第2話

                 2


 文字盤の上で細い針が時を刻んでいる。


 腕時計から視線を上げた男は、遠くの暗闇を覗いた。汚れたアロハシャツを着た、長身で筋肉質なその男は、右手に握っている物に視線を戻すと、それの裏面を確認した。男は一度目を瞑り、薄い光を放つ表の面を顔に向けて持ち直してから、それを口元に近づけて声を放った。


「チェック。チェック。マイクチェック。マイクチェック。あーあーあー」


 その録音機は煙草箱ほどの大きさで薄い板状である。表面には一回り大きく平たいホログラフィー映像が浮かんでいた。そこには集音の感度や残りの録音容量、電池残量などの数値とアイコンが表示されている。それらに目を通し、数値が十分であることを確認した男は、シャツの襟を整え、日焼けした顔を上げた。


「それでは、始めてもよろしいでしょうか」


 男から離れた位置のコンクリート製の壁の横に、丸いカフェテーブルが置かれていた。その横の小さな椅子に、光沢のある白い生地で仕立てられたスーツを着た白髪の男が座っている。


 その初老の紳士は頷いた。


「構わんよ」


 アロハシャツの男は手許のICレコーダーのホログラフィー・パネルに触れて、録音を開始した。


 初老の紳士は黒い革の手袋をした右手でアロハシャツの男を指差す。


「ああ、君。ええと……。名前は何と言ったかな」


 短髪の頭を再び上げたアロハシャツの男は、その紳士の顔を真っ直ぐに見て答えた。


永山哲也ながやまてつやです。新日ネット新聞社の」


 頷いた白髪の紳士は永山の足下に視線を落とした。今度は彼の汚れたスニーカーの前方を指差しながら言う。


「永山君。もう少し前に来たまえ。そう。その黄色い線の所までなら、危険は無い」


 永山哲也は紳士が指差している床の方に顔を向けた。コンクリート製の床に黄色い線が引いてある。その線は、その広い円形の部屋の中心から随分と手前の位置で、円周上の壁の下から壁の下まで、永山の前を左右に真っ直ぐに横切っていた。永山哲也にはその線がどういう法則に則って引かれたものなのか分からなかったが、彼はとりあえず紳士の言葉に従って移動した。白いスーツの紳士はその黄色い線の向こう側の離れた位置に座っている。つまり、線の「内側」だ。彼が言うところに従えば、それは「危険がある」領域だった。


 怪訝な顔をしている永山を見て、その紳士は言った。


「私は大丈夫だ。慣れているからね。だが、君はそうではない。その線より外側に居なさい。万が一の事態が起こっても、その線の外側に居れば、あとは私の指示に従うだけでいい。そうすれば危険は無い。それに……」


 紳士は顔を上げ、横を向いた。彼が視線を向けた薄闇の奥には、壁際に高い塔が立っていた。その上には大きなアナログ時計が設置されている。


 再び永山に顔を向けた紳士は、ゆっくりと言った。


「時間は十分に在る」


 薄闇の中で、彼は満足そうな笑みを浮かべていた。




                 3


 窓の外では淡雪が舞っている。昼食時で賑っているはずの向かいのカフェテラスには誰も座っていない。細い道路の石畳の路面には、融け切らない雪が薄っすらと残っていた。その上を、ダッフルコートを着た若者が白い息を吐きながら肩を丸めて歩いている。


 ガラス窓から外の通行人を眺めながら椅子に座っている背広姿の中年男が言った。


「お帰りの際は、足下にお気をつけください。路面が凍っていて危険だ」


 その男はテーブルの向うに立つ細身のルダンゴットの背に目を向ける。


 立てられた襟に隠れた横顔は静かに答えた。


「もっと大きな危険に晒されている人々がいます。雪解けを待つ時間は在りません」


 背広の男は割れた顎を突き出して言った。


「我々は行政なのでね。根拠無くは動けませんよ。あとは、あなた次第です」


 それに対する返事は無かった。


 スラリとした腕にアタッシュケースを提げて歩いていくルダンゴットの背中を見送りながら、男は指先で眼鏡を少し持ち上げた。そして、その手をテーブルの上に伸ばす。彼は置かれていた書類を取り、内容を確認してから隣に座っているスーツ姿の女に手渡した。


 その女は受け取った書類をファイルに挿み、鞄に仕舞いながら言う。


「これで、ご自身で証明してもらうことになりましたわね」


 男はテーブルの上のコーヒーカップを口元に運びながら険しい顔で言った。


「だからと言って安心はできん。わざわざこんな二流のレストランに我々を呼び出し、周りに客がいる中で契約書を交わさせるとは、なかなか用心深い。ところが、我々の施設で実験を実施することは、すんなりと受け入れた。何か狙いがあるのかもしれんぞ」


 スーツ姿の女は、窓の外に顔を向けて言う。


「でも、この雪ですと、すぐには実施できませんわね」


 コーヒーの味に顔をしかめた男は、短く嘆息を漏らしてカップをテーブルに戻すと、椅子の背もたれに身を倒した。


「当たり前だ。機体も別に準備せねばならん。4月から飛ばす複数搭乗用の機体の製造で工場はフル稼働の状態だ。そこに予定外の機体の製造を発注せねばならんのだ。来月の発射日までに実験を実施することは不可能だよ。今回の契約をする上でも、それは解かっているはずだ」


 雪の中を凛とした姿勢で歩いて行くルダンゴットの背中を窓から見つめながら、スーツ姿の女は呟いた。


「余計なことを為さらなければいいのですけど……」


 割れた顎の男はチーフで眼鏡を拭きながら言った。


「監視はこのまま続けてくれ。この契約に反する行為をすれば、実験の実施は無しだ。その場合は当然、無駄な機体の製造にかかった費用を弁償させねばならないからな。逃げられると困る」


 スーツ姿の女は割れた顎の男に顔を向け、眉を寄せた。


「この研究を10年近くも続けたのですよね。その執念を軽く見られない方がよろしいですわよ。もしかしたら、長官を恨んでいるのかもしれませんわ。実験で自分の指摘が正しいことを証明して、それを世間に公表するつもりでは。長官の信用を失墜させるために」


 眼鏡を掛けた男は、腕を組んで眉間に皺を寄せた。


「あの論文の内容について、専門家である大物に意見を求めてみたが、返事が無い。やはり難解なのだろうが、何らの返事が無いというのは、もしかしたら、結論が間違えているからかもしれんな。返答するにも値しないということなのだろう。だとすると、あえて実験して確かめる必要があるとは思えんが、正式文書としてウチに届けられている以上、万が一の事態も視野に入れておく必要がある。ウチとしても十分な検証をしたという一応の形は残しておかないとな」


「ですが、あまり無駄な費用を計上されるのは、問題ではありませんの。長船おさふね財務大臣が良い顔をされないのでは……」


「大丈夫だ。あの男が私に楯突くはずがない。それに、どの説が正しかろうが、間違えていようが、実験を行ってこちらに損は無いのだ。問題ない」


「どうしてですの」


「同じ結果になるからさ」


 割れた顎の先を触りながら、男はニヤリと片笑んだ。そこへ、背広姿の中年の男が現われた。彼は座っている割れた顎の男に頭を垂れて言った。


「長官。お車の用意ができました」


 顎の割れた男は椅子から腰を上げながら言う。


「うむ。まったく、雪の中をこんな所まで呼び出しやがって。コーヒーも不味いし……」


 隣で一緒に立ち上がったスーツ姿の女は男のカップを覗き込んで言った。


「あら。ここはオーガニックで有名なレストランでしてよ。使っている豆も、きっと天然物のはずですのに」


「そんなことにはこだわらんよ。人工豆でも、いつも君が入れてくれるコーヒーの方が随分と美味い」


 男に指差され、女は笑みを浮かべた。


「あら、お上手ですわね」


 男は片笑んで返すと、大股で姿勢よく出口へと歩いていった。彼は後から速足でついてくる中年の男に言う。


「戻ったら機体の製造スケジュールを見直すぞ。大臣どもに予算を組み直させて、発射施設までの交通インフラも大幅に改善させねばならん。こんな重要な時期に、この件にいつまでも掛かっている暇は無いんだ。さっさと終わらせる。いいな」


「は。かしこまりました」


 そう答えながら先に回った中年の男は、ガラス製のドアを開けた。外では綿雪がゆっくりと落ちている。


 顎の割れた男は、大きく肩を上げて、降り続く雪の中を黒塗りの乗用車の方へと歩いていった。


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