インタビュー・ウィズ・T 横組みスマートver.

改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )

第1話

                 1


 大きな雫が落ちた。


 薄闇の中で打音が続いている。不規則なリズムのその音は鈍く、響かない。そして耳障りだった。その不快をなだめるように、古い時計が規則正しい間隔で音を鳴らす。だが、それにより却って打音の不規則さが明白になった。シンクの上では水道の蛇口が薄く光を返している。蛇口から染み出た水はそこに掴まったまま膨らむと、時には惰弱に呆気なく、時には粘り強く重力に耐えて限界を待ち、落下した。自然の法則に従って直下し、底のステンレスを打つ。中途半端な高さの鈍い音を鳴らして星散した水滴たちは僅かな空気の振動にも耐えられない程に弱く、小さく、美しい粒となって、シンクの内壁にしがみついた。それらが蒸発して消えてしまうまで、あと僅かである。残された時間を計るように、古い時計の秒針が厳酷に「時」を刻んでいく。


 粒は、ただ消えるのを待つしかなかった。


 店の中は日中にもかかわらず暗い。風に軋む入り口の引き戸が磨りガラスに格子の影を浮かべている。そこから微かに伝わる光を、内側に掛けられた濃紺の暖簾が更に半減させていた。引き戸の左右にある壁の窓はビールの宣伝用ポスターで塞がれている。天井から吊るされた丸いLED電灯も全て消されていた。


 店内を奥へと延びるカウンターの中程に小柄な人影がぼんやりと浮かんでいた。春物のジャケットを着た若い女がカウンター席に腰掛けている。その女の他には誰も居ない。壁際のテーブル席にも人は座っていなかった。彼女の周囲だけが薄い光で仄かに照らされている。カウンターの中のシンクの上に、水道の蛇口から水滴が落ちた。少し間を空けて、次の一滴がシンクを鳴らす。女はその不規則な音を聞きながら、ホログラフィー画像を見つめていた。画像の光が彼女の薄いメイクの顔を照らしている。最新の光学技術により空中に浮かべられた文書画像には、縦書きで小さな活字が並んでいた。その下の平たい機械の手前には、機械から投影されたキーボードの像が浮かんでいる。女はその上で両手の指を動かしていた。


 丸い電灯が暖色の光を放ち、室内が明るくなる。女は店の奥に顔を向けた。矢絣模様の縦長の暖簾の前で、痩せた中年の女が壁のスイッチに手を掛けたまま、サンダルに足を入れている。


「おまたせ」


 中年の女はそう言うと、こちらに歩いてきた。


 若い女は慌ててカウンターテーブルの上の機械に手を掛ける。それを見た中年の女は一瞬立ち止まって言った。


「あら、ホログラフィーを使っていたのね。見える?」


「あ、いえ。大丈夫です。もう切りますから」


 若い女は急いで機械を操作し、その上に浮かんでいた文書のホログラフィー画像と手前に投影されていたキーボードのホログラムを消した。そのまま、その薄い板状のパソコンを持ち上げ、足元の虹模様のトートバッグの中に仕舞う。


 中年の女はカウンターの中の狭い厨房を歩きながら顔の前で手を一振りした。


「つい癖でね。スイッチを押しちゃうのよ。客が居ない時はこまめに電気を消すようにしているから。ごめんなさいね」


 シンクの前に立った彼女は、縁に両手をつき、カウンター越しに若い女の顔を覗いた。


「記者さんだったわよね。どこの新聞社の方だったかしら。お名刺をいただける?」


「あ、はい。すみません」


 若い女は、また慌てて身を屈めた。足下の虹模様のトートバッグに両手を入れると、中をゴソゴソと漁り、名刺入れを探す。


 体を起こした若い女は、不器用そうな手付きで名刺入れの蓋を開けながら、椅子から腰を上げた。立ち上がっても、椅子に座していた時とさして頭の高さは変わらない。むしろ立ち上がった時の方が低かった。彼女は少し背伸びをしながら腰を折り、カウンターの向こうに精一杯に両腕を伸ばして名刺を差し出した。


「失礼しました。改めまして。私……」


 受け取った名刺を読みながら、中年の女は言う。


「へえ。新日風潮社……なんだ、週刊誌じゃない」


 女の眉間に皺が寄った。それを見た若い女は、軽く頭を下げた。


「すみません。でも、弊社は新日新聞社の子会社でして、けっして怪しい雑誌では……」


「ま、いいわ。話するって言ったんだし」


 中年の女は若い女の発言を途中で遮ると、彼女に座るよう手で促した。


「一緒にいた派手な男……で、いいのよね。あの人も、お仲間?」


「あ、はい。カメラマンです。撮影しないことが取材に応じていただく条件ということでしたので、彼には席を外してもらいました。今、お土産を買いに行ってます」


 高さのある丸い椅子に腰を戻しながら、若い女はそう答えた。


 カウンターの中の中年の女は話を聞きながら調理台の上に無造作に放り置かれた煙草の箱に手を伸ばす。慣れた手つきで箱から煙草を取り出すと、黙ってそれを口に咥えた。シンクに凭れて少し後ろを向いた彼女は、棚の上の壁に掛けられた古い時計に目を向けながら、咥えた煙草を上下に動かして言う。


「あ、そう。ここら辺のお土産なら『ふろしき饅頭』が名物なんだけど、この時間じゃ、もう売り切れているかもしれないわね」


「そうなんですか……。『ふろしき饅頭』……」


 若い女はコクコクと頷いて、聞き慣れない饅頭の名を何度か頭の中で繰り返した。自然と口も動き、小さく声が漏れる。


 シンクに片手をついて凭れたまま、少し顔をしかめてその様子を見ていた中年の女は、まだ火を点けていない煙草を口から外すと、それでカウンター越しに若い女を指した。


「で、大手新聞社系列の週刊誌の記者さんが、私に何を訊きに来たの?」


「あ、ええと……。その……」


 若い女は視線を逸らす。


 中年の女は再び煙草を咥え、背を向けた。棚から酒瓶とグラスを取り出すと、それらを若い女に見せて、ぶっきらぼうに尋ねる。


「飲む?」


「いえ。仕事中ですから。すみません。お気持ちだけで」


 若い女は、顔の前で手をパタパタと横に振った。それに頷くこともせずに、中年の女は黙って調理台の上にグラスを置く。彼女はグラスに酒を注ぎながら言った。


瑠香るかの件……だったわよね」


「あ、そうです。すみません」


 また頭を下げた若い女は、顔を上げると、すぐに言い足した。


「それから、田爪健三たづめけんぞう博士の件も。もし、何かご存知のことがあれば……」


 遠慮気味に言う若い女の顔を一瞥してから、中年の女はすぐに背を向けて棚に酒瓶を仕舞い始めた。彼女はそのまま何も答えなかった。黙ったまま振り返り、こちらを向いてシンクの下の引き出しを開ける。中を探して見つけたライターを手に取ると、視線をこちらに向けたまま煙草に火を点けた。細めた目から放たれる視線は鋭かった。最後の質問は余計だったのかもしれない。若い女は直感的にそう思った。無理を言って申し込み、せっかく取り付けた取材である。相手の機嫌を損ねてしまったら、本も子もない。――どうしよう……。そう思い巡らしながら、若い女も黙っていた。募る不安に、思わず眉が強く寄る。


 中年の女はじっとこちらを見ていた。咥えた煙草の先から細い煙を立てたまま、シンクの上にライターを静かに置く。一度視線をそこに落とした彼女は、ゆっくりとその目を上げた。そして、再びこちらをじっと見つめた。無音の中、咥えた煙草を深く吸い、その先端を赤く光らせる。眼差しは依然として鋭い。女は指で挟んだ煙草をシンクの中に移動させると、軽く灰を落とした。掛け時計の秒針の音が再び聞こえ始める。


 中年の女は口から吐いた煙に答えを乗せた。


「残念。瑠香が彼と出会ったのは、彼女が実験管理局に入った後だし、私は、そことは関係ない人間だったから、彼のことはあまり詳しくは知らないわ」


「そうなんですか……」


 若い女は寄せたままの眉を八字に垂らして、視線を落とした。小さく溜め息を吐き、肩も落とす。それを見た中年の女は、今度は視線を外して煙草を吸うと、煙を短く一吐きしてから言った。


「――まあ、そうは言っても、友人の旦那だからね。一応、面識はあるわよ。と言っても、2人の結婚式で一度だけ挨拶をした程度だけど」


 顔を横に向けた中年の女は、目を細め、再び煙草を口に運んだ。そのまま口を噤む。


 若い女はハッとしたように両肩を上げると、慌てて身を屈めた。足元のトートバッグの中を再び漁り、掌大の薄い「電子メモ帳」を取り出す。体を起こした彼女は急いでそれを開くと、専用のペンを握り、電子メモ帳の平らな表面にメモを書き込み始めた。それに応じてその少し上にホログラフィーで浮かんだ小さなメモ帳画像に文字が並べられていく。彼女はそのまま真剣な顔でメモを取っていたが、ふと顔を上げると、カウンターの向こうで横顔を見せて煙を吐いている女に言った。


「そういえば、堀之内さんは、大学時代に瑠香さんと親友でいらしたのですよね。大学院も同じ大学院で学ばれたと……」


 灰をシンクの中に落としながら、堀之内は目線を下げて答えた。


「ええ。大学院では専攻が違ったけれどね。私は生物工学で、彼女は理論物理学。――たしか、量子物理学の応用理論じゃなかったかしら」


「……」


 メモを取る若い女の手が一瞬だけ止まった。その様子を横目で見ながら、堀之内は続けた。


「でも、学術的に彼女と交流が無かった訳ではないわ。私がやっていたのはバイオ・インフォマティクスのハイエンドにおけるメトリスク認証技術の最適化。瑠香がやっていたのは、新型の量子効果素子のモデル作成よ。まあ、高純度の量子効果素子を、より簡単に作る方法ね。ナノ粒子を基盤に並べた後に効率よくタンパク質を除去する必要があるの。生物工学的技術を使用して。だから私もたまに手伝ったりしたわ」


 若い女は眉間に皺を寄せたまま、懸命に電子メモ帳の上でペンを走らせ続けた。


 一通りのメモを終えた彼女は、一度首を傾げてから、前を向いた。堀之内は目を細めてこちらを見たまま煙草を吸っている。その表情は厳しい。


 口から強く煙を吐いた堀之内は、傾けた顔を少し前に出すと、皮肉めいた口調で言い始めた。


「何? おかしい? 都会の大学院で最先端のサイエンスを研究していた人間が、こんな田舎町で、スナックだが小料理屋だか分からない小汚い店のカウンターに立っている。そりゃ不思議よねえ。あんたみたいな大手新聞社系列の雑誌社の記者さんにしてみれば」


 言い終えると、堀之内は煙草を指に挟んだ手でグラスを持ち上げた。


 若い女は困惑した顔で言う。


「いえ。そんなつもりは……」


 生のままで酒を一口飲んだ堀之内は、強めに音を立ててグラスを置いた。


 若い女は首をすくめて下を向く。堀之内は再び煙草を口に運んだ。若い女は下を向いたままだった。


 堀之内は自分が吐いた煙に目を細めながら、投げ捨てるように言った。


「いいわ。書きなさいよ。どうせタイトルは、『試験管からグラスに持ち替えた女。元理系研究者の真実』とかでしょ。いいんじゃない。売れるわよ、きっと」


 片笑みながら煙草の火で若い女を指した堀之内は、また横を向いて煙草を吸い始めた。


 若い女は再度頭を下げた。


「すみません。でも、本当にそんなことは……」


 堀之内は溜め息と共に煙を吐きながら煙草を灰皿に押し付けると、若い女に尋ねた。


「ねえ、あんた、新人さん?」


 若い女はコクリと頷いて答える。


「はい。ええと、まだ今年大学を出て入社したばかりです。すみません。あまり取材に慣れていなくて……」


 堀之内は若い女の顔を見たまま、持ち上げたグラスを口に近づけ、言った。


「へえ。じゃあ、今の会社の前はどこに勤めていたの?」


「……」


 また少し酒を飲んだ堀之内は、グラスを持った手で若い女を指差す。


「たしか、今の若い人たちって、一定期間社会人をやってからじゃないと大学に行けないのよね。私が大学院に進学した頃からだから……2020年からこっちの話よね。あら嫌だ、もう18年も経っているじゃない。ごめんなさいね。研究一筋で世間に疎かったものだから、あまり社会の賑わい事とか知らなくてね。朝から晩まで実験と勉強ばっかり。それで気が付いたら、この歳よ。ああ、馬鹿馬鹿しい」


 堀之内は再びグラスを傾け、今度は多めに酒をあおった。


 彼女がグラスを置くと、若い女は尋ねた。


「堀之内さんは、なぜ帰省されたのですか」


 堀之内は置いたグラスに手を添えたまま、カウンターの向こうの若い女の顔をにらむように見つめた。


 若い女は再び視線を逸らし、再び深く頭を下げた。


「すみません。取材内容とは関係ありませんでした」


 新しい煙草を口に咥えた堀之内は、その先端にライターの火を近づけながら言った。


「いろいろあるのよ。大人には」


 煙草を深く吸い、彼女はまた、溜め息に乗せて煙を吐いた。


 少しの沈黙の後、堀之内は若い女に向けて軽く顎を上げた。


「それで、あんたはどこの会社に学費を出してもらったのよ。たしか、最初に勤務した会社が奨学金か何かの形で学費を出してくれるのよね。大学卒業後に元の会社に戻ったら、無利子で分割弁済。他の企業に就職したら、前の会社に代弁済した国立奨学金機構に分割返済。少し割高で。そうよね? で、あんたはどっちなのよ。もしかして、今の会社に真面目に『出戻り』した口なの? それとも……」


 訳も無く他人のプライバシーを探りたがるのは、年配の人間の特性なのかもしれない。若い女性はそう思いながら、質問に答えた。


「いえ。以前は同じ新日新聞社系列のネット新聞社の社会部の方に。アシスタントとして4年ほど……」


 堀之内は目を丸くした。


「あら、やっぱりそうなのね。でも、同じ系列って言っても会社は別なんでしょ。じゃあ、あれだ。結局、世話になった会社とは別の会社に再就職したんだ。ふーん……今の若い子は、しっかりしているのねえ」


 堀之内は冷ややかな視線を投げた。若い女が何か言おうとして口を開きかけると、堀之内がそれを遮った。


「でも、新日系列ってことは、もしかして、あの新日ネット新聞社? いやだ、新日ネットって言ったら、電子新聞の中ではアクセス数ナンバーワンの最大手じゃない。そこの社会部にいたの?」


 若い女は小さく首を縦に振った。


 堀之内は少し顔を引くと、怪訝そうに言う。


「ふーん。そうなんだ。でも、大抵の若い子はそういう大手に勤めるために地元の中小企業に学費を出してもらって大学に行くんでしょ。で、大学を出たら恩を仇で返すっていうか、したり顔で古巣を蹴って給料の高い都会の大企業に再就職する。――要は自分のキャリア・アップのためね。あんた、元々いい所に勤めていたのに、どうしてわざわざ大学になんか行ったのよ。奨学金の負担もあるし、給料だって、学歴で待遇格差をつけることが法律で禁じられているんだから、そのまま勤めていてもよかったでしょうに。もったいない。もしかして、もっといい給料の社内部署でも狙ったわけ。法務部とか」


「いえ……その……別にそういうわけでは……」


 若い女は少し口を尖らせて首をすぼめた。上目使いで堀之内を見る。堀之内は刺すような視線の下に笑みを見せていた。蔑むような笑みだった。


 若い女は視線を下げた。いろいろと思い出してみる。そして小さな声で再び口を開いた。


「――確かに、お給料のことも少し考えましたけど、でも、もう少し勉強して、いろいろ知識を身につけないと、ちゃんとした記事とか書けないかなあと思って……。それで、大学で勉強したんですけど、でも、前の会社も経営とか、いろいろと事情があるみたいで、結局、再雇用はしてもらえなかったんです。まあ、その後いろいろとあって、何とか今の会社の方には拾ってもらえましたけど……」


 若い女は下を向いたまま、恥ずかしそうに答えた。


 堀之内は、今度は強く眉間に皺を寄せて尋ねる。


「はあ? ちゃんと戻ろうとしたのに、逆に追い出されたってこと? 何よそれ。酷い会社ねえ」


「はあ……」


 堀之内の剣幕に少し驚いたように、若い女は相槌とも溜息とも取れない返事をした。


 堀之内は煙草を短く吸ってから、再び険しい顔で言う。


「それにしても、拾ってもらったって何よ。捨て犬じゃあるまいし」


「いえ、そうじゃなくて、今の会社で、週刊誌ですけど、一応、記者として雇ってもらえたので、それで頑張ろうかと……」


「どうして、そんなに拘るのよ。今の会社だって、同じ新日系列でしょ。別にそんな薄情なグループ企業の同列子会社なんかに勤める必要はなかったわよ。他の新聞社に再就職してもよかったんじゃないの?」


「あ……その……えっと……」


 口籠っている若い女の顔を、堀之内はしかめた顔で見ながら首を傾げ、また煙草を口に運んだ。


 その向かいで、若い女はしきりに首を傾げていた。


「拘ったとか、そういうことじゃないんですけど、なんか、流れでそうなったというか、周りの方々が助けてくれたというか……。それに、別の新聞社でも再就職者の募集はしていませんでしたし……。今の会社は、人使いは荒いんですけど、だけど、ここしか選択肢がなかったというのも事実ですし、むしろ、選択させてもらったという感じなので、なんとか……」


 少し下を向いたまま口を尖らせて、はっきりとしない口調でそう言っていた彼女は、急に顔を上げた。


「あ、でも、記者にもなれましたし、今はよかったなと思っています。もともと、そのために大学に行って勉強したわけなので。ちゃんと勉強して、記者として自分の記事が書きたかったですし……」


 険しい顔で煙草を吸いながら聞いていた堀之内は、急に深く下を向いた。そして、間を空けてから、彼女は吹き出した。肩を揺らして暫らく笑った後、堀之内は呆れ顔で言った。


「ウソでしょ? それで、会社からお金を借りて、わざわざ大学に行って、一生懸命に勉強して、出戻ったら、自分の席が無かったってわけ。じゃあ、まさか……必死に頼み込んで、なんとか同じ系列子会社の雑誌社に入れてもらったってことなの? で、前の会社に学費を返すために齷齪あくせくと働いている。だからこんな地方の田舎町まで取材に出されても、文句を言えないんだ。あははは」


 堀之内は背中を丸めて笑った。


 若い女は下を向いて黙っている。堀之内はまだ腹を抱えて笑っていた。若い女には、なぜ堀之内がそんなに笑うのか分からなかった。


 体を起こし、シンクの中に煙草の灰を落とした堀之内は、両頬が上がるのを必死に抑えながら言った。


「ごめんなさいね。笑うつもりは無かったの。笑っちゃったけど。ただ、マヌケな子もいるもんだなあって思って。――つい、おかしくて……。ふふふ」


 堀之内は笑みを噛み殺しながら、細かく息を吐く。


 若い女は何と答えようも無く、また「はあ……」と言うだけだった。


 堀之内は若い女に視線だけを向ける。


「だから、さっさと縁を切ってしまえばよかったのよ、そんな無責任な会社。ていうか、記者って仕事とも。要領が悪いわねえ。他の子たちがやっているように、前の職場や大学で身につけたスキルを活かして違う業界の会社に再就職すれば、少しは高い給料で雇ってもらえたんじゃないの? 例えば、どっかの大手広告代理店とかさ。そしたら奨学金を返すのも楽だったでしょうに」


 堀之内は少し同情めいた目で若い女を見ながら、グラスを持ち上げた。


 若い女は下を向いたまま、小さな声でボソリと言った。


「この仕事が好きなんです」


 堀之内は顔の前で傾けたグラスを止めた。そのまま黙って若い女の目を見ている。


 若い女は堀之内と視線を合わせることなく、また小さな声で言った。


「なんか、世の中の役に立てるかなあって。私なりに。少しは……。それに、前にお世話になった会社の先輩方にも恩返しがしたいですし……。それは、やらないといけないことかなあって……」


 グラスを置いた堀之内は、横を向いて煙草を咥えたまま黙っていた。


 沈黙に気付いた若い女は、慌てて顔を上げ、謝罪する。


「すみません。なんか、生意気なことを言って……」


 そして視線を下げると、再び頭を下げた。恐る恐る目線を上げると、堀之内は険しい顔でまだ煙草を吸っている。若い女は申し訳ない表情を隠すように、もう一度深く頭を下げた。丸めたその肩に消沈が漂っている。気まずい空気が暫らく続いた。


 やがて、煙を一吐きした堀之内は、若い女に顔を向けると、口角を上げて言った。


「いいわ。気に入った」


 若い女は顔を上げた。少し驚いたような顔をしている。


 堀之内は、まだ長さを残している煙草を灰皿に押し付けると、真っ直ぐに若い女の方を向いて、彼女の目を見ながら言った。


「それじゃあ、真面目な記者さんの取材には、ちゃんと答えなきゃね。その代わり、世の中のためになる記事を書くのよ。いいわね」


「はい。頑張ります。有り難うございます!」


 若い女は笑顔で覇気のある返事をした。そして素早く深々と御辞儀する。今度のそれには活き活きとした気力が溢れていた。


 堀之内は静かに微笑む。


 顔を上げた若い女は、すぐに真顔に戻り、握ったペンの先を電子メモ帳に押し当てるようにして立てて構えた。彼女は少し興奮気味の調子で尋ねる。


「では、早速なのですが、まず、堀之内さんは学生時代に『ドクターT』という人物のことを聞かれたことは……」


「まあ、まあ、そう慌てなさんな。新人記者さん。はい、これでも飲んで」


 堀之内はシンクの隅のサーバーに手を伸ばし、そこから取ったコップを若い女の前に置いた。そのコップの中の黄金色の液体の上には白い泡が載っている。


 若い女は戸惑いながら言った。


「いえ。でも……」


 堀之内は、しかめた顔の前で何度も手を振る。


「大丈夫、大丈夫。ノンアルコールよ。ジュースみたいなものよ」


「はあ……」


 若い女は目の前のコップを見つめたまま、手を付けなかった。


 堀之内はそんな彼女を見ながら一度だけ小さく頷くと、今度は、わざと大袈裟に腕組みをして天井を見上げた。


「ふーん……『ドクターT』……さあね。聞いたこと無いわね。そんな変な名前」


「このアルファベットをよく使う方とか、イニシャルで思い浮かぶ学者さんとか」


「学者? うーん……論文もいろいろ読んだけど、こんな変なペンネームを使う学者なんて知らないわねえ。研究者仲間でも聞いたこと無いわ。そりゃあ、学会には『T』がイニシャルの学者は大勢いるわよ。だけど、『T』だけじゃ、絞りようがないわね」


 若い女は、少し前のめりになって取材を続けた。


「瑠香さんの夫の田爪健三博士もイニシャルは『T』ですよね。その線は考えられませんか?」


 堀之内は少し笑う。


「断定するには情報が少な過ぎるわね。それだけじゃ絞れないと言ったでしょ。それに、そもそも、その『ドクターT』って何者なの? 何か悪さでもしたのかしら」


「いいえ。ただ、ある所に何回も論文を送り続けていて、それが……」


「論文……。何回も……」


 顔つきを変えた堀之内を見て、若い女は少し慌てた様子で話題を変えた。


「あ、いえ、別に……何でもありません。――では、結婚式での2人の様子を聞かせて下さい。堀之内さんのお持ちになった印象で構いませんので」


 堀之内は少し驚いたような顔で若い女を見た後、シンクの上に両手をついて言った。


「瑠香と田爪博士の様子? いいわ。そうねえ……」


 彼女が記憶を辿っていると、店の奥の暖簾の向こうから、老いた女の声がした。


「美代。美代。ちょっと来てちょうだい」


「はあい。今行くわ」


 大きな声で返事をした堀之内美代は、少し顔を前に出すと、小声で若い女に言った。


「ごめんなさいね。母、足が悪いの。5年前に脳梗塞で倒れてから、ずっと……。ちょっと見てくるわね」


 再び老女の声がする。


「美代。ちょっと」


「はあい。今、行くから」


 もう一度大きな声で返事をした堀之内美代は、駆け出そうとして立ち止まり、若い女の方を向いた。


「あ、そうだ。ねえ、あんた、誰か好きな人がいるでしょ。職場に」


「え? いえ、別に……」


 若い女は、唐突な指摘に丸くした目を逸らした。


 堀之内美代はニヤリと笑って言う。


「ははーん。図星ね。好きなのは仕事だけではないと。だから元の職場に拘ったんだ」


「いえ、そんなことは……」


 若い女の発言を遮って、堀之内美代は尋ねた。


「その人のために頑張っている。違う?」


 若い女は下を向いて答える。


「別にそんなんじゃ……。ただ、この件で、命懸けで取材をしている先輩がいます。もの凄く危険な所で。だから、みんなその人のためにも頑張っています」


 堀之内美代は眉間に皺を寄せた。


「もの凄く危険な所? 何処よそれ。あんたの周りだって危険じゃない。もう少しで仕事を奪われて、無職で借金を背負わされるところだったのよ。十分に危険でしょ。命にも関わるわ。みんなそうよ。どこだって危険。安全な所なんて無いわよ」


「はあ……でも……」


 口籠っている若い女を、堀之内美代は狙うように指差した。


「分かった。その人ね。その人のために、あんたも精一杯に頑張っているってことね」


 若い女は顔の前で手をパタパタと横に振った。


「いえ、その……そういうことじゃ……」


 堀之内美代は顔の前で手を大きく一振りして言う。


「そういうことでいいのよ。それでいいの。あの子もそうだったから。あんた、よく似た目をしているわよ」


 暖簾の向こうから苛立った声が届く。


「ちょっと、美代。早くしてちょうだい。まだなの?」


「はあーい。分かったわよ。今行くから」


 堀之内美代は声を張って答えると、再び若い女の方に顔を向けた。


「――ごめんね、ちょっと行ってくるわ」


「はあ……あ、どうぞ。私のことはお気になさらず……」


 堀之内美代は暖簾の横の壁に手を掛けてサンダルを脱ぎながら、若い女に言った。


「その人、無事だといいわね」


 若い女は背筋を正し、少しむきになったように答える。


「無事です。無事に帰ってきます。絶対に」


 堀之内美代は動きを止めて、若い女を見た。若い女の目は真剣だった。


「そう……」


 心配そうな顔で若い女を見つめた堀之内美代は、小さく溜め息を漏らしてから暖簾を開き、自宅の中に入って行った。彼女はまた、いつもの癖で壁のスイッチを押し、店舗の灯を消した。


 再び薄暗い部屋の中に残された若い女は、スカートの上で手を握り締めながら、祈るように自分に言い聞かせた。


「絶対に帰ってくる。絶対に……」


 薄暗い部屋の中に、壁の古い時計の秒針が音を鳴らし続けていた。




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