第3話
4
その初老の男は白いスーツに包んだ小柄な体を、同じく小さな円座の椅子の小さな背もたれに預けていた。黒い革の手袋をした右手でティーカップを口元に運んでいる。
永山哲也は左手を上げて、その男に言った。
「すみません。少々お待ちください」
彼は派手な柄のシャツの左胸のポケットから親指ほどの大きさの機械を取り出すと、その表面の小さな液晶画面を覗いた。左手の親指でその機械の側面の小さなボタンを押す。少しだけ見上げた永山哲也は、しかめて首を傾げ、舌打ちした。
彼に視線を向けた初老の男は、丸いカフェテーブルの上のソーサーにティーカップを戻すと、片笑みながら言った。
「何かの通信機かね。無駄だよ。ここは周りを分厚いコンクリートで覆われているし、屋根には電波反射材を敷いている。外部との通信は不可能だよ。諦めたまえ」
永山哲也はその小さな機械を汚れたジーンズの後ろのポケットに仕舞いながら答えた。
「いえ、そうじゃないんです。こっちのICレコーダーの録音データを、この機械に飛ばして、バックアップとして保存しようと思って。大事なインタビュー録ですからね。ですが、どうも上手くいかないみたいです。どっちも買ったばかりで、まだ使いこなしていないもので……すみません。――ああ、このレコーダーは先輩から貰ったものですけど」
永山哲也は右手の板状の機械を上げて見せた。
眉間に皺を寄せた初老の男は、再び黒い右手で永山を指差す。
「では、なぜ、君は上を見たのかね」
永山哲也は少し間を空けてから答えた。
「このレコーダーからの信号が、すぐ横のさっきの機械にも正確に届かないのは、きっと上から何か妨害電波のようなものが発せられているからかなと思って。ここは戦地ですから、そういう電波の照射装置を設置するとしたら、敵に感知されないように効率よく設置するはずです。この部屋は円筒形ですので、あの地表に出ている屋根の部分から下に向けて電波を発した方が、敵に電波を拾われる危険もないし、この空間全体に電波が行き届いて最も効率がいい。そう思ったんです。まあ、安物のレコーダーと、売り出したばかりの新型携帯電話なので、単に互換性が無いだけかもしれませんがね。仕方ないです。バックアップは諦めます」
永山哲也は両肩を上げた。
初老の男は永山の目を見据えて頷くと、静かに言う。
「ここには観測用のミリ波をランダムに照射している。ジャミング電波が飛び交っているようなものだ。電子機器の同期自体ができんよ。それに、記録はレコーダーでの音声録音のみという約束だ。それは守りたまえ。もし約束を破れば、ここの兵士たちに殺されてしまう」
「もちろんですとも。僕は記者ですから、取材対象者との約束は守ります。だから撮影機材の類は全てここの兵士さんたちに提出したんですよ。――ああ、ちゃんと返して貰えるのですよね。あれ、会社の機材ですから」
初老の紳士はゆっくりと首を縦に振った。
「そう指示しておこう。だが、所有者に返還するか、借主の君に直接渡すことができるかは別の問題だ。存在しない者には何も渡すことができない。必要な物を受け取るためには受け取る肉体を持っていなければならない。君が肉体を維持できるかは、今からの君次第だ。分かるね」
彼の眼光は鋭い。永山哲也はその紳士の目をじっと見たまま、顔を動かさなかった。紳士は目線を下げ、口角を上げる。
永山哲也は左腕の時計を見ると、ICレコーダーを持った右手を胸の前に上げ、今度は真剣な表情で再び口を開いた。
「それでは、始めます」
紳士は鼻から短く息を吐くと、黙って深く頷く。
永山哲也は語り始めた。
「ええ、現地時間、西暦2038年7月22日15時49分。わたくし永山哲也は、日本の丁度反対側、南米大陸北部のアマゾンゲリラ地帯、第13戦闘区域にある密林地帯に来ています。ご承知のとおり、ここは現在、南米戦争における第一級戦闘地域に指定されており、この10年間、南米連邦政府の軍隊と環太平洋連合国軍との協働部隊による反政府ゲリラの掃討作戦が実施されている地域です。もちろん、ゲリラ軍側にしてみれば、反政府抵抗運動作戦ないし解放戦線ということになるのでしょうが……。そして、今わたくしが居るこの地域は、その中でも特にゲリラ側の科学武装化が急速かつ高度に進んでいて協働部隊が苦戦を強いられている地域でもあります。ええ、こうしてレポートをしている最中にも、このように、ゲリラ側の新型兵器の音でしょうか、独特の高音と、攻撃された協働部隊の兵士たちの声が……」
「永山君」
白いスーツの紳士は、薄く長く伸びた白髪を後ろに撫でながら、永山を制止した。
永山哲也はその紳士が髪を撫でた左手に一瞬だけ気を取られた。その紳士の左手は素手で、薬指と小指に指輪らしき物が白く光を反射させている。その下の手首には、黄金色に輝くブランド物らしき高級腕時計が巻かれていた。
眉をひそめる永山に、紳士は厳しい表情を見せる。
「君は兵士の武器の取材に来たのかね」
「あ……すみません。つい興奮して……」
それは嘘だった。永山哲也は冷静だった。紳士もまた、冷静である。彼はそれを見透かしたように永山の目をにらんだ。永山哲也は思わず視線を逸らす。
白髪の紳士は嘆息を漏らして言った。
「まあ、いいだろう。記者の習性だと目を瞑ろう。続けたまえ」
永山哲也は小さく頭を下げると、再びレコーダーを口の前に運んだ。
「――ともかく、今わたくしは、この激しい戦闘区域の森の中に忽然と在る、一つの施設の中にいます。この施設は地下にあり、今わたくしが立っている空間はとても広いです。わたくしは今、自分が入ってきたドアを背にして、この空間の中心部分を向いて立っています。ここは円筒形の空間であり、直径百メートルほどの円形の床と、かなりの高さの壁に囲まれています。地表の屋根までは拭き抜けていて、天井には……」
永山哲也は真上を見上げて、目を凝らした。遠い天井の薄く小さな光源を確認しようとしたが、天井が高過ぎてよく見えない。目を細め、必死に観察する。
「LED型だと思うのですが、相当に大きな照明が幾つも取り付けられているようです。ですが、下までは十分に光が届いていません。どうも意図的に調節してあるようです。光度が最低限に絞られていて、下はかなり薄暗い状態です。わたくしの目が暗さに慣れていないからかもしれませんが、遠くに置かれている物も鮮明には見えません。ですので、とにかく分かる範囲でご報告します」
彼は顔を下ろし、右を向いた。
「まず、わたくしの右側には、網状の錆びた鉄柵が設置されています。これは、高さは二メートルほどで、幅も四メートルくらいの簡易な物です。その向こうの、鉄柵に沿って置かれた長いテーブルの上には、何やら計測器のような物が数台並べられています。どれも稼動しているようですが、何の計測をしているのかは不明です。どの機械も数値は変化しておらず、針も緩やかに振り動いています」
永山哲也は首を傾けた。
「ええと、そこから少し左に視線を向けると、床に大きな赤い三角形の印が描かれています。その更に向こうから、この円形の部屋の中心点の付近とは随分と外れた位置を通って一直線に、別の奇妙な壁が設置されています。ええ、だいたい70メートルほどの長さでしょうか、高さは……7、8メートルは有ります。厚さも相当なものだと思われます」
彼はその方向に顔を向けたまま頭を少し前に出した。
「ああ、この『別の壁』の裏面には、背後にあるこの部屋の壁との間に梁が設置されているようです。太い鋼鉄の梁が何本も、『別の壁』の後ろから斜めに立っています。ここから見るかぎり、間隔は均等です」
永山哲也は少しだけ視線を下げる。
「傷がありますね……。この『別の壁』の表面には無数の傷があります。ええと、たぶん傷はどれも横に引かれています。一本だけ、太い傷が走っていますね。壁の上を端から端まで、結構荒い感じで、長く太い傷が走っているように見えます」
彼はそのまま傷を辿って視線を動かした。顔を左に向ける。
「ええ、この『別の壁』の向こうの端は……、この部屋の奥の内壁にぶつかっているようです。はっきりとは見えませんが、たぶん、そうだと思います。ええと……どうやら、その内壁部分にはクッション材のような物が貼られているようです。大きなクッション材です。どうも、奥の壁に沿って弧を描いて貼られているみたいですが……ああ、プロ野球場の外野フェンス、あんな感じです。ですが、大きさは、もっと大きいかもしれません。ただ……破けているんでしょうかね……所々に破損箇所が……いや、よく見えません」
暗闇の奥の景色の観察を諦めた永山哲也は、顔の向きを少し右に戻した。
「それから、さっき言った『別の壁』の中央から奥の方で、壁の後ろ側に一本だけ、塔が立っています」
彼は、上の地上に向かって
「かなり太い塔ですね。ええと、野球場で言えば、照明灯の柱……いや、あれよりも太いかな。高さは同じくらいだと思います。その頂上部分には、時計が設置されています。アナログ式の時計で、けっこうレトロな感じの物です。巨大な文字盤の上で細かな装飾を施された鉄製の太い二つの針が、無機質を誇るように時を刻んでいる、そんな感じです」
永山の気取った表現を、老紳士が鼻で笑った。
永山哲也はそちらに顔を向ける。
「ええ、私の左側には……あ、ちょっと待ってください……」
永山哲也は、正面に顔の向きを戻した。
「ああ、何かありますね。奥の方に何かあります」
彼は、薄闇に慣れてきた目を必死に凝らす。
「ええと……クッション材が貼られた壁の端、さっきの『別の壁』がぶつかっている端とは反対側の端の手前に、何やら台のような物が置かれています。ええ、そうですね……子供の頃に学校の校庭で見た鉄製の御立ち台。校長先生とかが上に立って話をする。あれみたいな感じの台です。でも、たぶん、大きさはもっと大きいですね。『矢倉』と言った方がいいかもしれません。こちら側の横の方に7、8段かな……とにかく、手すり付きの階段があって、それを登りきった向こう側は平らな台になっているだけです。どういう目的で置かれて……ん?」
永山哲也は顔を前に突き出した。
「――その『矢倉』の向こうの、クッション材の壁との間の床に、大きなバツ印が描かれていますね。色は黄色です。たぶん……。ここからは黄色に見えます。特殊な塗料か何かで書かれているのかもしれません。暗い中でも、結構はっきりと黄色く……」
ハッとした永山哲也は、顎を引き、自分の足下に視線を落とした。
「ああ、僕の足下にも黄色い線が引かれています。そこから奥へは立ち入るなと言われました。理由は分かりません」
彼は眉間に皺を寄せて、一度だけ首を傾げた。
顔を上げた永山哲也は、左を向いて、遠くに座っている紳士の顔を見た。紳士は目を瞑って頷いて見せる。永山哲也は、顔の向きを変えずにリポートを続けた。
「ええと、今、僕……わたくしが立っている所から少し離れた左の壁際に、カフェテーブルが置いてあります。そのカフェテーブルの横の椅子に取材対象者が座っています。上質の白い生地のスーツを着ていて、身形は整っています。その人物は10年前のあの実験で行方不明になったといいますか、帰って来られなくなったといいますか……、死んだはずの……は、まずいですよね」
永山哲也は、少し大きな声で紳士に尋ねた。
その紳士は斜めになっていた胸元の地味なネクタイを軽く直しながら、永山の方には視線を向けずに、静かに返答する。
「何でも構わんよ。いずれにせよ、存在しないはずの男だ」
彼は再びテーブルの上からカップを取って中身を一口すすると、それをテーブルの上のソーサーにゆっくりと戻した。その美しい絵柄のティーカップの横には、小さな砂時計が置かれていた。その砂時計は繊細な彫刻が施された木枠の中にガラスの器をはめている。透き通ったガラスの向こうで砂が静かに流れ落ち、時を刻んでいた。
永山哲也は左腕を少し持ち上げ、腕時計で時間を確認すると、その地下空間の奥の高い塔の時計盤をさり気なく見た。時計は、ずれてはいない。
永山が巻いている腕時計は、日本の国防軍の兵士たちが使っている腕時計と同じ物で、南米への出発前に、戦地へと取材に赴く永山に後輩記者が贈ってくれた物だ。新人の記者であるその後輩の給料で買うには少し無理のある値段だったはずだが、現地での環境を考慮して壊れない物を選んでくれたのだろう。実際、約3箇月に及ぶこちらでの過酷な取材環境でも壊れなかったし、時間も正確に知らせていた。その腕時計が示す時間と奥の塔の時計が示す時間は合っている。つまり、塔の時計は正確だった。紳士自身も腕時計をしている。あの輝きは純金製に違いなかった。ということは、高級ブランド物だろうし、壊れることも少ないはずである。だとすると、この地下空間におけるこの紳士の範疇には少なくとも二つの正確な時計が存在することになる。それなのに、カフェテーブルの上に小さな砂時計を置き、それでいったい何の時間を計っているのか、永山哲也には全く分からなかった。
彼が白いスーツの紳士の顔に視線を移すと、その紳士はこちらを冷たく無機質な感じの目でじっとにらんでいた。
永山哲也は視線を逸らし、軽く咳払いをしてから、再び録音機に向けて話し始める。
「では……。ええ、あの『存在しないはずの男』、自分が彼であると名乗る男性が、今、わたくしの視線の先に立っています。――いえ、座っています。椅子に。――とにかく、信じられないかもしれませんが、しかし、どうも本当に、あの博士のようなのです。本人はそう言っています。ここに来る途中で、ゲリラ軍にビデオメモリーやビュー・キャッチなどの動画記録機器を奪われて……いいえ、提出していますので、動画や画像で記録することができないのが残念ですが、確かに彼に似ています。わたくしが、この三ヶ月間の取材の中で幾度となく目にし、そして頭に焼き付けてきた彼の写真の顔、それからすると、確かに随分と老けて……」
永山哲也は、その紳士の顔を覗き込んだ。と言っても、2人の間には距離があるので、まだ39歳の永山にも彼の顔が明瞭にならなかった。永山哲也は足下の黄色い線を踏み越えないように注意しながら、顔を前に出したり、少し中腰になったりして、その紳士の顔を確かめる。永山が事前に入手していた男の顔写真は10年前の物だった。今そこに居るその男を名乗る白髪の紳士は、写真の男と似ていて面影もあるが、十歳の年齢を加えているとしても、老け過ぎているように思われた。得ていた情報から算出される男の現在の年齢は永山の先輩記者の年齢より少し上である。だが、今、永山の視界に映るその紳士は、その先輩記者よりもさらに一回り以上も歳上の、定年退職前である大先輩の記者と同世代に見えた。
カフェテーブルの横の紳士は、まだ若い記者がこちらに向けて必死に眼を凝らしては何度も首を傾げている様を見て、少しだけ笑みを浮かべた。
彼の表情の変化に気付いた永山哲也は膝を叩く。
「ああ、そうだ。あなたの年代の方なら、お若い頃に防災隊の『強制徴員制度』をご経験になっておられるのでは?」
「ああ、2年間、九州北部管轄部隊で空挺救助部隊に所属した。それがどうかしたかね」
「そうですか。よかった。――いや、父から聞いたことがあるのですが、あの時代に防災隊員だった方は、皆、個人識別用のバイオチップを体内に入れていますよね。埋め込み式の、旧式の、こんな小さいやつ」
永山哲也は自分の顔の前で左手の人差し指と親指の間に米粒ほどの隙間を作って見せた。その手を開き、そのまま顔の前で軽く一振りする。
「いやね、こんなこともあろうかと、イヴフォンにですね、旧式バイオチップの識別用アプリをネットから落としておいたんですよ。ええと、あれ、どこだ。さっき出したばかりなのに……。あれ? ――ああ、在った、在った」
永山哲也は、胸元のポケットの中やジーンズの前の左右のポケットの中を確認した後、手を後ろに回した。そして、ジーンズの後ろのポケットから、さっきの親指ほどの大きさの機械を取り出すと、それを紳士に見せて言う。
「これです。イヴフォン(EV‐phone)。エレクトリック・ビュー・フォンの略なんですけど……ああ、そっか。さっき新型の携帯電話だって言いましたよね」
その紳士は怪訝な顔をしながらも、少し興味深そうな目で、その小さな機械を見つめていた。
永山哲也は続ける。
「そうですよね。こっちではまだ発売されていないですよね。ここの兵士さんたちに説明するのも苦労しましたよ。新型の小型手榴弾とか、何かの兵器じゃないかって、そりゃあもう大変で。ある兵士さんがネットで調べてくれて誤解が解けたんですけどね。あ、そうか。博士が飛ばれた第二実験の前の時代だと、エアーホンとかエアホとか言っていましたよね。でも、今はあれを使っている人は少ないんですよ。ウェアフォンが出てきましたから。この10年は、日本ではそっちが主流でしてね。僕も前はウェアフォンを使っていました。でも、これはエアホの進化形らしくて、要は、それの最新版なんですが、でも、エアホとかウェアフォンとは仕組みが随分と違うみたいなんですよね。ええっと、これ、どうするんだ。んん……。すみません。実はこちらに来る前に買い替えたばかりで。いろいろ忙しくて、まだ音声の登録をしていないんですよ。本来なら発声するだけで操作できるんですけどね。だから今回は、とりあえず手動で……アレッ……?」
永山哲也は、右手に持った薄い録音機を落さないように注意しながら、その右手の人差し指と左手の親指で、左手に持った小さな最新式の機械の小さなボタンをあれこれと押し始めた。顔をしかめ、困惑と苛立ちを漂わせながら必死にイヴフォンを操作する。
白髪の紳士は呆れ顔で永山の様子を観察していた。
永山哲也は眉間に皺を寄せ、目を細めてイヴフォンを操作しながら言った。
「こういうのって、確か、2010年代には、えーと、スマホ? スマートホン? でしたっけ。僕は子供だったので持っていませんでしたけど、あれと似たようなものですよ。進化版ですよね。何でもできる携帯型通信端末のハイエンドってヤツです。これまでとは全く違う新しい技術を採用しているそうで、どんな世代の人間でも使い易いと言うのが売りで、CMでも……、あれ、畜生、それにしては使いにくいな……」
立ったまま更に背中を丸めた永山哲也は、しかめ面でイヴフォンを操作していたが、暫らく続けてもいっこうに進展しないようだった。
見かねた白髪の紳士は、革手袋をした右手を上げて言った。
「どれ、貸してみなさい」
永山哲也は顔を上げ、一歩前に出る。すると、紳士は黒い右手を広げて突き出した。
「いや、待ちたまえ。私がそちらに行こう。君はその黄色い線を越えるべきではない」
紳士は、白いスーツの前釦が掛かっていることを左手で確認すると、組んだ足の上に置かれた「それ」を右肩に担ぎ直しながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、カフェテーブルの上から砂時計を取り、永山の方に歩いてくる。
彼は黄色い線の前で立ち止まった。
目の前に立った紳士は意外と小柄だった。驚きを隠しながら、永山哲也はイヴフォンを差し出す。紳士は肩に担いだ「それ」を革の手袋をした右手でしっかりと支えながら、砂時計を持ったままの左手でイヴフォンを受け取った。
半歩だけ後ろに下がった紳士は、イヴフォンを天井からの薄い光に照らして観察し始めた。
永山哲也はその紳士を観察する。彼の左手の指は太く、短く、節くれ立っていた。深く断たれた爪の間に黒い油が染み込んでいる。傷も多い。薬指と小指に通しているのは、永山が思ったとおり、銀色の指輪だった。手首のブランド物の金時計と共に彼の技術屋らしい手には似合っていない。
永山哲也は改めて紳士の全体像を視界に入れた。姿勢がよく、英気に溢れた感じを受ける。しかし、どう見ても初老の男だった。後ろに流した白い髪は細く薄いし、顔には小皺が目立つ。やはり、10年前の写真と比べても随分と歳をとり過ぎている印象を受けた。永山哲也は、その紳士がこの10年間に想像を絶する苦労を経験したのだろうと考え、とりあえずそう結論付けた。
イヴフォンの表面の少ないボタンや小さなパネルを確認した紳士は、「それ」を支える黒い右手の余った指で、戸惑うことも無く、その最新式の機械を操作し始めた。
小さな液晶画面を覗き込みながら、彼は言う。
「なるほど。生体ニューロン併用型のBACか。最新のハイブリッドICチップも搭載されているようだ。ご立派、ご立派。ええっと、んん、ノイズが走るな。電波の質が悪い。識別用のアプリだったな。あったぞ。ほら、これでいいのかな」
「ああ……ありがとうございます」
永山哲也は怪訝な顔をして、紳士が差し出したイヴフォンを受け取った。そして、その小さな液晶パネルを軽く確認し、顔を上げる。確かに識別用のアプリケーションが起動されていた。彼は、その老紳士が最新式の機械を、説明書を見ることも無く鮮やかに操作してみせたことに驚いた。だが、それを悟れられまいと、あえて落ち着いて見せる。
紳士は、そんな永山の態度を気にすることも無い様子で、「それ」の部位を握り締めた右手の指先で器用にスーツの左袖をたくし上げた。その下のシャツのカフスを外すと、袖をまくり、中の左腕を永山の前に突き出す。
「ずいぶん昔のことだから……確か、こちらの腕だったと思うが。どうかね」
「はい。では、失礼します」
永山哲也は彼の左腕を取り、肘にイヴフォンを近づけた。それと同時に、紳士の左腕に全神経を集中させ素早く観察する。高そうな指輪や高級腕時計、捲り上げられたシャツの袖にぶら下がるダイヤのカフス。彼が観察したのはそのような物ではなかった。その紳士の左腕そのものだった。火傷や切り傷の痕をいくつも残しているその腕は、筋肉質で皮膚の張りもよい。まるで、若いスポーツ選手の腕のようだった。
永山哲也は少し低い体温の紳士の左腕からイヴフォンを離すと、それを胸元に運び、一瞬だけ宙を見てからしっかりと頷いた。
紳士はシャツの袖を戻しながら、逆に怪訝そうな顔で永山を見つめる。
永山哲也はイヴフォンをジーンズの後ろのポケットに戻しながら言った。
「どうも有難うございます。インタビュー対象者の個人の確認と裏取りは記者の仕事の基本だって、先輩に叩き込まれまして」
永山哲也は片笑んで見せた。そして、すぐに真剣な顔に戻す。彼は真っ直ぐに紳士の目を見据え、静かに言った。
「全てを話して頂けますか。田爪健三博士」
紳士は即答せず、永山の目を見て暫らく思考していた。
永山哲也は答えを待った。その時の永山の眼は澄んでいた。その源泉は記者としての好奇心ではない。その瞳の奥には彼を突き動かす強い使命感があった。
永山が知るかぎり、田爪健三という男は目の前の人間の誠意や情熱に心を動かされるほど拙速な男ではないはずである。彼は容易く他人を、外界の対象を信用しないはずだ。常に冷静で、沈着で、慎重な人間。それが永山の予想だった。彼は科学者だ。今もそうだろう。だとすれば、何事も客観的に分析し、法則に従い、現実の結果を直視するはずだし、いかに目の前の記者に優れた人格を感じようとも、その眼の誠実さに感激しようとも、また、その男が苦労してここに辿り着いたということを知ったとしても、そのようなことで行動の法則を変えるはずはない。明確な目的と理由を持ち、その実現のために必要な分析をし、その仕組みを解明し、理解し、そこから考え得る全ての可能性を検討し、確かめ、整理し、唯一無二の事実のみを真実と決め、その道の上の踏み石を一つずつ踏み飛ばすことなく丁寧に乗り継ぎながら前に進むはずだ。だから、今もこうして彼は考えている。田爪健三は、海を越え、戦場を潜り抜け、命懸けでここまでやってきた記者の誠心誠意の申し出にも、その方法を当てはめて判断するだろう。そして、彼の判断は混乱しないはずである。シンプルに思考し、計算し、論理を組み立て、その結果として辿り着いた結論を素直に認めて、それに従うはずだ。永山が知るかぎり、そのはずだった。永山哲也は黙って田爪の目を見続ける。
やがて、その紳士は静かに口を開いた。
「うむ。よかろう。君や、この録音を聞く人々が、これから始まる私の話をどこまで理解できるかは分からんが……。話そう。全ての真実を」
それを聞いた永山哲也は、少しだけ安堵すると同時に、強い緊張に顔を強ばらせた。
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