第17話

 『蜜柑』の書き出しはこうだ。

 

 ――或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、をりに入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。


 これ何て読むの、と示したのは「曇つた」だった。僕はふふ、と微笑みながら、空を指差した。


「今日は凄く良い天気だね」


 雲ひとつ無い空を見上げて、彼は首を傾げた。空、天気、「曇った」。


「あ、くもった、って事? 曇りってこう書くのか!」


「ふふっ、正解」


 僕はこの調子だと数ページの作品内でいくつ質問されるだろうか、とワクワクしてきた。

 開いたばかりの本を閉じて、彼の椅子にすっと身を寄せた。振り返れば余りに大胆な行動だけれど、読書という好きな時間にいる間は遠慮がちな性格がいなくなるようだった。


「一緒に読んでもいいかな……久しぶりに、読みたい」


「え、いいの? 助かる」


 それから僕は、古典文学の文字たちを現代風に言い直しながら、彼のために物語の説明をした。彼はうんうんと頷きながら、時折ここはどういう意味? と僕に質問した。さながら国語の先生みたいに、僕はうんと言葉を考えながら説明した。

 とても静かで、とても暖かい放課後。

 彼はやっぱり沢山の漢字を質問したけれど、それと同時に物語の持つ魅力も知ってくれただろうか。


 『蜜柑』はごく短い物語だ。列車に乗った男は、向かい側に座る少女を見て苛立ちを覚える。彼女が持っているのは三等切符であり、男の座る場所は二等だった。つまり彼女は座る場所を間違えているのだ。身なりも粗末で、しきりに鼻をすする音が余計に神経を逆撫でた。

 しかも彼女は、途中で列車の窓を押し開けてしまう。この時代は今のような電気駆動ではないから、汽車の出す煙が車内に入ってきてしまう。

 喉の弱い男は思わず咳き込んでしまうが、それでも彼女は窓を開けたまま外を見つめる。トンネルを抜け、踏切に差し掛かったところで男は気がついた。

 踏切では小さな子供たちが手を振っていた。少女は風呂敷からいくつかの蜜柑を取り出して、窓の外へと投げた。

 つまり彼女はこれから奉公先へと向かうのだ。それを見送りに来た兄弟たちに感謝を込めて蜜柑を投げたのだった。

 煤に塗れた景色の向こうで、橙色の蜜柑が宙を舞う。ほんの一瞬、子供たちの甲高い声が通り過ぎる。冒頭にある灰色がかった風景の描写や、汽車の出す黒く重い煙の描写とのコントラストが美しいワンシーンだ。

 

 ――私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生をわずかに忘れる事が出来たのである。


 『蜜柑』はこの一文で締めくくられる。

 僕達には未だ遠く、理解の及ばない「退屈な人生」。大人という生き物は、僕達が思うほど素敵な世界を歩いていないのかもしれない。そういうほんの僅かな不安が、今になって感じられた。僕達はそうして歩く速度で、逃れようも無く大人になってしまう。

 彼は最後の文章を読んで一つ息を吐いた。

 どんな感想を言うのだろう。面白くない、なんて言われないだろうか。僕は緊張していた。初めて読む本が芥川は流石に難解だっただろうか。現代小説を勧めたほうが良かっただろうか。けれどやっぱり、自ら選ぶ運命めいた出会いが一番だと思うし……。

 ぐるぐると落ち着かない僕の思考を遮るように、彼は口を開いた。


「子供たちはさ、ちゃんと蜜柑拾えたのかな」


 僕は風景としての美しさにばかり目を奪われていたけれど、彼は登場人物一人ひとりを平等に見ていた。踏切で見送る子供たちというキャラクター達も、語り部や物語のキーパーソンと同じくらい大きな存在として捉えていたのだ。

 物語に慣れてくると、登場人物を役割として捉えがちだけれど、リツ君にとってはすべての人物に平等な物語を見出していたのだった。

 僕は一瞬言葉を失い、その純粋で綺麗な感想にそっと笑みを浮かべた。


「うん、届いたと思う。きっと」


 ぱしん。外ではボールを掴む小気味良いグラブ

の音が響いていた。

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三億秒後に願いは叶う 宮葉 @mf_3tent

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