第14話

 ――あの日、俺は気がついたら橋の上にいた。バットもスパイクケースも、毎日持って歩いてきたのにその日に限って鉛玉みたいに重く感じた。

 勝ちたかった。チームのために、そしてミナトに勇姿を見せたくて。

 何であいつに格好良いところを見せたかったんだろう。ミナトに限らず、クラスのみんなに見てほしかった気もする。けれど俺はミナトだけを誘った。どうしてだろう。彼と一緒にいると、話題を合わせようとかゆっくり歩こうとか、そういう気遣いをせずに済むんだ。

 かといって彼に合わせてもらっている感じもしない。ミナトは引っ込み思案で臆病なやつだけど、俺が好き勝手して振り回されているのだとしたら、きっと静かに距離を取るだろう。

 だから応援に来てくれた時、心底ホッとしたんだ。夏風邪になった、という嘘一つで簡単に反故にできる約束だったから。

 ただの付き合いであの炎天下を最後まで見届けるなんて、早々できない。試合後にも俺を気遣ってくれた。だから本当に嬉しかった。


 でも、本当にごめん。俺はお前に何も見せられなかった。夏休みの貴重な一日を横取りしておいて、疲労感と余計な気遣いばかりを与えてしまった。それが何よりも申し訳ない。

 そういえば、とふと思い出して、俺は橋の下へ降りた。いくつか石を拾う。サーフボードみたいに平たいものではなく、拳みたいに丸っこいものを。

 再び橋の上に戻り、腕を伸ばす。ぱっと手を離すと、持っていた石は真っ直ぐ下へ落ちてゆく。どぷん。針山みたいに鋭い水柱が立って、石は沈んだ。もう一度落とす。どぷん。同じように沈んだ。もう一度。もう一度。


 ああ、ミナト。お前が小学生の時、何でこういう事をしていたか、ようやく分かったよ。

 何も変わらない。何も生まれない。ただ消費されるだけの時間。水切りのように回数を競うわけでも、スポーツのように勝ち負けがあるわけでもない。

 ただ浪費されるだけの優しい時間が流れてゆく。それはなにかに怯えたり、逃げたいと思ったときに柔らかく慰められる。

 ぽつん。石を落としたわけでもないのに、水面に何かが落ちた。涙だ。俺は泣いていた。


「勝ちたかったな……」


 一粒落ちたら、次の一粒がすぐまた落ちた。


「ミナトに、格好良いところ……見せたかったな……」


 ぽつん。ぽつん。ぽつん。

 このまま雨でも降らないだろうか。涙かどうか分からなくなるまでずぶ濡れになりたかった。

 やっぱり親を呼ばなくてよかった。一日かけて俺を慰めてもらうなんて、余計辛くなるだけだったから。

 帰ったら出来るだけさらりと言おう。ごめん、負けたって。

 「応援は高校の時にしてよ」と、気恥ずかしさ故に断ったけれど。来てもらったほうが良かったかな。高校でも野球、続けられるかな。

 今はまだ何もわからない。とにかく夏休みが明けたら……いや、出来れば夏休みの内に、ミナトに謝りたい。けれど引退式がまだだし、九月にならないと中々時間を作れないかもしれない。

 そういう言い訳をしてしまったら、彼は許してくれるだろうか。ああ、彼の優しさに甘えている。俺はなんて嫌な奴なのだろう。


 どぷん。最後の一つを水面に落とした。


「……帰ろう」


 自らに言い聞かせるように、俺は独り言を呟きながらバットとスパイクケースを拾い上げた。やっぱりそれは死ぬほど重たくて、当分これを担ぐ事も無くなるんだなと思うと少し寂しかった。

 寂しかった。


――揺らいでいる頼りない君もいつかは、僕らを救う羽になるかな。


 アジアン・カンフー・ジェネレーションの『君の街まで』を口ずさむ。ここから家まではあと五分。いつもなら走ってでも早く着きたいのに、感情をゼロへ戻すには余りに短い。

 

 ――隣にいる冴えない君もいつかは、誰かを救う明日の羽になるかな。


 段々と高音が出なくなってきた自分の声に少し切なくなりながら、俺は歩いた。

 家の前の扉に立った時、ちょうど最後の歌詞まで辿り着いた。帰ろう。帰ろう。何事もなかったみたいな顔で。


「ただいま」


 どんな顔で母の顔を見たか、よく覚えていない。

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