第8話
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広い円形の地下空間の隅で、古びたパイプ椅子に座った白髪の男が黄色い線の向こうに立つ短髪の男に銃口を向けている。
銃を向けられたまま、永山哲也は黙って田爪の顔を見据えていた。
田爪健三は永山に尋ねる。
「時吉教授については、何処まで知っているのかね」
永山哲也は淡々とした口調で答えた。
「時吉総一郎。新都大学名誉教授。哲学博士。もとは法哲学の研究者であり、当初は弁護士としても活動していたが、引退後、時間哲学の分野で多数の論文を執筆し、急速に名声を得た人物。子供は3人、孫は5人、奥さんが1人、奥さんの交代要員が2人。地位とお金と女子大生が大好き。ってところでしょうか」
田爪健三はニヤリと片笑むと、真顔に戻してから言った。
「ふむ。結構。正確な情報に加え、なかなか節度のある表現だ。君は優秀な記者だね」
永山哲也は口を引き垂らすと同時に両眉を上げて応えた。
田爪健三は一度深く息を吐いてから、語り始める。
「さて、彼がこの件に介入してきたのは、2022年だ。赤崎教授の告別式に参列された殿所教授に彼が執拗に議論をぶつけていたのを覚えている。場所柄をわきまえぬ失礼な男だ。実に腹立たしい。その直後に時吉が殿所教授との対談集というものを発行したのが最初の介入だった。まあ、対談集とは言っても、彼の虚偽と欺瞞、妄想と誤解ばかりが詰め込まれたもので、さっき言った『告別式での殿所教授との対談』という部分も含めて、どれも否定するにも値しない内容のものだったとだけ言っておこう」
永山哲也は少ししかめた顔で首を縦に振った。
「ええ、その本は読みました。文面では、それまでのAT理論の説明とは全く違う主張を殿所教授がしているかのように書いてありましたが、僕が調べたところ、実際には、殿所教授は時吉教授に対して挨拶程度の発言しかしていないようですし、そもそも、殿所教授は他人と議論することを好むような方ではない。だいたい、会話の並びと論調の変化が誘導的過ぎて、どこかのライターが創作したものだということが、ありありと分かる内容です。あれは酷い」
永山の言い方には若干の怒りが込められていた。
田爪健三は片眉を上げた顔を永山に向ける。
「ほう。さすがに鋭いな」
「まあ、一応、文屋なんで」
永山哲也がそう言うと、田爪健三は一度だけ深く頷いた。彼は続ける。
「ところがだ、世間は君のように冷静ではなかった。ま、哲学的アプローチから時間概念を紐解くという時吉の手法自体は、決して間違えてはいないし、実際に、的を射た部分もあった。しかし、マスコミは彼の哲学的分析論の考察をすることはなく、彼の弁護士独特の攻撃的な論調と雰囲気そのものに興味を示した」
永山哲也は細かく首を縦に振った。
「ええ。当時のことは僕も良く覚えていますが、一時期は、どの放送局の番組にも彼の顔が出ていましたよね」
田爪健三はゆっくりと瞼で頷く。
「そう。それにより殿所教授へのバッシングの風が吹き始めた。バッシングと言っても、AT理論は一般人に容易く理解できる内容のものではないから、その大半は、いや、全てと言っても過言ではないだろうが、まったく反論に値するものではなかった。しかし、赤崎教授という強力な相棒を失った殿所教授には、日々送られてくる数百通の下等なメールの山に対抗するだけの力は残っていなかった。穏やかながらも毅然とした立派な女史であられたが、さすがに90歳を過ぎておられては、1人で何もかもに対応するのは無理だったのかもしれない。赤崎教授とは同郷の親友でもあられたそうだから、その親友を亡くした空虚感も彼女の死を早めてしまったのだろう。また、赤崎教授の方が若干年上であられたということもあり、生前は赤崎教授の方がマスコミ対応をなされることが多かったのだが、殿所教授としては、赤崎教授の死後の不慣れなマスコミ対応がご老体に相当のストレスであり、それによる過労が祟ったのではないかとも、一部で報じられた」
田爪健三は口を閉じた。その口を一文字にして強く歯を喰いしばった後、大きく溜め息を吐いてから、彼は話を続けた。
「かくて、同年の秋に殿所教授は亡くなられた訳だが、時吉の攻撃は終わらなかった。その後も引き続き、各種のマスメディア上で亡きお2人を侮辱し続けたのだ。2人と言ったが、時吉は生前の赤崎教授とは面識が無かったので、その矛先は、ほとんどが殿所教授に向けられたものだった。そして、その負担と反駁の責任は、殿所教授の下で学んでいた高橋君に重く圧し掛かったのだ」
田爪健三は計測機の上の砂時計を逆さに返し、流れ落ちる砂を眺めながら話を続ける。
「このAT理論というものは、もともと陰と陽の二つの側面を持っていた。そもそも、元は量子物理学の研究者であられた赤崎教授と、数学者であられ、同時に仏教哲学の権威でもあられた殿所教授が、互いの弱点を補いつつ相互に補完し合うことで、まるでお2人が奏でるアンサンブルのように美しく仕上げられたものが、赤崎・殿所理論としてのAT理論なのだ。どちらが陰であり、どちらが陽であるかは、単なる表現の問題であって、あえて明言する必要は感じないが、ただ、先ほど述べたように、過去に戻っても未来を変えられないとする論と、過去に戻れば未来を変えられるとする論のその双方を要素として本来的に含んでいた。そう、まるで男児と女児の双子を孕んだ妊婦のように。強いて言うならば、前者の否定論が陰であり、後者の肯定論が陽というところだろうか。そして、前者がパラレルワールドの否定であり、後者がパラレルワールドの肯定だ」
永山哲也の表情が強張った。いよいよ始まった。いや、また始まった。彼が若い頃に何度も耳にした議論だ。彼自身も思考したり、議論したりした経験がある。そして、その時の経験から、彼はその話題に辟易していた。この案件に取り掛かった時も、なるべくこの議論に意識を傾けないように注意して、思考を避けていた。他の記者たちも同じだった。――新人の若い女を除いては。
ここにやって来た永山哲也は、田爪健三と対面する以上、ある程度の覚悟はしていた。しかし、できればこの話題を回避したかった。だから先ほども念を押したのだ。この不毛とも思える議論に話しが流れないように。だが、どうもそうはいかないようである。田爪がこの話を適当に述べるはずは無かったし、話の流れでも必要と思われる部分であるようだ。そして何より、永山哲也は今、田爪健三に彼が右脇に抱える大きな銃の先端を向けられている。永山哲也に拒否権は無かった。
彼は内心では渋々としながら田爪に言った。
「パラレルワールドの肯定……高橋博士が唱えていらした説ですね。田爪博士が唱えていらしたのが、否定説」
田爪健三は大きく頷く。そして語り始めた。
「そうだとも。さっきも説明したが、パラレルワールド肯定論者どもは実に奇妙なことを言う。例えば、もし君が『過去』へ戻ったとすれば、その『過去』は、君が一度通り過ぎた『過去』とは既に違う別の『過去』なのであって、その瞬間から新たな未来に向けて別の方角に時間軸は進行し、到達したその『過去』の時点を起点とした、君が過去へ旅立つまでの既存の『過去』の流れへは永遠に到達することはできないと言うのだ。だから、君が『過去』に向けて出発した時点、すなわち、この『現在』には絶対に到達しない。つまり、過去へ送った物体には二度とお目にかかれないという訳さ」
田爪健三は永山を軽く指差しながら続ける。
「一方で、過去に移動した君がその後に進んで行く時間軸は、到達した『過去』の時点を出発点とした新しい別の時間軸であって、もう一つの世界、いわゆるパラレルワールドだということになるのだよ」
何度も聞いたそのフレーズを、永山哲也は疲れた顔で口にした。
「もう一つの世界……ね」
田爪健三はそんな永山に厳しい視線を送りながら、深く頷いた。
「そうだ。もうひとつの世界だ」
永山哲也は溜め息を吐いて頭を掻く。それを見た田爪健三は顔をしかめた。彼の話は続く。
「だが、時間というのは『取得』と『放棄』だ。放棄されたものは、そこに積もる。そこから新たに何かが生まれる訳ではない。そこに積もり、固定される。それが『過去』だ。つまり、過去に戻っても、未来から過去にやって来たという事実が既に『過去』として存在しているはずであって、その上に新たに放棄された『有』が積もっていくはずなのだ。そして、『未来からやって来たという過去』を前提として次の『過去』が続いていく。ということはだ、『未来』から『過去』に出発する時点で、『到達したという過去』が既に存在しているはずなのだ。だとすると、時間は常に一本軸。パラレルワールドなど存在しないし、『過去』に送った物は今ここに『過去』からの遺物として存在しているはずだ。『過去』に戻っても、現在までの過去である『未来』を変えることなどできない。時間は固定されている。そして、それは主観に左右されない。ここが重要だ」
田爪健三はそう強調して、床を強く指差した。
「私は今、2038年にいる。私にとって『今』であるこの『現在』は、この2038年だ。だが、例えば今から20年前の2018年は『過去』だ。私にとっては。2018年に生きている人間にとっては2018年が『今』であり、『現在』だ。2038年は『未来』。同じように、2100年は私にとっては『未来』だが、2100年に生きている人間にとっては『現在』だ。このように、一つの時間点であっても、表現する人間の主観によって意味が変わってくる。これではいけない。安定性がないし、考証する上で基準にならない」
田爪健三は困惑顔の永山から視線を外すと、椅子の背もたれに深く背をつけた。
「さっき私は、時間は固定されていると言った。そう、『過去』とは既に過ぎ去った時間だ。放棄されたもので、固定されている。ならば、『未来』から見て『過去』である現在も、『過去』である以上、固定されているのではないかね。その『未来』も『更に先の未来』から見れば『過去』だ。ならばやはり、その『未来』も固定されている。つまり、決まっているのだよ、『時の流れ』というものは。未来を変えることなどできない。そんな希望は、ただの妄想だ。もうひとつの世界など、存在しない」
田爪健三は静かに、呆れ顔で首を横に振った。
呆れ顔をしているのは永山哲也も同じだった。国民的議論にまで発展したこの話は、それこそ過去に嫌と言うほど聞いた。だから、彼もまた、田爪とは違う趣旨で首を小さく横に振った。
視界の隅で動いた永山の頭部に反射的に銃口を向けた田爪健三は、厳しい視線を彼に向けた。
永山哲也は動きを止め、一瞬、息を呑む。
田爪健三は鼻から強く息を吐いて銃口を下ろし、再びパイプ椅子の背もたれに身を倒した。彼はまた語り始める。
「とにかく、AT理論は、これら二つの一見して矛盾するかのような結論を並列的に含み持っていた。そして、この点を外部から誇張的に指摘し、さも致命的な論理破綻要素であるかのように強調したのが、時吉教授だったのだ。時吉の当該の指摘は、『時吉提案』と名付けられ、世を騒がせた。君くらいの年齢なら、よく覚えているだろう」
永山哲也は、今度は慎重にゆっくりと頷いた。
田爪健三も安心した顔で頷いて返し、話を続けた。
「なに、私にしてみれば、本来的な『将来の研究要素の一つ』に過ぎないのだが、彼には違った。高橋君には。どちらかというとパラレルワールド肯定論に親和性を帯びていらした殿所教授に師事していた高橋君は、AT理論の否定は、パラレルワールド肯定論の否定であり、我が師の否定であり、
田爪健三は深く項垂れて首を左右に振ってから、すぐに顔を上げて語り続けた。
「否定論と肯定論は陰と陽であり、一枚のコインの裏と表のような一体的関係であったから、高橋君が展開する『パラレルワールド肯定論』の肯定は、直接に『パラレルワールド否定論』の否定でもあった。ところが、私は2021年の時空間逆送実験の時に、その現場で起きた現象とデータの内容から、パラレルワールドが存在しないという事実を演繹的に知ったのだ。あの帆船模型のデータを仮想空間に送るボタンを押したのは、私だ。意図的に時間を計ってボタンを押した訳でもなく、それに合わせようと急いだ訳でもないことは、私が一番分かっている。時間の流れは決められているのだ。間違いない」
永山哲也が田爪の目を見ながら言う。
「主観的心理要素は、主体であるあなた自身が知っているし、あなたしか分からないことだ。だから、あなたは確信できる。しかし、他者には分からない。つまり、パラレルワールド否定論の否定は、あなたの信用の否定となる。そういうことですね」
「そうだ。そうだとも。いいぞ。いい。理解が早い。君は賢いようだ」
田爪健三は永山に何度も人差し指を振って強く頷くと、その手を下ろして話を続けた。
「だから、私としては、どうしても高橋君の主張を受け入れる訳にはいかなかった。そして何より、科学者としての良心がそれを許さなかった。彼の主張は真実とは違うから。私はそう信じていた」
田爪健三は一度天井を仰ぎ見てから、永山の方を見た。
「君は、ハイゼンベルグの不確定性原理というものを知っているかね」
永山哲也は首を横に振った。
「いいえ。――すみません。勉強不足で」
素直に頭を下げた永山に、田爪健三は穏やかな口調で言った。
「そうかね。いや、構わんよ」
そして左腕を載せた横のテーブルに少し体重を掛けて、永山の目を見ながら説明した。
「量子力学の中心をなす原理でね、ワーナー・カール・ハイゼンベルグという学者が20世紀初頭に唱えたものだ。二つの物理量が極めて小さな領域に在るとき、その物理量の片方の測定精度を高めれば高めるほど他方の物質量の測定は不確定になってしまうというものだ。つまり、同一の系にある二つの物理量においては、両方とも厳密に正確な測定値を得ることは、原理的にできないのだよ。例えば、粒子の世界においては、同一の粒子の位置と運動量を同時に測定することはできない。それは、物質の本質が粒子でもあり、かつ、波動でもあるという量子力学の基本概念に由来するものなのだが、私と高橋君の関係は、この二つの物理量の関係に似ていた。他方が正しいと証明されれば、他方がされない。他方の説明がなされれば、もう一方の説明が不十分となる。しかし、本当の真実はというと、双方の説はどちらも真である。それがAT理論の本質だから」
それまで仕方なく聞いていた永山の顔は、真剣になっていた。
永山哲也はあの当時の、いや、さっきまでの自分の浅くいい加減な理解を恥じた。それは彼の脳裏に多くの事が廻ったからだった。いま田爪が話したことは、単にAT理論に限った話ではないと永山哲也は感じていた。かつて憲法改正が論じられ、保守派と革新派が対立した時も、政権交代が叫ばれ、二大党派が対立した時も、経済対策や社会問題の解決が議論され、知識人たちが吠え続けた時も、この話と似たような事態が生じていたのかもしれない。そして、どの時でも、自分はいい加減で偏頗な思考に囚われていたのではなかろうか。
彼は過去を疑い、自己を疑いながら、真っ直ぐに田爪の顔を見つめていた。
田爪健三は永山の内心を見透かしたように頷いてから、また語り始めた。
「だが、世間の人々は、そんなことはお構いなしだ。難解な理論について学習して理解に近づこうともせず、ただ、まるでボクシングの観戦でもするように、我々の議論を見物した。そして無責任にも、どちらが正しいだの、どちらのどこが間違いだの、各々で勝手な論争を始めたのだ。勝手に論争をしておきながら、その争いの炎で我々を照らし、そこにできた二つの影のそれぞれの上に更に支持の列をなして並び、隣の列の者と稚拙で無意味な激しい議論をした」
永山哲也は少し目線を落として言った。
「メディアの影響が大きいのでしょうが、当時、国中がこの議論に沸きましたからね。老若男女を問わず、職場でも、学校でも。正直、ウンザリでした。当時の僕としては……」
永山哲也は罪を告白する罪人のような顔で、下を向いたままだった。
そんな彼を田爪健三は鼻で笑った。しかし、彼の目は笑っていない。ただ冷たく、悠々と過去を見つめていた。
田爪健三は片笑みながら言った。
「そういう影響を作る必要があったのだよ。人々の意識を他に向ける必要があったのさ。本来の仕事を国民に反対されずに進めるためにね」
「本来の仕事……その頃と言えば……遷都のことですか?」
覗き込むように顔を向けた永山を見ながら、田爪健三はゆっくりと言った。
「――まあ、いい。話を戻そう」
永山哲也は黙って田爪の顔を見つめていた。
田爪健三は視線を永山から逸らして、話を続ける。
「とにかく、こうして我々は、学問上の対立者としての立場を学問とは何らの関係を有しない人々によって決定付けられ、その議論は度々メディアで大々的に報じられた。我々は互いの名誉と良心のために、いつも全力で論戦を交わした。それがどのような場であろうと、どれだけの人が嘲笑しようと、われわれは戦い続けた。そういう運命を決定付けられたのだ。大衆によって」
少し語気を強めた田爪健三は、今度は静かに声を落ち着けて言う。
「そんな頃だった。2025年、あれが起こったのだよ」
田爪健三は、ゆっくりと巨大な時計台に目をやった。彼の視線を追って永山哲也もそれに顔を向ける。
その地下空間の奥にそびえ立つ巨大な塔は、まるで、天に向って伸びているかのようであった。それはある光景を永山に思い出させた。衝撃的で恐ろしい光景を。
田爪健三は大きく溜め息を吐くと、永山に発言を促した。
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