第3話
家は静まり返っていた。両親は共働きだから、帰ってくるのは僕が一番早い。小さくて古めかしい家だけれど、ここが僕の帰る場所。悲劇に見舞われてはいないけれど、喜劇の中で生きているわけでもない。
空虚。年月を帯びた木々のように、僕の日常は密度を失い、絶えず軋む音が聞こえている。
寂しいよ。時々、ふとその言葉が思い浮かんでしまう。
僕は襖を開けて、自分の部屋に逃げ込んだ。学習机の隅にはいつか買ってもらった小さな砂時計が置いてある。その横には、昨晩読んでいた科学雑誌もある。
SF小説のような夢のある記事たちには心躍るけれど、本当に楽しいのは読んでいるときではない。それを両親に話すときだ。
へえ、凄い。いつか宇宙に行ってみたいね。そんな話をする時間が何よりも幸せだ。
けれどまだ、二人は帰ってこない。
机に寝そべって、砂時計を逆さにした。一回で三分か五分かを測れる。どちらだったか忘れてしまった。けれど砂時計というのは、正確な時間よりも経過を目視できる部分にこそ価値があるように思う。
限界まで耳を澄まさなければ聞こえないほどか細く、それは音をたてる。さらさらと、あるいははらはらと。
それは孤独を癒やすには余りに弱々しい音色だけれど、全くの静寂に比べれば遥かに暖かかった。
それでも。僕はまだまだ幼いから、どうしたって求めてしまう。ずきん。偏頭痛がひとつ。明日はきっと雨になる。雨は嫌いだ。台風なんて海の真ん中で溶けちゃえば良い。
「早く……帰ってきてよ」
一分一秒が余りにも長く感じられた。早く聞き慣れた足音が届いてほしかった。どうしてこんなにも寂しいのだろう。これはおかしな事なのだろうか。けれど子供というのは、常に誰かの存在を感じていないと不安になる生き物なのだと思う。
さらさら、さらん。砂時計の音は途絶えた。もう一度ひっくり返せばまた三分か五分か時間を潰せるけれど、僕はご飯を炊いておかなくてはならない。
仕事帰り、くたくたな二人にちゃんと温かいご飯を食べてほしいから。
二合分のお米を入れてボタンを押す。六十分後に炊きあがる。今はまだ十八時二十分くらいだから、炊きあがるより早く帰ってくることは流石にないだろう。
それまで何をしよう。とりあえずテレビを点けた。何かを見たいわけでもなく、ただ雑音が流れ続けていてほしかった。何なら通販番組が延々続いていたって構わない。
横になってそれを眺めていると、段々と意識があやふやになってくる。ふわり、ふわり、眠るというよりは海の上で四肢を浮かせているような感覚だ。
そのまま水面に身を委ねたらどうなるだろう。
……どぷん。意識が水底に落ちゆく音が聞こえる。
ゆらゆらと差し込む陽の光が遠のいていき、次にある男の子の顔が思い浮かぶ。
ちゃっちゃっちゃっ、ぽちゃ。水面を滑る石の背中。ああ、楽しかったな。また誘ってくれないかな。
一日は長く、明日は未だ遠い。
両親の足音を期待しながら、僕は長い夜をじっと堪えていた。
――俺は記憶力が良くないから、些細な日常を覚えていたり、大事な思い出をすっかり忘れていたりする。
けれど唯一、あいつとの思い出だけは忘れたことがない。それはとても不思議な事で、でも当然の事だとも思う。
本当に大切なものは、魂に直接刻まれるものだから。
「ただいまー」
俺はバッグを玄関に放り投げ、リビングに歩いていった。
「おかえりリツカ。遅かったじゃない、野球してたの?」
母さんは夕食の準備をしていた。時計を見ると十八時十五分だった。確かに少し遅めの帰宅だ。
「ん、まあね」
冷蔵庫からファンタを取り出し、俺は答える。ミナトの事を話すか一瞬考えたけれど、秘密にしておこう。別に野球が白熱して遅くなりました、で何の問題もないし、何よりあいつが嫌がるんじゃないかと思ったからだ。
多分、ああやって一人でいる時間が好きなんだろうな。というか、そうすることしか出来ないんじゃないかな。
だとしたら、俺が声をかけたのもお節介だったかもなあ。まあやってしまったものは仕方ない。
明日顔を見たら分かるだろう、多分。
「何杯飲むのよ」
母さんの突っ込みで我に返った。ニリットルのペットボトルが随分減っている。しまった、ぼうっとしていて機械みたいにファンタを飲み続けてしまった。
「あ、喉乾いてたから。晩飯なに?」
「生姜焼き。まだ時間かかるから、先に宿題やっときなさい」
「はいよ」
ラッキー、肉だ。俺は軽やかな足取りで階段を駆け上がる。自分の部屋のドアを開けてベッドにダイブした。
枕元に置きっぱなしの雑誌に手を伸ばし、休憩と言う名のサボタージュを開始する。
今月の特集はなんだろう。先月は太古から存在するという秘密結社についてだった。今月はどうやら、「最近発見された新種の花が実は宇宙からやってきたものじゃないか」って話らしい。
こういうオカルトはワクワクする。本当か嘘か、いや大半はデタラメなんだろうけれど、一種のエンターテインメントとして楽しめる。それにちょっとした雑学も覚えられたりする。実質勉強しているのと同じだ。という言い訳。
このまま三十分くらい雑誌を読んで、ご飯食べて、風呂入って、友達とオンラインゲームして、寝る前にササッと宿題を片付けてしまえばいい。最悪、明日早めに登校して適当に書き上げてもいい。
生姜焼きの香りを想像して、自然とよだれが湧いてくる。ああ楽しみだ。今のうちに目一杯腹を空かしておかないと。
「あー、一日ってあっという間だなあ」
ポテチをつまみたい気分だったけれど、ありったけの肉を食べるためにもここはぐっと我慢した。早く晩飯の時間にならないかな。
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