第12話

 ――三年生の夏。二〇二二年八月。

 僕は市内のスポーツセンターにいた。運動に縁のない僕がこういう所に来るのは初めてだった。テニスコートや室内プールが並ぶ施設の中に、野球場があった。ちゃんと観客席や両チームのベンチがあって、プロ野球で見る球場の縮小版と言って差し支えない程にしっかりした造りだ。


 僕は外野の応援席の隅っこに座り、グラウンドを見下ろしていた。周りは野球部の保護者さんたちが殆どだったが、何人か学生もいた。廊下で見たことのある顔ぶれだったから、多分三年生の誰かが友人を呼んだのだろう。

 それもそのはずだ。彼は約束を果たした。地区予選の決勝戦に辿り着いた。我が校が決勝まで行くのは十年ぶりらしい。

 野球部のメンバー達は活気に溢れていた。誰もが声を上げ、持てる力を全て使い切ろうと前のめりになっていた。


 僕はどうか勝ってほしいと思いつつも、同時に誰も怪我をしないでほしい、と何よりも願っていた。

 座っているだけで汗が伝う。寒がりの僕ですら今日はとんでもなく暑いと感じる。グラウンドにいる彼らは尚更だろう。買ってきたアイスティーをぐっと飲んだと同時に、プレイボールの声が上がった。


 僕は野球のルールをあまりよく知らない。グラウンドには九人いて、打ったり捕ったり走ったりして、あとリツ君がサードというポジションにいる。そのくらいしか分からない。リツ君が色々と教えてくれたややこしいルール達は、たぶん早々起きる現象ではないだろう。

 けれどルールを知らない人たちがワールドカップやオリンピックに熱中し、更にはスタジアムの応援にまで行ってしまう衝動を僕は少し理解できた。

 スポーツは生々しい温度を伴って繰り広げられる。どれだけ多角的に、どれだけ巧妙にカメラが捉えていたとしても、それは膨大なプレイフィールドの内のごく一部でしかない。ゴールを決めたエースストライカーの笑顔を見るよりも、ボールを止められなかったキーパーの方にこそ、ドラマが溢れているのかもしれないのだから。


 駆けるたびに舞う土埃。絶えず鼓膜を震わせるベンチからの声援。破裂するような金属バットの打撃音。小気味好いグラブの捕球音。全てが一つの芸術作品と言えるようだった。

 僕はどんどんと冷たさを失うカルピスを握りしめながら、そして周りの人々の視線や会話にも興味を失い、ただ野球というやたら複雑なスポーツだけに心を奪われていた。


 何度目かのリツ君の打席。彼の顔は見たことがないほど張り詰めていた。中学野球は七イニング。プロ野球よりは二イニング少ないけれど、それだけ見ていれば段々見るコツを覚えてくる。ランナーが二人。帰ってくれば逆転できる。あ、最終回だからサヨナラという奴になるのだろうか。サヨナラ。何だか気の抜けた単語だけれど、カタカナ四文字のその言葉にはきっと沢山の願いや希望が含まれている。


 僕は呟いた。


「リツ君」


 彼はバットをぎゅっと握りしめ、下半身に重心を落とす。僕は呟いた。


「リツ君……」


 白球が数千の回転を描いて六十.六フィートを走る。本当は六十.〇フィートに制定するつもりだったけれど、〇と六を見間違えてしまってこんな中途半端な距離になったらしい。これもリツ君に教えてもらった。

 そういう話を聞くと、ああ人間が作ったものなんだなぁ、と感心する。当たり前のように日常にあるその殆どは、かつて誰かが考えて作ったものだ。野球もサッカーも、スマートフォンや百均のマグカップだって。人間たちが一生懸命築き上げた成果物だ。

 けれど人間が作る以上は、必ず何処かで終わりが訪れる。


 きいん。破裂するような音が響き渡る。今日一番の澄んだ音だ。打球は高く高く上がり、みんな一斉に空を見た。それは花火のようにぐんぐんと背伸びして、雲を突き破るんじゃないかと言うほど風を切ってゆく。

 追いかける視線の先には、外野のフェンスと電光掲示板があった。その中にリツ君の名前もあった。

 打球はいつまでも直線を描くようだったけれど、ある距離にまで達したところで急激に弧を描いた。ニュース番組で打球が伸びなかった、という表現が使われているのを聞いたことがあった。伸びたり縮んだりするものなの? と疑問に思っていたけれど、そのニュアンスが理解できた。


 唐突にそれは、めいを失う。

 知らない誰か、敵チームの人のグラブが甲高く鳴った。リツ君の打球は、サヨナラできなかった。

 皆一斉にベンチを飛び出して、一列に並ぶ。礼をして、またベンチへと帰ってゆく。勝っても負けても、同じことをしなきゃいけない。それってたぶん、すごく辛くてやるせない事だと思った。


 リツ君の夏は終わった。すっかり温くなったカルピスのペットボトルが、言葉にできない喪失感を代弁しているようだった。

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