第8話
「悪い、お待たせ」
後輩たちとの部活終わりの雑談も程々に、俺は校門へ走った。ミナトはマフラーに口を埋め、ぽつりと立っていた。こんな事を言っては何だけれど、小動物みたいにか弱い姿だ。相変わらず華奢で小柄だ。周りは成長期でどんどん二次性徴を始めているけれど、ミナトはまだ少年のような骨格をしていた。
俺を見ると、彼は曖昧な笑みを浮かべた。やはり急に声をかけられて戸惑っているのだろうか。それともこういうやり取りに慣れていないのか。どっちでも良い、誘ってしまったのだし彼も承諾したのだ。あとは成り行きに任せて歩くしかない。
幸い、バスに乗って最寄り駅まで戻る道のりは同じだ。俺達は見慣れた通学路をとことこ歩いていた。野球部の奴らは練習で疲れているのか歩くのがやたら遅いけれど、ミナトはすすっと歩く。歩幅が狭いから早足とまではいかないけれど、俺にとっては心地よい速度だった。
「図書室ってさ、そんな面白い本あるのか?」
「あ、うん……全部が全部ってわけじゃないけど、面白いのもあるよ」
「俺国語とか超苦手なんだけどさ、本読んだら頭良くなるかな」
俺としては一番無難な話題を振ったつもりだったけれど、彼はすぐに答えなかった。しばらく地面を見つめて、十歩くらい進んでからようやく口を開いた。
「賢くなるというより、視界が広がるって感覚かも……思想とか感情とか、知識もそう。とにかく色んな人間性を知られると思う」
口元に手を当てながら、彼はゆっくりと一つひとつの言葉を選びながら答えた。俺は正直驚いた。そんな真面目に答えてくれるとは思っていなかったからだ。
「マジかぁ、凄いな。俺も頑張って読もうかな」
「読みやすい奴とか……からのほうが良いかも」
「漫画版の三国志が限界だったけどいけるかな」
「た、たぶん……それこそライトノベルとか、コミカライズから入るのも有りだし」
「そっかその手もあるか――あ」
路地裏の前で俺は立ち止まった。
いつもなら一瞥して通り過ぎてしまうけれど、この日は隣りにいるのがミナトだったから、彼なら一緒に立ち止まってくれるかもと期待して、俺は歩を止めた。
「可愛い」
「あの野良猫、ずっとあそこにいるね」
「撫でたら噛まれるかな」
「あ、止めておいたほうが……良いと思う。野良は虱とか寄生虫が付いている事多いから」
「まあ野良だもんなあ。長生きしろよ」
「卒業するまでは大丈夫じゃないかな」
「猫って何年くらい生きるんだろ」
「飼い猫なら十五年くらいらしいね……でも餌の管理をちゃんとしていても、腎臓病で亡くなる事が多いって」
「腎臓って何するやつだっけ」
「要らないものを尿に変えてくれるところ。猫は腎臓に溜まった毒素を外に出せないから、悪くなりやすいみたい」
「お前物知りだなあ」
「あ、うっウザかったかな、ごめん」
「いいや全然。むしろ楽しい。凄いよ本当、ウィキペディアみたいだ」
問いかければ次々と知識を教えてもらえるのは、実際心地が良い。日々見かける謎を、ミナトはあっさり教えてくれる。
答えを教えてくれるのが嬉しいというより、俺がどうして、と思ったことを全て聞いてくれる事が何よりも嬉しい。何それ知らない、興味ないなんて言葉で遠ざけない。真っ当に会話が出来ている、と嬉しくなって、ついお喋りになる。
「リツカ君は……動物が、好き?」
「ううん、どうだろ。何だこれって思ったことを口に出してるだけだしなあ」
変かな、と笑いかける。その時気がついた。ミナトは俺が思っているよりずっと小柄で、伏し目がちに歩く姿には深い感情が含まれているようだった。
彼は視線を右往左往させてから、意を決したように俺を見上げた。上目遣いの瞳は、真っ直ぐ俺の中心を捉えている。たぶん、初めて目線が合った。
「凄く、すっ、素敵だと思う……」
「本当に?」
「うん、ほんと……うん」
言葉をぐっと飲み込むように、語尾が不明瞭になっていった。自分から振ったのに何だかこの雰囲気が気恥ずかしくなって、俺はバス来るな、と分かりやすく話をそらした。
バスの中でも電車の中でも、彼はぽつぽつと遠慮がちに返事をした。自分から話し出すことは殆ど無い。本当に引っ込み思案な性格なんだな。俺には想像もつかない。
心の距離を保つという点では俺もミナトもそう変わらないだろうけれど、彼は徹底的に言葉を恐れる。出来るだけ慎重に、何一つ言い間違えないように、彼は喉を通る声の一音一音に神経を張り巡らせているようだった。
けれど沈黙は無く、俺が話しだしたら彼も答えた。会話は常に連なってゆく。数学は眠くなるとか、野球の謎ルールとか、そういう取止めのない会話を繰り返した。話の流れで連絡先も交換した。ミナトは凄く喜んでいた。
彼は言葉にすることを恐れるけれど、俺を恐れているわけじゃない。段々と緊張もほぐれて、電車を降りた頃には幾分顔つきも柔らかくなっていた。
大きな橋の向こう側にミナトの家があって、俺はそれよりも手前にある。話し込んでいるうち、気がついたら俺は家を通り過ぎて橋の方まで来ていた。ミナトが途中で気がついたけれど、どうせなら橋の手前までは一緒に帰ろうと提案した。彼はやっぱり喜んでくれた。
橋の手前には民家が並んで、その中の一つは庭先にいくつも花を植えていた。色彩豊かな光景だ。
「あ、これ綺麗だな。何て花だろ」
「これは……シクラメンだね」
「すげえ、花も分かんのかよ。いよいよウィキペディアみてえだ」
「そんな大層なことじゃないよ……花言葉は確か、『内気』とか『遠慮がちな期待』だったかな」
「へえ……控えめな花なんだな」
「こっちはガーベラ、花言葉は『希望』、『前向き』とか。花の色によっても変わるよ」
何を聞いてもすぐ答えてくれるから、つい楽しくなってくる。
自分がこんなにお喋りだとは思わなかったし、ミナトがこんなに楽しそうにしている姿を見るのも初めてだった。教室ではいつも俯いていたから。
「あ、これ何か変わった形してるよな」
シクラメンやガーベラは、色鮮やかで花らしい形をしていた。つまり花びらが楕円形で、外に向かってふわりと広がる姿をしていた。
しかしその奥にあったものは花びらが細長く、色もくすんだ紫色をしていた。
ミナトはそれを見て、すぐ目を逸らした。それまで淀みなく答えていたのに、一瞬の間が生まれた。
「……ダイヤモンドリリー。正式な名前はネリネ」
「花言葉は?」
「花言葉は……えっと、『箱入り娘』かな」
「一つだけ?」
「あ、う、そうじゃないけど……えっと」
「何でそんな恥ずかしがってんだよ」
「あ、ううん、別に……お、思い出せなくて」
ふうん。それ以上は深く聞かないことにした。
橋の手前まで歩いて、俺は鞄を背負い直した。
「それじゃ、また明日な!」
「あ、うん、バイバイ」
家に帰ったら調べてやろう。ダイヤモンドリリー。余程エッチな花言葉なんだろうな。
意地悪くへへっと笑う俺に、ミナトもまたふふっと笑った。たぶん俺が笑った理由には気付いていないだろうけれど、楽しい気持ちで帰れるのだから許してほしい。
――だから俺にとって、この日この時の帰り道は、大切な思い出だ。ミナト、お前はどうかな。覚えてくれていただろうか。
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