第4話

                 5


 今、永山哲也の目の前には「存在しないはずの男」田爪健三博士が確として現存している。彼は一見して年老いてはいるが、どうも肉体は若々しく壮健らしい。視線は冷たくも強く、鋭い。それらは永山哲也の予想に大きく反していた。


 本当は彼が、探していた「ドクターT」なのかもしれない。永山哲也は根拠無く、一瞬、そう思った。彼は、田爪健三の人形のような無感情な瞳をにらみながら、日本を発つ前の同僚たちとの遣り取りを思い起こす。


 あの時、永山哲也は狭い次長室の中で、座りにくい形のソファーに腰を下ろし、先輩記者や、合同取材を進めることになった週刊誌社の記者たちと膝を突き合わせていた。


「ええ。まだ、はっきりとはしませんが。ただ、その人物が『ドクターT』である可能性は、否定できません」


 そう言った永山に、小柄な中年の男が言った。


「南米から送ったってか。だとしたら、メールだな」


 続いて、長身の中年男がソファーの座り心地の悪さに顔をしかめながら発言した。


「俺の方で、司時空庁しじくうちょうビルへの宅配を担当している奴に、『ドクターT』とか、無記名の差出人からの宅配物を運んだことはないか訊いてみた。答えはノーだ。だが、他人名義で送っている可能性もあるから……」


 その途中から、胡麻塩頭の初老の男が口を挿んだ。


「いや、それがね、私の方で妙な話を聞いたんだよ」


「妙な話?」


 永山哲也はその定年前のベテラン記者の方を向いて、思わず聞き返した。


 年季の入った顔を永山に向けた初老の記者は、淡々と話した。


「郵便集配人に知っている奴が居てね、そいつに、ちょっと調べてもらったんだ。そしたら、司時空庁ビルがある有多ありた町を管轄する郵便局に、いつも、『T』とだけ差出人の記載がされた封筒が回ってきていたらしいと言うんだよ。毎回違う、新首都内のあちこちのポストから回収されて、そこの郵便局の配達部門に回ってきていたらしい。毎回、郵便切手もちゃんと貼ってあったそうで、そのまま司時空庁しじくうちょうビルに届けていたそうだ。中身はたぶん、信書と何らかの記録媒体じゃないかって」


 記者たちはその後、その謎の郵便物の中身について検討を重ねた。しかし、どの意見も推測の域を出なかった。すると、週刊誌社の中年の女がさっきのベテラン記者に疑問を投げ掛けた。


「――『いつも』とか『毎回』って、どういうことよ。何回も届いているってこと?」


 初老の男は胡麻塩頭を撫でながら、眉を寄せて答えた。


「そうらしい。その集配人が聞いた話だと、司時空庁ビルへの配達を担当している集配人は、ここ3年近くの間、差出人が『T』となっている封筒の配達を続けたそうなんだ」


「3年近くだって?」


 小柄な中年男は驚いた顔をその初老の先輩記者に向けた。


 長身の中年男は、中堅の女性記者に指示を出して、すぐに取材方針を変更すると、深刻な顔をこちらに向けて言った。


「その配達の最初の時期と、合計で何回配達されたのか、正確に調べる必要があるな」


 その長身の男は永山の直属の上司である。永山が見習うところの多い先輩記者だ。他の先輩記者たちもそうだった。皆いい模範である。その中の最年長の記者が言った。


「その3年近くも続いた差出人不明の郵便の配達が、先月は無かったそうなんだ。だが、その代わり、総理官邸に郵便物を届ける担当者の方で先月と今月、差出人欄に『T』とだけ記載された郵便物を官邸に届けたと言うんだよ。だから集配人同士でも話題になっていたそうなんだ」


「総理官邸に……」


 そう言った中年の女は、小柄な中年男と顔を見合わせた。元政治記者である2人は、状況の異常さを察知したようだった。永山哲也も首を傾げ、他の記者たちもそれぞれに怪訝な顔をした。


 他の先輩記者たちと合わせるように深刻そうな顔をして見せていた週刊誌社の新人の女性記者が、ふと顔を上げて、ベテランの先輩記者に尋ねた。


「その二通も、投函されたのは都内からなんですか」


「ああ、都内各所のポストであることは確かだそうだ」


 その答えを聞いた新人記者は永山の顔を見た。その視線を追って、他の記者たちも永山に顔を向けた。その時、永山哲也は考えを整理していた。疑問が多過ぎたからだ。


 その時点で永山たちは、「ドクターT」を名乗る何者かが作成した科学論文を既に入手していた。それは国の機関から第三者に送られたものをあるルートで入手したものだったが、元来誰がいつ如何なる目的で、どのようにしてその機関に提出したものなのか、また、その論文の作成意図は何なのかさえも不明だった。ただ、その論文は高度の科学知識を必要とする内容で、人命にも社会にも大きな影響を与える内容だと思われた。それで記者たちは論文の作成者として記されている「ドクターT」の正体を探るべく取材を開始したのだった。しかし、それは出鼻から大きく翻弄された。


 思い回らせていた永山哲也に長身の中年男が言った。


「どうした、永山。おまえの考えを言ってみろ」


 永山哲也は信頼するその先輩記者の顔を見て頷くと、浮かんだ疑問を忌憚無く述べた。


「ええ。まず、どうして『T』なのか。普通、『X』とか、もっと別の名前にするとかではないでしょうか。どうして差出人はアルファベットの中から『T』を選んだのか」


 小柄な中年男が知った顔で答えた。


「おそらく、受け取った人間に差出人の名前を連想させるためだろうな」


 中年の女が、勝手な発言をしたその小柄な男をたしなめめたが、永山哲也としては彼の意見と同じだった。


 永山哲也はその小柄な中年男を擁護した後、彼の意見に補足した。


「――最終的な受取人となる津田長官が知っている名前。タイムトラベルに関係する主な人間でイニシャルがTである者は……」


 長身の中年男が、関係する当事者の名前を挙げていった。


赤崎あかざき教授はA、殿所とのところ教授がTか。高橋たかはし博士と田爪たづめ博士もTだな」


時吉総一郎ときよしそういちろうもTですよ」


 中堅の女性記者が付け足すと、小柄な中年男が平らな顔から口を突き出して言った。


司時空庁しじくうちょう長官の津田つだ幹雄みきおもTじゃないか」


 司時空庁はタイムトラベル事業を管轄する日本の官庁である。日本政府は既にタイムマシンの製造に成功し、国家事業としてタイムトラベルを独占的に実施している。と言っても、その利用者は一握りの超富裕層に限られているので、永山のような庶民には関係の無い話だ。唯一接点があるとすれば、月に一度だけ定期的に実施されるタイムマシンの発射のために一時的に消費電力に制限が掛けられ、街が厳戒態勢になることだが、それも数分間だけだから、さして日常生活に支障はない。それで、永山哲也もこの「ドクターT」にまつわる案件の取材に取り掛かるまでは、タイムトラベルには関心が無かった。ただ、国民的な常識として、今から10年前に2人の天才科学者によってタイムマシンが発明され、過去の世界へのタイムトラベルが可能となったことは知っていた。その1人が、今、永山の目の前に立っている田爪健三たづめけんぞう博士であり、もう1人が高橋諒一たかはしりょういち博士である。そして2人とも、自らが開発したタイムマシンの実用性を証明するための実験でテストパイロットとして機体に乗り込み、マシンと共に過去へと旅立って行った。そのはずであった。


 永山哲也は、その議論の際の中年の女の発言を思い出した。彼女は怪訝そうな顔で永山に言った。


「――それに、高橋博士と田爪博士が居なくなってから10年になるというのに、まだ1人もタイムマシンの製造に成功した科学者は居ないのよ。今、司時空庁で飛ばしているタイムマシンも、田爪博士が作ったものをコピーして作っているだけで、オリジナルの機体ではないでしょ……」


 「ドクターT」が作成した論文は全文が英文で、内容も高度であり、記者たちにも詳細を正確には理解できなかった。しかし、挿入されている図面等から、タイムマシンの構造に関するものであることは明らかだった。ところが、現時点でタイムトラベルの理論を完全に理解している学者はいない、そう思われている。だとすると、その理解をしていた2人の科学者が必ず関与している。居ないはずの、この世界の何処かで。そして丁度この頃、永山たちは南米の戦地からインターネット上に、タイムトラベルに成功した第三の科学者が居るとの書き込みがされている事実を掴んだ。日本のみが成功し、国外には極秘とされているタイムトラベル技術と、地球の反対側から発せられた新たな情報。二つの点は記者たちによって結ばれ、彼らをある強い疑念へと導いた。それは、過去の世界に飛び立ち、この世界からは消えたはずの2人の博士のいずれかが生きている、というものだった。


 永山哲也は焦点を絞った。


「――高橋博士は2027年の9月17日から1年前に飛んだのですよね。もし、田爪博士の説が正しく、『パラレル・ワールド』など存在しないのだとしたら、つまり、高橋博士の主張が間違っていたのなら、彼が姿を現さないのは当然かもしれません。論争をリードしていたのは、田爪博士より彼の方でしたから」


「全国民を巻き込む議論の一方の論説を立てておいて、それが間違っていたから、今更、人前には出られないってことかあ」


 そう呟いた中年の女の隣から、小柄な中年男が言った。


「それで南米に身を隠したか。高橋博士は2027年から2026年に飛んだわけだ。その頃は、まだ協働部隊が南米連邦政府のゲリラ掃討作戦に協力する前で、戦争が本格化するちょっと前だからな。行こうと思えば行けるし、戦争が始まれば、その混乱で身を隠すには持って来いの場所だな」


 議論は、「ドクターT」の正体は高橋博士である可能性が高い、という結論に傾いた。


 長身の中年記者が指示を発した。


「よし。永山、おまえは、その南米の『謎の科学者』の正体を探れ」


 そのまま、その先輩記者は他の記者たちに次々と指示を発していったが、永山哲也は脳裏に漂う雲霧を払いきれずにいた。「ドクターT」が高橋博士であるという推理は永山が提示したものだったし、実際、各種の事情や情報からも、そう分析された。しかし、彼の中で何かがしっくり行かなかった。推理を提示した彼自身がそう感じていたのだから、他の先輩記者たちも同じように感じていたのかもしれない。


 議論が終わると、永山哲也は眉間に皺を寄せて次長室から退室し、自分の席に着いた。頭の後ろで手を組んで背もたれに身を倒し、気が揉める理由を考えていると、すぐ後ろの次長室の出入り口から新人の女性記者が出てきた。彼女はドアの横に立ったまま、続いて出てくる先輩記者たちに軽く頭を下げた。そして、最後に長身の中年記者が出て来ると、彼に声を掛けた。


「あの……」


 長身の中年男は、その小柄な新人記者が視界に入らなかったのか、彼女の横でこちらを向いたまま大きな声で言った。


「夕刊の原稿を上げ終わったこれからしか、動く時間がないぞ。みんな急いで取り掛かってくれ」


 そして、永山の横の自分の席に歩いてきた。呼び掛けを無視された新人記者は残念そうな顔で下を向くと、永山の後ろを通って上役の中年の女を追いかけていった。その時、彼女が小さく一言呟いたのを永山哲也は聞き漏らさなかった。


「――まあ、いいか……」


 やはり、彼女も何かに引っ掛かっているようだった。


 彼女は新人記者であると言っても、それは週刊誌の記者として新人ということで、全くの素人ではない。大学進学前に4年間、永山たちのアシスタント職員として、この新聞社で働いていた経験がある。そして、永山が抱く彼女の印象は、運もよく、直感的な推測に優れているというものだった。要は、勘がいい。その彼女もこの案件に何か言いようの無い不安を感じていたに違いなかった。もしそうであるならば、彼女の不安は的中していたと言える。しかも、今、この瞬間も的中している。永山哲也はそう実感していた。


 彼は今、南米の戦地の地下にある閉鎖空間の中で、危険と恐怖の根源を目の前にしながら、「存在しないはずの男」にインタビューをしていた。




                 6


 目の前には直径百メートルほどの円形の床と高い壁に囲まれた広大な空間が広がっている。永山哲也は右に顔を向けた。彼の視線の先では錆びた鉄柵の左端で田爪健三が、計測器が並べられたテーブルに左肘をつき、折りたたみ式のパイプ椅子に座っている。こちら向きに座っている彼は「それ」を膝の上に乗せ、さっき外した左手のシャツの袖のカフスを留めていた。


 田爪健三は視線をカフスに向けたまま、永山に尋ねる。


「ところで、君はどこまで此の件について知っているのかね。いつの時点から、いつの時点まで」


 永山哲也は頭を掻きながら惚けた調子で答えた。


「はあ。――赤崎あかざき殿所とのところ理論。時吉ときよし提案。AT理論の実証に関する大体の流れは掴んでいます。そして……」


 田爪健三がカフスを留めるのに気を払っていたので、永山哲也はそのまま続けた。


「そして、『第一実験』と『第二実験』。高橋博士と、あなた」


 カフスを留める田爪の手が一瞬止まった。再び手を動かしカフスを留め終えた田爪健三は、スーツの袖を下ろして、永山に顔を向ける。


「なるほど。よかろう。その話は避けては通れない。それにしても、AT理論か。随分と懐かしい響きだ。古き良き時代を思い出す。いや、未だに私は、その時代にいるのかもしれん」


 永山哲也は少しだけ顔を曇らせたが、表情を戻して穏やかに質問を始めた。


「資料によると、博士は赤崎教授のお弟子さんで……AT理論は赤崎教授と殿所教授が共同発表された理論ですが、実際に理論展開の中心的役割を果たしたのは、どちらの先生なのです?」


 田爪健三は眉間に縦皺を刻んで頷くと、話し始めた。


「うん。まず言っておこう。私はどちらの先生の弟子という訳でもない。ただ、事実として、赤崎先生の肩越しに時間科学の世界を覗かせてもらったことは間違いない。それから、あのAT理論は赤崎先生と殿所先生の両女史が協働して作り上げたものだ。どちらの先生が主で、どちらの先生が従というものではない。あのお2人だからこそ互いに協力して完成させることができた理論なのだよ」


 遠くを見つめながら語っていた田爪健三は、ふと何かに気付いたように永山に視線を戻した。彼は膝の上の「それ」の先端で永山を指し、今度は少し顔をほころばせて言う。


「しかし、君は鋭い。惚けてはいるが、実はそうではない。明後日の方にボールを投げるふりをして、バッターの死角に球を放り込んでくる」


 永山哲也は眉間に皺を寄せかけたが、それを止め、片眉を上げて、それ以上の表情を示さなかった。


 田爪健三は永山の目を見て片笑む。


「さっきの携帯端末もそうだ。イヴフォンとか言ったかな。君は、わざと使えないふりをしたな。見たところ、あれは量子通信方式を採用している。私が本物の田爪健三だと確信を持つために、AT理論を逆応用した最新式の小型コンピュータ内蔵機種をわざわざ購入し、ここへ持って来たな。そして、私にそれを扱わせ、私がそこに気付くかどうかを試した。分かっているぞ。うん、分かっている」


 田爪健三は厳しい顔でゆっくり何度も頷いた。彼は続ける。


「君は、世界最高レベルの科学論文とそれに纏わる資料を読み込み、理解し、頭の中で整理できる。だからこそ、君は『大体の流れ』を掴んだと言った。そして、自ら考え、ある疑問を持った。疑いを抱いた。そしてボールを投げた。遠くから内角ギリギリに迫ってくるボールをね。だが、それは決してストライクゾーンを外れない。君は核心を衝いているぞ。それでいい。実に鋭い」


 今度は笑みを浮かべて頷いた彼は、椅子の背もたれに少し身を倒して言った。


「さて、ところでだ。これだけの複雑な流れを掴める、そんな男が、そのオモチャのような携帯端末の使い方が分からないだと?」


 田爪健三は、テーブルの端に左肘をついたまま、その左手で永山を強く指差す。


「そうだ。君はそういう男だ。そういう男の目をしている。そして、そういう男だからこそ、この戦闘地域でゲリラ兵たちに殺されることもなく、この施設まで辿り着けたのだ」


 田爪健三は、そのままその左手を広げた。


「ほら。このように、結果として、私は今、君がちょっとだけ頑張れば君の手が届く物理的範囲内に腰を下ろしている。これも君の計算の内だ。私をここまで歩かせ、自然と私がここに座るよう仕向けた。違うかね」


 田爪健三は、カフェテーブルから、いま自分が歩いてきた動線の上を、右手で支えている「それ」の先でなぞりながら、そう言った。片笑んではいるが、彼は獲物を狙う鷹のような瞳で永山を見据えている。


 永山哲也は田爪の洞察力と推理力の高さにも驚いた。彼の指摘は、評価は別として、ほとんど当たっていたからである。たしかに永山哲也は、遠過ぎる位置にあるカフェテーブルの横から自分にできるだけ近い位置に田爪を移動させようと、一計を案じたつもりだった。そして、まんまと田爪を自分の近くまで上手く移動させたと思っていた。しかし、永山の前に座っているこの天才はそのような彼の陳腐な策略を瞬時に見破っていた。しかも、契機は別としても、動機と客観的事情を言い当てている。


 田爪健三は永山の表情を観察しながら言った。


「ふむ。恐れているな。私を恐れている。まあ、無理もあるまい。君はようやくこの施設に辿り着いたばかりだ。だから、この広大な地下施設がいったい何のための物なのか、見当もつくまい。地下のバスケットコートにしては少し広過ぎるし、天井も高過ぎる。何よりボールを放るネットが無い。サッカーコートか? いや違う。そもそも、ここの人々は今、バスケやサッカーどころではない。戦争の真っ最中だ。ではこの施設は何だ。分厚いコンクリートの壁に、出入り口は君が入ってきたその狭いドアが一つだけ。照明は立派だが、豪華ではないし、非常灯とも違う。食料も毛布も無い。ということは非難シェルターではない。第一、今ここに居るのは君と私だけだ」


 田爪健三は少し間を空けると、左耳の横に左手をかざして、音を集める仕草をして見せた。そして、視線だけを永山に向けて言う。


「聞きたまえ。上では、地上では、こうして発射音、爆音、悲鳴が規則正しく鳴り響いているというのに、誰もここには逃げてきてはいない。これは重要な事実だ。ここには誰も居ない。君と私の他は」


 田爪健三は左手の人差し指を立てて目を瞑り、肘を上げた。そのまま、上から微かに聞こえてくる音の間隔に合わせて、楽団に指揮をするように優雅に手を振って見せる。


「発射音、爆音、悲鳴。――発射音、爆音、悲鳴。――発射音、爆音、悲鳴」


 目を開いた田爪健三は頬を上げた。


「ほら、規則正しいだろう。これは通風シャフトから響いてくるのだよ。あの天井の通風口から伸びているシャフトを伝って響く地上のリズムだ」


 田爪健三は、今度は天井の中心付近を指差した。


 永山哲也はそちらに顔を向ける。


 田爪健三は、永山が天井を観察する時間が一瞬だけ長いことに気付いたのか、永山の顔を見ながら何度も左手の人差し指を彼の方に振り、ニヤリとしてこう続けた。


「ほほう。いいぞ。いい。反応したな。気づいたな。それで良い。実に良い反応だ。さすがは記者だ。君はその狭い入り口のドアの前まで、ゲリラの兵士たちに目隠しをされて連行されたはずだ。つまり、君は実際のところ、ここがどの程度の深さに位置しているのかを知らない。乗ってきたエレベーターの動いていた時間で予想するか。やめておけ。時間ほど当てにならんものはない。時間など動く壁に過ぎん。ただ流れているだけ。そして、人の前に立ちはだかるだけだ。時間など。時間など……」


 田爪健三は何かを思い出すように静かに目を閉じた。すぐに目を開けた彼は再びその冷たく鋭い瞳を永山に向け、続けた。


「まあいい。だか、君はこの空間が地下にあることは最初に気づいた。戦闘の音が上から聞こえてくるからな。逃げる協働部隊の兵士の足音と悲鳴。追うゲリラ軍の兵士の足音と叫び声。ほら、また今も聞こえた。頭の上から。だから君は、ここが地下だと考えた。だから、レポートの冒頭からここが地下だと断定して述べた。私はそう言っていないのに」


 永山哲也は黙って田爪の顔を見据えていた。やはり、この男の洞察力は極めて優れている。そして、異常なほどに慎重だ。彼はそう感じていた。


 田爪健三は、左手の人差し指を振りながら話を続ける。


「問題は、どの程度の深さにあるのか、ということだ。そこで君は私の言葉に反応して上を見た。あの通風口をね。私は『シャフト』と言った。『あの天井の通風口から伸びているシャフト』とね。通風ダクトとも通風管とも言わず、『シャフト』と言った。科学者の私がね。だから君は反応して、上を見た。シャフトとは軸のこと、柱のこと、梁のこと。空調機能を兼ねる建築物の部分的構造体に対し自然にこの単語をあてる場合、ある程度の直径と長さを有するものがイメージされる。地表に近い場合なら、この単語を使わない。そうすると、この施設は全体構造が相当に巨大であり、その底に位置するであろうこの場所は、地表からかなりの深さの所にある可能性がある。――と君は考えた。違うかね」


 田爪健三は、永山の反応を伺った。


 永山哲也は、田爪の推理がまたも当たっていたので驚いてはいたが、それを顔には出さない。動揺もしなかった。彼の関心はもっと別にあった。重要なのは、田爪の自分に対する推理が当たっているかではなく、田爪の推理した通りに自分がしている推理が当たっているかであった。そして永山哲也は、できれば、その自分の推理が当たっていないことを願った。


 無表情を作っている永山を見ながら、田爪健三は一方的に続ける。


「うーむ。いい。実にいいぞ。当たっている。当たっているぞ、永山君……だったかな。うん。そうだ。永山君だ。そうだ。そうだ」


 田爪健三は少し下を向き、また満足そうに1人で頷いていた。


 永山哲也は僅かに眉を寄せる。


 田爪健三は顔を上げて、左手で再度永山を指差しながら言った。


「ともかく、君の予測は正しい。10年前は、ここはね、豪雨時の増水対策で造られた巨大貯水槽の底だったのだよ。あの天井の少し下の位置まで水が貯まっていた。あの天井は本来もっと上にあってね。青かった。柱は無しだ。そこを私が改築させて、地下300メートルの個室にしたのだ。蓋をして天井を作った。水を抜き、代わりにコンクリートを入れた。そして出来上がったのがこれだ。素晴らしいだろう。高速エレベーターも付けさせたぞ。ゲリラたちにね。彼らとは取引をしているのでね。まあ、この点は後ほど話すとして……、ああ君、永山君。その黄色い線から前に出ない方が良い。私の話を最後まで聞きたければね。それに、まだ死にたくはないだろう」


 田爪健三は膝の上に乗せていた「それ」を持ち上げ、構えると、その太い直径の発射口を永山に向けた。


 永山哲也は両手を上げて動きを止める。自然と息も止めていた。


 田爪健三は永山の目をにらみながら言った。


「それで、どこまでだったかな。――ああ、そうだ、そうだ。この地下施設の話だった」


 永山哲也は両手を上げたまま少しだけ後ろに下がった。そのまま、録音機を持った右手をゆっくりと再び田爪の方に向ける。


 田爪健三はパイプ椅子に座ったまま、永山に向けた大型の「それ」に付いている肩掛け用ベルトに右腕を通し、左手で「それ」の銃身をしっかりと支えていた。黒い革の手袋をした右手でグリップ部分を握り締め、その人差し指を引き金に添えている。その銃の先端は真っ直ぐに永山に向けられていた。


 田爪健三はそのまま語り続ける。


「ここの大まかな状況は判っただろう。要するにここは、ある目的のために作られているのだよ。その目的については、いずれ話そう。それにしても、これまでここへやってきた誰よりも君は鋭く、賢い。素晴らしい、実に素晴らしいよ、君。ああ、他の人間たちは、君とは違う入り口から入ってきたがね。まあ、ともかく、君の、永山君の洞察力と判断力には敬意を払おう。そして、私なりの敬意の示し方として、君に話をしてあげようではないか。君が、たった三ヶ月間の取材で、紙の上の資料と空虚な風説を基にして掴んだという、赤崎・殿所理論から時吉提案までの話を。教えてあげよう、AT理論の真相に係わる『大体の流れ』を」


 田爪健三はその不恰好で大きな銃らしき物の先端を永山に向けたまま、微かに笑みを浮かべた。


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