第16話
まだ十歳かそこらの時。僕はいつも通り、両親の帰りを待っていた。夕暮れの時間帯はニュース番組ばかりで、僕の琴線に触れるコンテンツが見つからなかった。その日はなぜだか無性に寂しい気持ちになっていて、余りに静かで孤独な時間に耐えられなかった。
だから本当はいけないことと分かっていたけれど、父の部屋に忍び込んだ。リビングと僕の勉強部屋、寝室、そして父の部屋という間取りなので、唯一僕の知らない空間がそれだった。
今までも何度か覗いた事はあったけれど、一人でこっそりと言うのは新鮮な気持ちになれた。まるで『ナルニア国物語』でクローゼットを開けたシーンのように、眼前には未知が広がっていた。
とはいえパソコンや書類を勝手に触るわけにはいかない。僕が見ても平気そうなものと言えば、本棚くらいだった。
ずらりと並んだ背表紙の中で、一番ひらがなが多かったのが『たったひとつの冴えたやりかた』だった。と言っても『冴えた』が読めなかった。たったひとつの「何か」のやりかた。それって何だろう。たったひとつしかない答えって何だろう。
僕はそれを手に取り、皺にならないよう慎重にページをめくった。両親が帰ってきたらすぐに戻れるよう、聞き耳を立てながら。
結局のところ、気がつけば文字に没頭していた。海外のSF小説だから、子供が読むには難しい内容だったけれど、文字から映像を想像するという行為が思いの外楽しかった。母が帰ってきた物音にも気付かず、僕は本に夢中になっていた。
「ミナト、どうしたのそんな所で」
僕は地べたに座り込んで読み耽っていた。そんな大胆な行動を取ったのは多分初めてだったと思う。母は驚きながらも、僕を叱ったりしなかった。
「お父さんに似て、本が好きなのね」
その時の笑顔を思い出すと、じんわりと嬉しい気持ちが染みてゆく。それと同時に、きゅうっと胸が苦しくなる。ああ、会いたいな。毎日会えるのに。不意にあの孤独と帰ってきた安心感とが去来する。
簡潔にその時のことを話し終えると、
「そっか、共働きなんだな……そりゃ寂しいよなぁ」
彼は椅子を引いて、僕の背後にある窓へと歩いた。眼下では三年生のいなくなった野球部が練習に励んでいる。雲ひとつ無い、開放的な放課後だ。
「俺、いつも母さんがいるからさ。寂しいとか思ったことなかった。でも今だったら……」
しゃあ来い! と誰かの声が響く。それはリツ君とよく似た元気な声だけれど、決してリツ君ではない。
「やっぱり……さ、寂しい?」
「そりゃあなあ。俺で終わったわけだし」
きいん。金属バットの打球音が舞い上がる。わあわあ。何事もなかったように、喪失感の一つもなく、彼らは変わらず野球を続けている。
ついこの間までそこにいたはずの彼は今、来るはずのない図書室で僕と一緒にいる。彼の夢が終わったから、僕は彼と一緒にいる。
「高校は……野球、どうっ、どうするの?」
「……分かんね」
わああ。試合形式をしているのだろうか。何かプレイが起こるたびに歓声が上がっている。声だけ聞いていたら楽しそうに感じる。
「なあ、まだここいる?」
「あ、うん。六時くらいまでは」
「そっか。俺も何か読んでみようかな。どう探すのがオススメ?」
「うーん……背表紙を見ていって、ビビッときた作品……とか?」
「はは、宝探しみたいだな。やってみる」
彼はいくつも並ぶ棚をぐるぐると歩き始めた。僕はそれを眺めていた。人が本を探している様子というのは、ちょっと愛らしく見える。大体の本の位置は覚えているので、ああその辺りにあるあの本は面白かったなとか、そこは歴史の資料だから僕は全然手を付けていないなあとか、心の中でそう考えていた。
本屋さんの店員さんって、お客さんをこういう気持ちで観察していたりするのかな。もしそうだとしたら楽しい反面もどかしい職業だなあと思った。声をかけるわけにもいかないのだから。お洋服みたいに、書籍にもコーディネーターがいたって良いのに。
「ん、芥川龍之介って教科書に載ってたよな」
「うん、中学だと『地獄変』だね」
彼は表紙をめくり、収録作品を見た。新潮文庫の『蜘蛛の糸・杜子春』だ。
「ああ、『トロッコ』って小学生の時に習ったよな。懐かしい」
「その中だと『蜜柑』ってお話が好きだなあ」
「へえ……あ、短編だし丁度いいかも。これにするわ」
彼は本を手に席へと戻り、今度は僕の隣に座った。向かい側に座ると思っていたものだからびっくりした。
「難しい漢字多いからさ、分かんなかったら聞いていい?」
「あ、うん、勿論。遠慮せずに……」
僕はドキドキしていた。
こんなにすぐ側に、体温があるのだから。
僕は努めて平静を装いながら、読みかけの『奉教人の死』に手をかけた。彼も続けて『蜜柑』のページを開いた。少し前の行から読み直そう、と思って文字を追い始めると、彼が肩をとんとんと叩いた。
「ごめん、いきなり読めない」
物凄く申し訳なさそうに、彼は子犬のように悲しそうな目で僕を見た。
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