Chapter 1: May
第5話
――時は流れて、中学校になってからのこと。あれは二年生の秋頃だったと思う。
小学校の人々はほぼ全員、近隣の中学校へ進学した。他校の人たちも加わり、探り探りの友達の輪が少しずつ広がっていく。その通過儀礼が終わり、大方のコミュニティが形成された二学期のこと。
あれから僕は、ほぼ毎日橋で石を投げていた。彼がまた通りかかってくれないかと密かに期待しながら。投げて投げて、たまに橋の上を見て。不意に空がじんわりと蜜柑色になっていることに気がついて、慌てて帰る。そんな日々だった。
彼とは再会できなかった。中学校で野球部に入ったらしいから、きっと石を投げる分だけボールを投げていたかったのだろう。
けれど彼は目が合えばおはようと言ってくれるし、グループワークや体育の時間で一緒になればたまに話しかけてくれた。
僕は相変わらず上手く言葉を返せなかったけれど、彼は別段気にしているようでもなさそうだった。
それもそうだ、僕はクラスメイトというその他多数のうちの一人だ。彼の友達になれたわけじゃない。彼には友達が沢山いるだろうし、人気もあるだろう。だから僕の方から歩み寄らない限りは何も変わらない。けれど声をかけるのにも勇気がいるし、どんな言葉を選べばいいか分からない。
僕はいつしか、空白の時間の大部分を図書室で過ごすようになった。そこはとても静かで、古めかしい紙の匂いと仄かに差し掛かる日差しが心地よかった。
教科書で『トロッコ』が出たから、芥川龍之介の作品をいくつか読んだ。次に太宰治の『人間失格』を読んだけれど、これは難しかったからすぐに読むのをやめた。
僕は数ある本の中で、とにかく陰鬱で救いのない話を好んで読んでいた。様々なシチュエーションで様々なキャラクター達が様々な不幸に直面する。可哀想だと思いながら、どこかそれを頭の中で展開する事が楽しかった。
寂しいやつだな、と思われるかもしれないけれど、活字と僕だけの世界というのは、橋の上から石を落とすあの時間と同じくらい心安らぐものだった。
ああ、授業が全部国語だったらいいのに。
中学生になってから、放課後は橋へは行かずに学校の図書室に居座っていた。チャイムが鳴ると真っ直ぐにそこへ向かい、部活が終わる十八時ごろまでそこで過ごした。彼は野球で忙しいのだから、橋の上で待ち焦がれていたって会えっこ無いのだから。
図書室の先生以外にほとんど人は来ない。僕と、紙をめくる音と、窓に差し込む部活動の掛け声だけがそこにあった。その静けさは、余りにも心地良かった。
その日、僕はパウロ・コエーリョの『アルケミスト』という本を読んでいた。難解な文体ではあるけれど、想像を超える異文化の美しさや哲学的なストーリーにのめり込んでいた。
――彼女は宝物を探しに行った勇気ある少年を待っている女だった。その日以来、砂漠は彼女にとって、たった一つのことを意味するようになった。彼が帰ってくるという希望だった――。
物語は後半に差し掛かっていた。大いなる使命を果たすため旅立つ少年と、それを見送る少女のワンシーン。
僕の視界には活字しか映っていなかった。脳内では獲得した文章を映像へ変換する事に注力していた。それ以外には何も見えていなかった。けれど、
「しゃあ、来ぉい!」
その声が届いた瞬間、僕の世界は急速に閉じられた。慌てて窓の方へ駆け寄り、グラウンドを見下ろした。
野球部がノックをしている。図書室は二階にあるから、あまり視力の良くない僕でも人の顔はある程度見分けられる。野球のポジションなんてまるで分からないけれど、とにかくその一人ひとりを視認していく。そして何人目かで、視線が止まった。
素早く地面を這う球を軽やかに拾いあげ、滑らかな動作で対角線上の選手へボールを投げる。
その姿は間違いなくリツカ君だった。
夏の間に三年生が引退して、今は二年生と一年生のチームなのだろう。春先はまだ彼の声は聞こえてこなかった。三年生がいれば一年生は練習にほぼ参加出来ないだろうけど、ああして一選手として参加すれば自ずと個人の声が響きやすくなる。
汗と土にまみれながら練習に励む彼を見て、格好良いと心底思った。あんなにも自在に身体を操って、皆と苦楽を共に過ごしている。それは限られた人にしか経験出来ないものだ。
僕にはああいう青春を送れない。羨ましい、あるいは眩しい。素敵だなあ、とあえて声に出して呟いたのは、もう一つの感情を誤魔化したかったから。
時計をちらりと見る。もうすぐ十八時。部活動はそこで終了となるが、グラウンド整備やクールダウンがあるだろうからだいたい十八時半ごろに帰れるだろうか。
十八時半。アルケミストの内容はすっかり抜け落ちてしまって、僕はその本の貸出手続きをして図書室を出た。
廊下を出来るだけゆっくり歩いて、ついでにトイレに寄ったりして、その時を待った。十五分ほど玄関まわりをうろうろと歩き回っていると、がやがやとした話し声が聞こえだした。
サッカー部やらテニス部やらの団体が去り、最後に野球部がやってきた。みんな身体が大きくて、とにかく明るかった。冗談を飛ばし合ったり部活の愚痴を言い合ったり。その中でどうか、彼が一人で歩いている姿を願っていた。
しかしリツカ君は、何人ものチームメイトと談笑しながら靴を履き替えていた。それはそうだ。彼が一人ぼっちになるはずがない。
僕は廊下の隅で彼が帰っていく背中をただただ見送った。彼の声が遠のいていく。知らない誰かと茶々を入れあっている。沢山の笑顔を見せている。きっと、僕には分からない楽しい話で盛り上がっているだろう。
僕にあるのは、水切りをして一緒に遊んだ思い出だけ。けれどあの時、僕は彼の手を握った。あの掌の感触を知っているのはまだ僕だけかもしれない。
けれどたったそれだけの事で、友達の振りをするのは思い上がりだろうか。
僕はただ彼のことをもっと知りたいだけなのに。
ずきり。偏頭痛が不意に襲う。
僕達は限りなく二人だ。君の背中は未だ遠かった。
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