第7話

                9


 シャンデリアの下の座り心地のよいソファーに、小柄な若い女と痩せた白髪の老女が対座していた。毛足の長い絨毯が敷き詰められた広い書斎には、この2人しか居ない。その書斎の奥の壁には、きじの大きな水墨画が飾られている。2人の間の低いテーブルには純白の布が掛けられ、その上に色とりどりのカットフルーツが盛られた皿と、ガラス製の綺麗なティーカップ、その横に細い銀製のフォークが載った金縁の取り皿が置かれていた。


 汗に湿ったブラウスの上に少し厚手のジャケットを着た若い女は、神妙な顔を老女に向けていた。


 その凛とした老女は、若い女の目を見て、厳しい顔で話している。


「――それは、とても危険なことよ。それだけは忘れないようにしなさい。いいですね」


「はい……」


 少し下を向いた若い女は、コクリと頷いた。そのまま、膝の上に視線を落とし、彼女は沈黙する。


 老女はテーブルの上の大皿に手を伸ばすと、大きなフォークとスプーンで、そこに盛られたフルーツの中から桃の欠片を取り、自分の取り皿の上に載せた。彼女はその取り皿を膝の上に置いて、細いフォークで桃片を突き刺すと、上品に口に運ぶ。甘く澄んだ味を楽しんだ老女は、さっきマンゴーを食べていた時よりも素直に褒めた。


「やっぱり、桃は美味しいわね」


 顔を上げた若い女は、正面の老女の顔を見て口を開いた。


「あの……」


 老女は膝の上の取り皿にフォークを置き、若い女の顔をじっと見つめる。


 少し視線を落とした若い女は、首をすくめて遠慮気味に老女に尋ねた。


「どうして瑠香さんとは、お会いになっていないのですか。10年も」


 老女は膝の上の取り皿をテーブルの上に戻しながら言った。


「どうしてかしらね」


 若い女はその老女の動きを目で追いながら、彼女に更に尋ねる。


「会長さんは瑠香さんと田爪博士の結婚に反対されていたのですか」


 姿勢を正した老女は、目を瞑り、首を横に振った。


「いいえ。あんな良い人は他には居ないわね。私は今でも納得しているわ。瑠香にはもったいなかったかもしれないわね」


 若い女は視線を少し横に向けた。


 老女の後ろに広がっている壁一面の本棚は、あらゆる分野の専門書で埋められている。向こうの入り口のドアの横まで続くその本棚の中段のせり出した棚の上には、幾つかのポートレートが額に入れて並べられていた。若い女はその中の一枚を見つめる。それは、髪の長い美しい女性の写真だった。彼女の視線に気付いた老女が尋ねた。


「あの子のことが気になる?」


 慌てたように、すぐに老女に視線を戻した若い女は、小さな声で答えた。


「あ……いえ。ただ、優しそうな方だなあと思って」


 老女は横を向き、棚の上のポートレートを見つめながら言った。


「ああ見えて、結構、気の強いところもあるのよ」


 若い女は再び写真に目を遣った。写真の中の美しい女性は、笑顔が寂しそうだった。口角は上げていても、物憂げな目をしている。


 若い女は反対側に顔を向けた。部屋の奥の雉の絵は強そうで勇ましく、荒々しい目をしていた。


 若い女は少しだけ眉を寄せた。


 怪訝そうな横顔を見せている若い女に老女は言った。


「お腹が空いているのでしょ。遠慮せずに、もっと食べなさい。水気のある物を食べないと、また具合を悪くするわよ」


「あ、はい。すみません。じゃあ、もう少しだけ……」


 若い女は自分の前の取り皿を手にすると、大皿の端からメロンの欠片を取って載せた。その取り皿を膝の上に置いた若い女は、それを見つめたまま小さな声を発する。


「あの……」


 老女は若い女の顔を見つめた。若い女が顔を上げたのを確認すると、笑顔で頷いて見せる。それを見て少し安心した若い女は、老女に尋ねた。


IMUTAイムタを作ったGIESCOジエスコって、ストンスロプ社グループなのですよね」


 老女は目を丸くして見せて、若い女に返した。


「随分と話が飛ぶのね。それも取材のテクニックかしら」


「いえ。――すみません……」


 頭を下げた若い女は、申し訳ない様子で下を向いた。


老女は片笑みながら言う。


「まあ、いいわ。新人記者さんだということで、大目に見てあげましょう」


「はあ……」


 若い女は上目で老女を伺った。老女はティーカップを手に取り、ハーブティーを啜っている。


 若い女は細いフォークを握り、膝の上の取り皿からメロンの欠片を口に運んだ。控えめに咀嚼しながら、もう一度老女に目を向ける。


 老女はティーカップをテーブルの上のソーサーに静かに戻すと、体をソファーに戻しながら言った。


「そうよ。GIESCOジエスコは我がストンスロプ社が研究機関として設立した子会社。それがどうかしたの?」


「――えっと……」


 急いでメロンを飲み込んだ若い女は、唾も飲み込んでから、老女に尋ねた。


「田爪博士は、どうしてGIESCOに入らなかったのですか。彼は科学者ですし、お嫁さんの養母さんは、ストンスロプ社の会長であられるのに……」


 老女は口元に笑みを浮かべながら答える。


「私がストンスロプ・グループのトップであるから、距離を置いたのでしょう。そして、彼が我々と距離を置いたから、瑠香も私から離れていった。そうするしかなかったのね。決して私たち親子の間に何かあった訳ではないわ。私も瑠香も全てを理解した上で、そうしているの」


 テーブルの上に取り皿を戻した若い女は、更に尋ねた。


「ストンスロプ社と田爪博士の間で、何かあったのですか」


「いいえ。何も無かったわ。直接的にはね」


「間接的には、何か軋轢があったということですか」


 老女は少し間を空けると、若い女の顔を見て逆に尋ねた。


「田爪健三が誰に助けられていたのかは、調べたの?」


「あ……ええと、高橋博士ですか」


 若い女は頭に浮かんだ人名をそのまま口にした。


 老女は首を横に振る。


「それは共同研究者の1人ね。ライバルでもあったけど」


 若い女は少し考えて、また浮かんだ人名を挙げた。


「赤崎教授でしょうか。殿所教授も」


 老女は再び首を横に振った。


「彼女たちは、彼らが研究していたタイムトラベル理論の基礎となる『AT理論』の提唱者。まあ、彼らを科学者として育てたのは彼女たちだから、その意味では助けてはいるわね」


 若い女は考えた。ふと視界に入ったポートレートに再び目が行き、思わず言った。


「あ、瑠香さん……ですか」


 老女は姿勢を正したまま、若い女の目を見据えてゆっくりと語った。


「いい。人間はで生きているの。社会は人と人との繋がりでできている。ということは、1人の人間には必ず繋がりのある人間が存在するのよ。何かの事実を知りたければ、まず、その繋がりを手繰ること。それが真実を知る近道よ」


「……」


 若い女は老女が言わんとすることを汲み取ろうと、老女の目を見て必死に考える。


 老女は若い女に目を瞑って頷いて見せると、続きを話した。


「赤崎教授と殿所教授は、NNC社から研究の支援を受けていたの」


 若い女はキョトンとした顔で訊き返した。


「あのAB018を造ったNNC社ですか」


 老女は首を縦に振る。


「そう。研究費や研究に必要な機械類の提供を受けていたわ。だから、高橋博士が仮想空間での実験を言い出した時も、NNC社が政府に対して口添えして、比較的簡単に実験の許可が下りたの」


 若い女は老女の顔を覗くように見て、言ってみた。


「会長さんも……ですよね」


 老女は再び目を閉じて頷く。


「――そうね。ストンスロプ社もIMUTAの使用を二つ返事で了承したわ。私としても自分の養女の夫がしている研究を邪魔する理由は無かったわね。正直、実験の許可を下ろすように裏で積極的に政府に働きかけてあげたのは、事実ね」


「瑠香さんと田爪博士のために……」


 若い女の問いに頷いて答えた老女は、上げた顔の表情を厳しくして続けた。


「でも、彼らは違ったわ。NNC社は実験によるAT理論の正当性の証明よりも、その実験の準備に必要なことに関心があったの」


 視線を落として考えた若い女は、辿り着いた結論を老女に確認する。


「AB018とIMUTAの接続ですか」


 老女は深く頷いた。


「そう。NNC社の狙いは、我々のIMUTAを自分たちでも利用できる状態にすることだった。我々のIMUTAと自社のAB018を競わせるよりも、相乗りさせた方が企業利益になると考えたのでしょう。それで、実験の準備にかこつけて、二機を接続したというわけ。まあ、別の言い方をすれば、あの実験は『SAIサイファイブKTケイティーシステム』を構築するためのいい口実になったと言うことね」


 若い女は驚いた顔で尋ねた。


「会長さんたちを騙したってことですか」


 老女は横を向いた。


「そうなるわね。当然、我々とNNC社の間の溝は深まったわ。まあ、元々が協力するに相応しい企業ではありませんが」


「それで、どうして田爪博士が……」


 若い女は少し首を傾げた。


 老女は部屋の奥の雉の絵を見つめたまま答える。


「彼は引き継いだのよ。赤崎教授と殿所教授から。もちろん、実際に多くの物も引き継いだわね。立派な理論と多くの知識、高価な機材も。でも、彼はもっと大切なものを引き継いだの」


「――信用とか名誉ですか」


 若い女に顔を向けた老女は、鋭い視線を送る。


「そう」


 そして、目線を下げ一呼吸置くと、再び語り始めた。


「赤崎教授も殿所教授も古い人間です。お2人は、自分たちの研究を支援してくれているNNC社に義理立てして、同社と対立することになった我々と節度ある距離を保つことにしたの。そして、田爪博士もそれを引き継いだ」


 若い女は確認した。


「立場上、会長さんと会えなかったということですか」


 小さく嘆息を漏らした老女は、若い女に言った。


「立場上と言うのは少し違うわね。立場上と言うなら、それは彼個人の問題。NNC社との契約上の問題に過ぎないわね」


 眉間に皺を寄せた若い女は、また尋ねた。


「何か契約をされていたのですか」


 老女はゆっくりと頷くと、若い女の問いに答えた。


「実験のためにNNC社から支給されていた機材は、NNC社や関連企業が開発した最新機器だったわ。例えば、当時実用化されたばかりの可接触式ホログラフィー投影機や、小型のミクロレーザー照射機、新型の記憶法式を採用したバイオ・ドライブ、極限環境対応型の粒子配列ガラス。どれも最先端の物ばかりだった。それらの機材を第三者に分析されて会社の技術情報が流出することを懼れたNNC社は、機材を第三者に渡したり公開したりすることを一切禁ずる内容で機材提供の契約をしていたの。終期なしの契約をね」


「一生負い続ける契約上の義務ってことですよね。でも、機材をむやみに他人に渡したり見せたりしなければいいだけじゃ……」


 若い女の発言の途中から、老女は少し大きな声で話し始めた。


「でもね、世間の人間はそうではない。約束事を守らない人間の方が圧倒的に多いわ。契約だなんて気難しい言葉を使っていても、要は約束事。子供でも約束事は守れるはずなのに、世の中にはそれをしない人間がいる。いいえ、ほとんどの人がそうね。だから法律が必要になる。約束を守らない人間は他人も自分と同じ人間だと思っているわ。他人が守らないから自分も守らなくてもいいと思う。まあ、大抵の人間は、思っていることを認識せずにそうしているものよ。世の中の人が皆、本当に真面目な人間ばかりではないのよ」


 若い女は間を空けずに考えを述べた。


「つまり、博士は世間の人々から誤解されることを避けるために、会長さんと距離を置いた、赤崎教授や殿所教授から引き継いだ信用を傷つけないために、『李下に冠を正さず』というつもりで会長さんやストンスロプ社と接触しないようにした、と」


 老女は、はっきりと頷く。


「ええ。彼はそういう人です。周囲の凡人には理解できなかったのでしょうけどね」


「でも、瑠香さんは、それを理解したのですね。それで、田爪博士と結婚した後は、会長さんと距離を置いた。そういうことですか」


 老女は若い女の目を見て、口角を上げながら大きく頷いた。


 若い女は再び棚の上のポートレートに目を向けて、呟くように言った。


「田爪博士が第二実験で失踪された後も。――なんだか、悲しいですね……」


 思いを巡らせながら若い女はテーブルの上に視線を落とした。


 何も言わない老女に気付き、若い女は老女に視線を戻した。老女は黙ってテーブルの上のティーカップに手を伸ばしている。


 若い女は慌てて姿勢を正すと、すぐに頭を下げた。


「すみません。失礼しました……」


 恐る恐る顔を上げると、老女はハーブティーを啜っていた。


 老女はティーカップを口元に近づけたまま、目線を下に向けて言う。


「瑠香は、それで幸せなのだと思うわ。今も彼を背負って生きている。そういう幸せもあるのかもしれないわね」


 老女は寂しそうな目をしていた。ポートレートの中の女性とよく似た目だった。


 若い女は少し大きな声を老女に掛けた。


「きっと、会いに来てくれますよ。絶対に」


 老女は胸の前にカップを持ったまま、首を少し傾げて若い女に尋ねた。


「どうして? 瑠香とは、まだ会ったことは無いのでしょう?」


 若い女は瑠香の写真を見つめたまま、口を尖らせてボソボソと答える。


「なんだか、そんな気がして……。いい人そうですし……」


 そして老女の方に顔を向けると、張りのある声で言った。


「夫の田爪博士の思いを背負える方なら、きっと会長さんの思いも受け止めておられるはずです。会長さんと同じベクトルを心の中に持っておられるのですから。きっと、契約のこととか、色々なことは解決して、また会長さんに会いに来てくれると思います。夫の思いを大切にするような優しい瑠香さんが母親に寂しい思いをさせるはずがありません。絶対に」


 老女はソーサーの上に戻したティーカップをテーブルに置きながら呟いた。


「そうだと良いわね。そうなれば……」


 若い女は胸の前で拳を握り締め、老女を激励した。


「信じていてあげて下さい。『信じる者は救われる』です!」


 老女は大袈裟に驚いた顔をして若い女を見ると、笑みを抑えながら言った。


「神様とお話しでもしたの? まあ、あなたが救われたのは事実ね。間違えていないわ」


「あ……す、すみません。そうでした。失礼しました。つい……」


 若い女は急いで手を下ろし、顔を赤くして下を向いた。


 老女は少し冷たい口調で言って、若い女をからかう。


「それで、今日は取材に来たのかしら、それとも、伝道活動か何か?」


「あ、いえ……。取材です……」


 若い女は首をすくめ、更に下を向いた。


 老女は口調を穏やかにして言う。


「じゃあ、他に訊くことはないの? 何か関心を持ったこととか」


 若い女は顔を下に向けたまま、上目でチラチラと老女の顔を覗いた。


「えっと……」


 口籠っている若い女に向けて老女は穏やかな表情でゆっくりと首を縦に振ってみせた。


 若い女は思い切って尋ねた。


「さっき仰っていた、バイオ・ドライブとか、粒子配列ガラスって何ですか?」


 老女は呆れ顔で溜め息を吐くと、若い女に言い聞かせた。


「やっぱり、もっとお勉強しないと駄目ね。無学は身を滅ぼすわよ」


「すみません……」


 若い女は、また首をすくめて頭を下げると、恥ずかしそうに下を向いた。


 老女は少し前屈みになり、大皿に立てられた大きなスプーンとフォークを手にした。それを使って大皿の上の切り分けられた果物を適当に取ると、若い女の取り皿の上に載せながら、丁寧に彼女の質問に答えていく。


 若い女は恐縮しながらも、真剣に老女の説明に耳を傾けていた。



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