第11話

 ――中学三年生の春。長いようで短かった野球部の日常も、あと数ヶ月で終わろうとしていた。あまり実感はない。今年の夏までの二年半、こんなに短いものなのかと驚いている。背も伸びて声変わりもして、どいつもこいつも目に見えて成長したけれどそれはいつの間にかそうなっていたものに過ぎない。


 気がつけば男の身体になっていた。気がつけば三年生になっていた。それまではただがむしゃらに走り続けていただけで、今何キロ走っているかなんて誰もいちいち数えていない。

 けれど。俺はバックネット裏にある手洗い場で頭を濡らし、空を見上げる。視界の端に人影が見える。そちらに目を向けると、図書室の窓からミナトがグラウンドを眺めていた。

 ニヤッと笑うと、彼は遠慮がちに小さく手を振る。それを見てまた笑う。どうしたんすか、と尋ねる後輩に何でもない、と返してまたグラウンドに戻る。


 一年生の頃、練習が永遠に感じられた。ものの数十分間で喉が枯れて、まだ終わらないのか、せめてノックの一つくらい受けたいなんて思っていたのが嘘のようだ。

 かつて自分がそうしていたように、今は入部したての一年生たちが声出しを繰り返している。個人的には、そういう制度に意義は感じられない。三年生が引退するまで、彼らは練習にほぼ参加できない。つまり最初の季節、彼らは野球に携われない。

 二、三年生の練習と一年生の練習を切り離して行えれば一番良いのだろうけれど、ただの公立学校にそんな土地も人員もあるはずない。だから我慢するしかない。ああ、意味が無いわけでもないか。刺激のない退屈な時間を耐えるというのは、たぶんこの先ずっと必要になるだろうから。


 ユニフォームを躊躇なく泥だらけにして、俺は山のようなボールを捌いた。サードは内野手の中では投手に次いでバッターに近いポジションだ。打球は速いし瞬時の判断が求められる。見とけよ一年坊、さっさと引退しろと思っているだろうけど、俺はまだまだ野球を続けたい。どんな打球も後ろに逸らさないし、夏の大会はずーっと続くぞ。覚悟しておけ、永遠に思えるくらい俺たちの代を応援させてやる。


「しゃあ、来い!」


 その日、俺は一度もエラーをしなかった。


 練習が終わったのはいつも通り十八時……とちょっと。冬が明けて陽が長くなってきたから、また練習時間が伸びつつある。練習中はあれだけ意気込んでいたけれど、いざ終わってから時計を見ると面倒くさいなあ、とぼやいてしまう。

 そそくさと校門まで走ると、ミナトが文庫本を左手に待っていた。親指と小指で本の両側を挟んで、ページをめくるときは親指を滑らせて小指で掴み取っている。器用な持ち方だ。


 冬休みが明けてから、俺達はよく一緒に帰るようになっていた。野球部の面々は最初こそ誰と帰ってんの? と詮索していたけれど、次第に興味の対象から外れたようだった。ノリ悪いな、なんて毒づく奴がいないのは幸いだった。そんな身勝手な悪態をつかれたら流石に怒ってしまっただろう。


「悪い、お待たせ」


「ううん、練習お疲れ様」


「なあそれ、どうやってやんの」


「えっ、何が?」


「本めくるやつ」


 ミナトは鞄に仕舞いかけた文庫を見て、ああ、と合点のいった声を上げた。


「自然と出来るようになるよ。左手の方がやりやすいけど」


「ん? ……あ、そうか。右手だと小指でめくらないといけないからか」


 親指なら内側に折り曲げればページをめくれるけれど、それを小指で行うのは至難の業だ。


「お前左利きだもんなあ。良いなぁ、格好良いじゃん」


「そっそんな事ないよ……左利きって不便な事多いよ」


「そうかもしれないけどさ、仲良くなった奴とご飯食べに行ったとして、左手で箸持ってたらおおっ! て思うよ」


「え、えぇ? そんなものなの?」


「俺だけなのかな……格好良いと思うんだけどさなあ」


「リツ君の感受性が豊かだからかな」


「かんじゅせい? 頭いいってことか!」


「ああー……うん、広義で言えばそうかも」


「お前いま忖度そんたくしただろ」


「えっそんな事ないよ、リツ君は頭いい!」


「真に受けんなよ、可愛いやつめ!」


 肘で肩を小突く。ミナトはちょっと照れくさそうに下を向いて、俺はケラケラ笑った。


 気がつくと俺達は友達になっていた。もしかしたら親友にだってなれるかもしれない。というか、もうなっているかもしれない。

 友情は成長痛みたいに知らせてくれない。身体の変化ですら気がつけない俺達に、関係性の成長なんて実感出来るはずもない。

 俺達ってどういう関係なんだろうな。

 尋ねてみたいけれど、きっとミナトは困るだろう。それなら俺の中で解釈しておけばいい。

 ミナトは友達。もしかしたら親友。それで良いんだ。


「あっそうだミナト、夏休みって暇?」


「あ、うん、特に予定無いけど」


「夏の大会さ、もし決勝まで行けたら応援来てくんないかな」


「け、決勝? それって勝ったら甲子園?」


「それは高校だけだなぁ……まあ地区予選だから勝っても県大会に行くだけだな。でもご存知の通りうちはただの公立校だからさ、地区予選突破するだけでも中々凄いことなんだよ」


「い、行っても良いものなの?」


「もちろん。でも決勝だけな。流石に一回戦から付き合わせたくないし」


「うん、うん、絶対決勝行ってね! 僕絶対行くから!」


 ミナトは目を爛々と輝かせて俺に訴えた。彼のおねだりは、小動物みたいな愛らしさがある。そんな事を言われては、何としても勝つしかないだろう。

 まだ大会は数ヶ月先だけれど、急に身震いしてきた。帰ったら素振り五百回、誠心誠意取り組もう。

 頑張るぞ、と意気込む俺と頑張ってね、と励ましてくれるミナト。とても幸せな帰り道だった。


 道すがら、誰かの庭先に花が植えてあった。前に花言葉を教えてもらったときと同じ家だ。たぶんガーデニングが趣味なのだろう。

 この日はカーテンの柄みたいにくっきりとした形の花弁が特徴的な花が咲いていた。ミナトの影響でちょっと花には詳しくなったのだ、これは勿忘草わすれなぐさ

 花言葉は確か「真実の友情」。うん、俺達にぴったりな言葉だ。

 ミナト、お前のために勝つからな。友情の力を見せつけてやろうぜ。密かにそんな事を思いながら、俺達は肩を並べて帰り道を歩んでいった。

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