馬鹿にしている櫻守にもっと仕事をしろと嫌味を言いに来た訳ではなかったようだし、山に入った不審人物のために、わざわざ薄墨は雪山に登る羽目になってしまった。今まで全く動かなかった庭師が動いたことといい、いくらなんでも出来過ぎではないだろうか。

 櫻守の棟梁がいない内に、なにかをしたかったのではないだろうか。それならば、用事のついでに紅華と鬱金に声をかけた理由にも説明がつく。

 紅華は鬱金の言葉に「うーん……」と声を上げる。まだ紅華の怒りは完全に冷め切ってはいないようだが、少しばかり冷静になったようだ。


「……あたしも、あいつらがなにを考えているのかよくわからないんだよ。あいつらは自分たちは偉いって自負が強過ぎる上に、極端なまでに秘密主義だ。櫻守がいなかったら桜を守れない癖して、なにをやっているのか全然現場に降ろしてくれないんだからさ」


 先程出会った庭師があんな態度だったのだから、現場で働く櫻守たちの心証が悪くなるのも仕方ないだろうと鬱金も理解はしている。だがそれでずっと激情するのも駄目だ。判断が鈍くなってしまうのだから。


「うん、そりゃ紅華が怒る理由はわかるよ。でも、怒ったら相手の思うつぼな気がする」

「……それもそうだね」


 ようやくいつも通りの紅華に戻ってくれたことに、鬱金は少しだけほっとする。

 ただ彼女が物の怪のことを嫌いを通り越して憎んですらいるということだけは、よくわかった。

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