第13話
僕はそそくさと応援席を出ていって、彼の姿を探した。どんな言葉をかけたらいいか分からない。けれど彼の顔を見たかった。僕を見て、それで思い切り泣いてくれたら嬉しかった。嬉しいという言葉は変だけれど、でも僕はとにかくそう思った。
彼らはスポーツセンターの隅っこの方に集まって、最後のミーティングを行っていた。部員の誰かがみんなへの感謝の言葉を述べて、監督が引退の決まった三年生にメッセージを送って、解散になった。三年生はみんな泣いていた。リツ君は泣いていなかった。ずっと俯いていた。
みんなそれでも立ち上がって帰路へと歩き出した。勝っても負けても直帰になると決まっていたらしい。
保護者が来ていた人たちは車へ、そうでない人たちは自力でバスに乗って。リツ君の保護者は来ていなかった。
「りっ……リツ君」
バス停へ向かう列に声をかけると、彼はぴたりと立ち止まった。先行ってて、とチームメイトに言って、彼は僕の方へと歩み寄った。
「来てくれてありがとな」
土と汗と、体温の匂いがふわりと漂う。彼の目線は僕よりも下の方をウロウロしていた。ああ、普段の僕ってこういう表情で見えているのかなと気がついた。目の運び方が多分僕そっくりになっていた。
「お疲れ様……あの、あのね、合ってるか分からないんだけど……格好良かった。凄く。来てよかった」
「そっか。ごめんな、勝てなかった」
「で、でも……謝ることじゃないよ」
遠くの方ではテニスが行われているようだった。すぱん、すぱん、とリズムよく空を切る音が僕達の間を通ってゆく。
「何で中学生までは七イニングなんだろうな」
「えっ?」
「本当は九イニングなのにさ。あと二イニングあればって……もう一回くらい打席が来たかもって考える……都合の良い言い訳になるんだよ」
僕にはその感情が分からなかった。
確かにあと二回攻撃の機会があれば逆転出来たかもしれない。ニイニングで最低六人が打席に立つから、九回までに二人の出塁があれば打者が一巡し、もう一度リツ君の打席がやってくる。
けれどそれは相手も同じことで、ニイニングでもっと点を取られていたかもしれない。何よりリツ君たちが逆転してサヨナラしたとしたら、さっきの光景が相手チームにそのまま置き換わる。
誰かが勝ったら誰かが負ける。スポーツってそういうものだ。僕は多分、ホームランを打った選手よりも打たれたピッチャーの方を見てしまう。だからスポーツを観戦するのは向いていないのかもしれない。
「悪い、何か上手く話せねえ。帰るわ。ごめんなほんと」
「ううん、大丈夫……大丈夫だから。リツ君」
「なに?」
「あ……ありがとう、誘ってくれて。嬉しかった」
「ごめんな」
彼は最後まで謝っていた。それは僕を置いて先に行くからだろうか。勝つと約束したけれど叶えられなかったからだろうか。
いずれにせよ、僕はただ君にありがとうと伝えたかったのに。たぶん彼の心の中にまで、その気持ちは届いていなかった。
今は気持ちの整理がつかないだろう。だから僕はぐっと堪えて、歩幅狭く歩いてゆく彼の背中を見送った。
僕はスポーツセンター内にある自販機に立ち寄った。何か冷たいものを買おうかと思ったけれど、左手に持つカルピスはまだ半分ほど残っていた。
だから何も買わず、隣のベンチに腰掛けてイヤフォンを付けた。プレイリストのシャッフル再生を押すと、ヨルシカの『夕凪、某、花惑い』が再生された。
――さよならだけじゃ足りない。
――君に茜差す日々の歌を、思い出すだけじゃ足りないのさ。
それは、夏の思い出を追想する歌。心を置き去りにしてしまった、あの夏に焦がれる歌。
僕は何年か経ったとき、今日のことを思い出すだろうか。こんなにも複雑な感情に見舞われた今日の日のことを。
――花泳ぐ。君を待つ。
君を待つ僕のことを、僕は笑いながら思い返せるだろうか。
それとも今日がなにかの最後になるだろうか。
僕を見るたび、彼はごめんと謝る日々が始まるのだろうか。それは考え過ぎだろうか。彼の心は明日へ歩き出せるだろうか。
――君は言葉になる。
僕は多分、君という言葉に栞は挟めない。
今はまだ、この本を閉じたくないんだ。
だから夏休みを終えたら、また君と会いたい。あと二週間以上ある小さな寂しさを、僕は堪えてみせる。君の心が癒えるまで。僕は待つ。元気になった君を待つ。
「……べるるるすこーに」
練習し続けているけれど、なかなか巻き舌が使えない。口笛だってまだ吹けない。けれど時間はちゃんと過ぎてゆく。
三十六度の夏、カルピスを一口。余りのぬるさに思わず苦笑した。
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