第17話
25
永山哲也は田爪をにらんで言った。
「いったい、これ以上、何の話をする必要があるのですか」
足を解いた田爪健三は、両膝の上にその不恰好な銃を置くと、隣のテーブルの上の砂時計を手にとって眺めながら、永山に確認した。
「私と妻の物語については、まだ何も話していないと思ったが」
「今更あなたの恋愛話を聞いて、どうしろと……」
永山哲也は顔を逸らした。
田爪健三は穏やかに言う。
「まあ、そう言わずに聞きなさい。これで最後だから」
田爪健三は、美しい彫刻が施された砂時計をテーブルの上に返して置くと、その中の砂が重力に従って流れ落ちる様を眺めながら、再び語り始めた。
「私と妻はね、瑠香とはね、私が実験管理局に入局した時に出会ったのだよ。私が37歳、瑠香はまだ29歳だった。彼女はそこに中級研究員として勤務していた。美しく、聡明な人だった。いつも『前』を見ている女性だった。『過去』の研究に獲り憑かれていた私とは対照的に、彼女は『未来』を見ていた。当時の私は高橋君との競争に相当に疲れていた。まあ、慣れない宮仕えという環境も私には負担だったのかもしれない。一度、過労で倒れてね。その時、献身的に介抱してくれたのが瑠香だった。で、その後、交際が始まり、やがて私たちは結婚した」
田爪の顔に笑みがこぼれた。彼は続ける。
「結婚後、瑠香は管理局を辞め、家庭に入ってくれた。彼女は、私が日中『過去』への移動の研究に没頭していることに気を使ったのか、彼女も『過去』の研究者の端くれであったにもかかわらず、私が帰宅すると絶対に『過去』の話はしなかった。2人で居る時は、2人で居る時だけは、いつも『今』の話をした。2人で、ちゃんと『未来』の方を見つめながら『今』の話をした。だからかもしれないが、彼女と居ると幸せだった。愛しているとか、好きだとか、それが具体的にどの分類に属する感情なのか、あるいはどういった感情の集合体なのか、または、何を必要条件とするのか、どこまでが十分条件なのか、私にとって、そんなことはどうでもいいし、また、到底、私の分析力の及ぶ範囲ではない。ただ単純にこう思っていたし、今でもこう思っている。――一緒に居たい。その瞬間、その空間に、共に居たい。共に時を過ごしたい」
田爪健三は静かに目を閉じた。
「もちろん、愛おしいとも思っているし、尊敬もしている。彼女についての諸々の肯定的な感情や記憶は私の頭の中に無数に仕舞い込まれているが、それとは別に、そう思うのだよ。今でもね。それは私の欲求であり、私のエゴイズムなのかもしれないが、彼女が同じように思っていてくれたかは分からないし、それは私の思惟には影響を与えないことだから、それを考えたことはなかった。ただ私は、一つの仮説を持っている。私のこの思考を一つのベクトルに例えるならば、同種のベクトルを彼女が私に向けた時、その相関関係こそが『恋愛』として定義できるのではないだろうか。まあ、今となっては、私には、もう永久に証明できない仮説だがね」
田爪健三は苦笑いをして遠くを見つめた。
「妻は、瑠香は不幸な子でね。幼い頃、事故で両親を亡くしていた。瑠香が小学校に上がる前に、ご両親と共に、父親の運転でピクニックに出かけたそうだ。車を走らせている途中、瑠香がいつも大切にしている縫いぐるみを忘れたと言う。家に戻ってみると、縫いぐるみは、瑠香のちょっとした不注意で積み忘れられた状態でガレージの横に座っていた。車は玄関の門扉の前で停車し、瑠香だけが降りて、縫いぐるみを取りに走ったそうだ。瑠香が縫いぐるみを抱いて振り返ると、ご両親が乗っていたその車を踏み潰す形で、大型トラックがその上に停車していたらしい。原因は分からんが、どうもトラックの電子基盤が故障して暴走し、そのまま、両親が乗っていた車に横から突っ込んで乗り上げたようだ。かなり大きな衝突音がしただろうに、瑠香は、その時の衝突音を覚えていないと言っていた。もしも、あの時、車をガレージまで進めていれば、ご両親がトラックに潰されることは無かったはずだ。もしも、縫いぐるみを取りに帰らなければ、縫いぐるみを忘れたという、ほんのちょっと悲しい思い出のピクニックとして、瑠香の記憶に残ったに過ぎなかっただろう。あるいは、もし、ピクニックに行かなければ……。本当は、瑠香は、ずっとそのようなことを考えて生きていたのかもしれない。そして、その呪縛から逃れるために、無理をしてでも『未来』だけに顔を向けて、『今』だけに集中していたのかもしれない。私がそのことに気付いた時、同時に私は自分の無力さに驚愕した。ああ、私に何ができるだろう。この愛する女性を『過去』の呪縛から解き放ってあげるためには、私に何ができただろうか。もし、私の理論が正しければ、私のマシンで過去に行けたとしても、事故を回避することはできない。時間に刻み込まれた運命は変更することができないからだ。しかし、もし、高橋君の理論が正しければ、瑠香を高橋君のマシンで過去に送れば、もちろん、大人になった瑠香がご両親の前に現われることにはなるが、それでも、家族との人生を取り戻せるかもしれない。私は彼女に心底惚れていたから、今、自分の理論を綺麗さっぱり捨て去り、高橋君に協力すれば、1日でも早く瑠香を過去に戻してあげることができる、少なくとも、瑠香に希望を与えることができる、そう考え、悩んだ時期があった。恋は人を盲目にする。愚かなことだ。愛のために真理の探究を放棄する。だが、私にはそれができなかった。高橋君は、妻を捨て、子を捨て、たった1人で『過去』へと旅立った。自らの理論の正当性を立証するために、誇らしくも勇敢に、この世界から去ったのだ。私にはそれもできなかった。瑠香を捨てることはできなかった。『過去の瑠香』を救い、その別の時間軸の瑠香に別の時間軸で新たに幸福な人生を過ごさせることの可能性よりも、ただ、『今の瑠香』、この時間軸を共に過ごしている『この瑠香』を捨てることができなかった。躊躇した。恐怖した。――だが結局は瑠香のもとを去った。彼女を1人にした。自らの理論の正当性を示すどころか、十字架に磔られたかのような状態で、不様に彼女の前から去った。不名誉も、辛苦も、屈辱も、全てを彼女のもとに置き去りにして」
田爪健三は大きく溜め息を吐いた。
「私は世を恨んだ。過去を恨んだ。高橋君も、AT理論も、全ての学問も、そして神さえも恨んだ。私が一体何をした。私は皆々が共通して抱いていた一つの疑問に答えようとしただけだ。私は偶然にも『真実』を自身で経験した人間の1人だ。その責任を全うしようとしたし、義務を履行しようともした。ただそれだけだ。いいや、それだけではない。実験を繰り返し、単なる机上の理論だったものを実践的で使えるものにしてやった。タイムマシンも設計した。生産し易く、使い易く、快適で、安全なタイムマシンを。そして、国家の財政赤字を解消する契機を作った。経済にも貢献した。まだ有るぞ。人々を楽しませてもやった。高橋君と共にテレビの討論番組に出て全国の人間に、言い争う姿、困惑する顔、怒る様を見せてやった。楽しいショーを御茶の間に届けてやった。子供たちから学生まで、若者に夢も与えてやった。世間の人々に希望も持たせてやった。そして、その過程で一度も、ただの一度も、私は嘘をつかなかった。違うものは違う、相手が誰であろうと真摯に主張した。どんな苦境に立たされようとも、真理への忠誠を破らなかった。神との契約を守り通したのだ。それなのに。それなのに神は私に何をしてくれた。世間は何をした。人々は。国は。政府は。職場の人間たちは、私に何をした。侮辱し、嘲り、無視し、最後には、私を別の時間軸に追放しようとした。私が設計したタイムマシンに乗せてだ。私のタイムマシンを、私を使って実験した。私はラットか。猿か。いいや、実験自体は仮想空間でもできたはずだし、それで十分なはずだ。だとすると、私は『仮想』以下の人間か。こうして実体として存在しているのに、私は存在を仮に想定されることも無い完全に無価値な人間なのか。いいや違う。そうではない。私は、私の存在価値を示さなければならない。意味のある行動を選択しなければならない。1人の人間であることを証明しなくてはならない。真理に従い誠実に生きる者であることを実証しなければならない。社会に対して責任を果たそうとし、貢献しようとしたことを明らかにしなければならない。そして、私の科学者としての技量と実力を立証しなければならない。ところが、あいつらは、私がこれらの証明の方法を全力で検討している時に、ここにタイムマシンを送ってきた。無神経にも、私が設計したタイムマシンを、この私が居るここへ。高橋君の時は1年待ったくせに、私の時は十箇月だ。十箇月後には、次の発射を実施したのだ。しかも、この私が設計したタイムマシンを、私の許可も無く勝手に作って、勝手に他人を乗せて。まあ、私の失敗作だ、発明の使用料を請求するつもりはない。だが、そのタイムマシンは実際にここに送られてきた。そして、その中から、醜い太った老人が昭和末期の流行ファッションに身を包んで、両手に人工生成ものの金の延べ棒を握り締めて降りてきたよ。まるで自分が世界の支配者として降臨したかのような達成感と満足感と野心と欲望に満ちた傲慢な顔で。それを見て私は悟った。この地にタイムマシンに乗ってやって来る連中の自己中心性と非人間性を。私は自分のやるべきことを理解した。そして誓った。転送されて来たタイムマシンから浮かれて出てくる下衆どもを、髪の毛一本残さぬよう、この世から消滅させることを。だから、奴らを殺す時には一つのルールがあった。タイムマシンから出てくる奴らに一歩も大地を踏ませないということだ。出てきたら、すぐに消す。さっきは君に見せるために少しの間を空けたが、いつもは違う。瞬殺だ。奴らがマシンから頭部や上半身を覗かせた瞬間に、その瞬間に一瞬で塵にしてやった。奴らに新天地の土を一歩も踏ませまいとしたのだ。一瞬の充実感も達成感も感じさせてなるものか。瞬殺。私はそれを、この10年間の全ての処刑で、ずっと貫いてきた」
田爪健三は少しだけ俯くと、目を瞑って一度大きく息を吸った。彼はそれを深く長くゆっくりと吐き出した後、意を決したように目を開き、永山の顔をしっかりと見て口を開いた。
「先月のことだ。また、いつものようにタイムマシンが送られてきた。いつもと同じ速度で、いつもと同じ角度で、いつもと同じ閃光と轟音と共に。ただ一つだけ違ったのは、日時だった。いつもなら毎月23日の決まった時間にやって来るのに、その日は違った。その日は、ここで、そう、その隅の方で、ゲリラの兵士たちが、ささやかなパーティーを開いてくれていた。私のバースデイ・パーティーだ。戦時中の地下で行う、ごく質素な宴席だよ。私も少しだけ気を緩めて兵士たちと食事を共にした。宴会も終わり、兵士たちが帰ると、暫くして突然、計測器の針が激しく振れ、さっきと同じ警報音が鳴った。そう、例の予定外の来訪だ。私は慌てた。多少の酒が入っていたせいもあるが、目の前の、いつもよりほんの少し豪華な食事の残りを、テーブルごと跳ね除け、肩の銃を、この銃を構えた。あの時を思い出したよ、2021年の仮想空間での実験の時を。慌てて所定の位置につき、そう、あの台の上さ、そして、いつもの方角に銃を構えた。その後、深呼吸をして、自分に言い聞かせた。いつもと同じ、いつもと同じ」
永山哲也は田爪の顔を見ていた。田爪健三は頬を強張らせている。恐怖すら浮かべているように感じられた。宙を見つめたまま目を見開いて語っている。
「思ったとおり、予測したとおり、いや、既に決まっているとおり、いつもと同じ角度で同じスピードで例のインチキ・タイムマシンがこの空間に飛び込んできた。そして、いつもと同じように、決められた場所を目掛けて直進し、滑り、決められた場所に同じように止まった。中にいる馬鹿は自分が過去のいつかの時代に辿り着いたと思っていて、今頃、中で、人生をやり直せると浮かれている。そして、いつもと同じように、いつもと同じ速度で、いつもと同じ角度で、いつもと同じタイミングでハッチが開くと、初め白い大きな花弁が見えた。そういえば、以前、ウエディングドレスに身を包み、ブーケを握り締めて出てきたバカ女がいた。山のような花束とプレゼントらしきものを小脇に抱え、高級スーツに身を包んだ中年男性のことも思い出した。学生服を着込んだ爺さんもいたな。皆、塵にしてやった。一瞬で。期待も、興奮も、希望も、満足感も、下品な欲望も。後悔する時間すら与えはしない。皆、一瞬で消し飛んだ。どうせ、こいつも金を払えば何でも簡単にやり直せると思い込んでいる外道に違いない。他人の期待や愛情、恩義を簡単に捨てて、ただ自分のことだけを考えて、ここにやって来たのだ。大地を踏ませてなるものか。刹那と堕落の深淵に留まったまま、さっさと消えていくがいい。私は心の中でそう叫びながら、その人に向かって迷わず光線を発射した」
田爪健三は、黒い革手袋をした右手の四指と親指の間に額を挟むと、そのまま右手を下ろして顔の汗を拭った。彼は続ける。
「一瞬だった。ほんの一瞬の中の一瞬だった。だが、それが何百秒にも感じられる光景が私の前に広がった。そう、あの仮想空間実験で27.917秒間が何分にも感じられたように。いや、あの時よりも遥かに長く、辛く、苦しい『一瞬の時間』だった。舞い散った百合の花弁の奥に見えたのは、瑠香の顔だった。私に向け精一杯の笑顔を見せながら、涙を落とす時間さえも与えられずに、彼女は一瞬で消滅した。一瞬で……。その残像さえも受け入れることができなかった私は、台から飛び降り、すぐさまマシンに駆け寄った。彼女が着ていた白いドレスが緩やかに舞い落ち、履いていた靴が床に転がった。ほぼ同時に微かな金属音と共に『何か』が床に落ちた。その『何か』が何であるか、私には想像がついた。だから、首を動かすことすらできなかった。その小さな銀色の輪は、私の足下まで一直線に転がってくると、私の足の横を通り過ぎ、私の遥か後ろへと去っていった。私はその場に崩れ落ちた。彼女がその細い腕で大切に抱えていた花束の前に崩れ落ちた。そして、その花束に添えられた、この小さな砂時計を見つけた。私宛のバースデイ・カードと共に」
田爪健三は脱力したように肩を落とし、口を噤んだ。
彼の口から語られた話は永山が予想していた通りだった。彼が左手の小指に小さな指輪を通している理由も、彼が無意味に砂時計を置いている理由も、永山には理解できた。
「田爪博士……」
理解はできたが、今の永山哲也には次の言葉が浮かばなかった。それが、タイムマシンの搭乗者たちを理不尽に消し去っている男に対する感情だということも、その感情が不条理に過ぎるということも、永山には解かっていた。だが、彼には何も言えなかった。
田爪健三は膝を静かに叩くと、永山に顔を向けて言った。
「さてと。もう、このくらいでいいだろう」
彼は鼻を啜りながら、自分の腕時計と柱時計を交互に見比べて、永山に尋ねた。
「ところで、永山君。そのレコーダーは、残りどれくらい記録できそうかね」
永山哲也は右手のICレコーダーのホログラフィー表示を確認して答えた。
「ええ、まだ、いくらでも」
田爪健三は小さく頷く。
「そうかね。それはよかった。ここまで、私の長々しい話を聞いてくれて、ありがとう。礼を言おう」
彼はスーツの内ポケットから折り畳まれた書類を取り出すと、それを持って椅子から腰を上げ、永山の前まで歩いてきた。そして、量子銃の先端を床に下ろし、彼に言った。
「もう、帰るといい。殺人鬼にこれ以上の用はなかろう。ここの人間たちにも。帰り道の安全は私が保証しよう。少し回り道になるが、安全なルートを確保してある。方法もね」
田爪健三は握っていた帰国保証書を差し出した。永山がそれを受け取ると、田爪健三は永山の目を見て言った。
「それから、実は君に一つ頼みたいことがある。いいかね」
永山哲也は黙って頷く。
田爪健三は、こう申し出た。
「君が、この戦闘区域を無事に脱出できたら、日本行きの帰りの飛行機に乗る前に、ぜひ立ち寄ってもらいたい所があるのだが……」
田爪健三は話しながら量子銃を持ち上げ、側面のコードを一本ずつ抜いていった。
26
暗い室内。向かい合わせに並べられた事務机の角の席に若い女が座っている。壁の掛け時計の針は深い時刻を指していた。電気が消された室内には彼女しか居ない。
新人記者であるその若い女は深夜の編集室で1人で作業をしていた。机の上に置かれた板状の機械から縦書きの文書が宙に投影されている。その「文書ホログラフィー」の薄い光が彼女の顔を照らしていた。新人記者は書きかけの原稿を見つめながら、唇を強く閉じ、歯を喰い縛っていた。頬は硬直し、両肩は上がっている。やがて、その頬と口元が次第に細かく震え始めた。机の手前に表示されたホログラフィーのキーボードを操作する手は止まり、指が震える。彼女が使用していた立体投影式の薄型パソコンのスピーカーからは、疲れた男の声と、聞き慣れた先輩記者の声が交互に聞こえていた。
「――『その花束に添えられた、この小さな砂時計を見つけた。私宛のバースデイ・カードと共に』『田爪博士……』『さてと。もう、このくらいでいいだろう』――『ところで、永山君。そのレコーダーは、残りどれくらい記録できそうかね』『ええ、まだ、いくらでも』『そうかね。それはよかった。ここまで、私の長々しい話を聞いてくれて、ありがとう。礼を言おう』――」
新人記者はパソコンを操作して音声データの再生を停止した。そのまま下を向き、肩を細かく震わせる。彼女は薄く輝いて表示されている半透明の「ホログラフィー・キーボード」の中で左右の手を強く握り締めていた。
暫らくして、鼻を啜った彼女は立ち上がった。誰も居ない薄暗い部屋の中で椅子と椅子の間の狭い通路を速足で歩き、細い廊下の方へと向かう。
廊下を少し歩くと左手に給湯室があった。彼女はその小部屋の明かりを点け、中に入った。入ってすぐ横にある小さな食器棚の戸袋を少し背伸びをして開ける。手前には表面に無数の棘が付けられた歪な形の湯飲み茶碗が置かれていた。彼女はそれを退けると、奥からキリンの絵柄のマグカップを取り出した。食器棚を閉め、マグカップをシンクの調理台の上に置き、部屋の奥の冷蔵庫の中から油性ペンで「ハルハル」と書かれた牛乳パックを取り出した。冷蔵庫の扉を閉めた彼女は震える手でそのパックの口を開けると、マグカップに牛乳を注ごうとした。パックの注ぎ口がマグカップの縁の上で踊るように上下し、注がれる牛乳をカップの外に散らす。彼女の大きく震える手に握られていた牛乳パックは表面についた水滴で摩擦力を失い、手から滑り落ちた。真横に倒れて落ちた牛乳パックはマグカップをシンクの中に転がし、開いた注ぎ口をシンクの方に突き出して調理台の上に横になった。パックの口から白い牛乳がシンクの中へ流れ落ちる。シンクの中に広がる牛乳と転がったマグカップを見つめながら、流し台の縁に手をついて、彼女は項垂れた。一度、水道に手を伸ばした彼女は、その手を戻し、すぐに自分の口を覆う。片方の手でシンクの縁を強く握ったまま、上げた両肩を震わせ、必死に声を抑えた。シンクの底に白く広がった牛乳の上に大粒の水滴が幾つも落ちる。
その新人記者は声を上げて泣いた。
シンクの縁にしがみ付くように凭れて彼女は号泣する。そのまま下に崩れるようにしゃがみ込むと、泣きながら床に腰を下ろし、更に泣き続けた。声を嗄らし、何度も流し台の下の扉を強く叩きながら、泣いた。
事務机が並べられた暗い編集室には給湯室から漏れた光が差し込んでいる。若い女の慟哭は、そこにいつまでも響いていた。
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