第6話
永山哲也は一瞬だけ眉間を強く寄せた。目の前の田爪が自分に向けている物は、やはり銃なのだ。その外観からは簡単に受け入れられないが、今は田爪の言う通り銃として対処しよう。永山哲也はそう判断した。
田爪健三は永山の顔を見据えてニヤリと片笑んでから、その銃の先を下ろした。
永山哲也も両手を下ろす。
田爪健三は肩のベルトを掛け直しながら言った。
「実験の話だったな。とにかく私は、いや、我々は二機の巨大コンピュータの接続に成功し、君も知ってのとおり、無限の処理能力を手に入れた。情報の処理速度にも処理容量にも限界を持たない『SAI五KTシステム』をね。そして、そのコンピュータ・システムを使って、現実世界を忠実にシミュレートした超仮想空間を構築し、その中で物体を過去に送ってみることにしたのだ。それなら危険は無いし、余計な金も時間も掛からん。どうだね、なかなか面白いアイデアだろう。やはり高橋君は天才だったよ」
永山哲也が怪訝な顔をする。彼はすぐに言った。
「結果は知っています。成功したんですよね。クリスマスの日に」
田爪健三はしっかりと頷いた。
「2021年の12月24日14時37分13.041秒。そう、クリスマス・イブだったな。我々は超仮想空間での時空間逆送実験に成功したのだ。仮想空間の中で、たった27.917秒だったが、過去への移動に成功した。AT理論は正しかったのだよ」
田爪健三は永山に向けて左手の人差し指を振った。
永山哲也は冷静に尋ねる。
「その実験では、現実世界に実在する物体を仮想世界の中に再現して、それを転送させるシミュレーションを実施したのですよね。転送の実験体モデルには、何を?」
「帆船の小型模型をバーチャル化して使用した。そう、このくらいの大きさのモノだったかな」
テーブルの上に左手を浮かせて模型の高さを示した田爪健三は、その手をパタリとテーブルの上に落とした。そして、眼球を左右に動かしながら言う。
「25.925センチ。そうだ、25.925センチだった。私が光学測量器を使用して精密測定したのだ。覚えているぞ。よく覚えている」
永山哲也は眉間に深く皺を寄せた。
「その模型の仮想体がタイムトラベルした際の具体的経緯は、どんなものだったのですか」
田爪健三は遠くを見つめるような目をして、記憶を遡った。
「実験の最終チェックを終え、いよいよこれから実験を開始するというその時だった。仮想空間内のスキャニングをしている最中に、それは起こったのだ。一瞬だ。一瞬で、仮想空間の中に未だ入力していない、つまり、仮想空間内に存在するはずのない25.925センチの帆船が現れたのだ。仮想空間の同条件下では、紛れもなく、既に、その時、その瞬間、そこに存在していた。私が測定して、ナノレベルの傷まで完璧に収集した帆船模型のデータが、私がそれを記憶させたデータ・ドライブをまだこの手に握っていて、物理的接続も、ドライブ・デバイスの接続信号を送ることも、何もしていないのに。それをする前に、既に仮想空間内にデータが送られ、空間内で構成されていたのだ」
田爪健三は興奮気味に肩を上げて語る。
「他の全員が唖然とする中、私は瞬時に反応した。こう、自然に体が動いたのだよ。床に落したデータ・ドライブを大急ぎで拾うと、ケーブルを繋ぎ、すぐに接続信号を送って、全ての測定モードを有効にした。私の荒々しい身体の動きに触発されたのか、我に返った高橋君も操作パネル上で猛烈な勢いで全ての指を動かし始めた。いや、もちろん、その時の私は彼の行動を確認する余裕など無かったがね。独立系統の電源で当時の様子を四方八方から録画していたので、後日、その映像を見て分かったことだよ」
田爪健三は少し早口になっていた。彼は座っていた古びたパイプ椅子から腰を上げると、軽く深呼吸をしてから、再びゆっくりと話し始めた。
「いやあ。しかし、大型モニターの中の仮想世界とはいえ、起こり得ない事態が現実に起こったのだ。現場は大混乱だったよ。まあ、かく言う私も、支給された高価なデータ・ドライブを床に落してしまったのだがね。大きな傷が付くほど激しく。一歩間違えば、実験そのものがパーになるところだったよ。だが、他の者はもっと酷かった。事態が呑み込めずに、ただ立ち尽くす者。感覚を疑い、自らの頬を連打する者。現実に押し潰され、ただ右往左往する者。真実に恐怖し、顔を覆い隠す者。未来に心浮かれ、歓喜するだけの者」
田爪健三は話しながら椅子の後ろに回り、そこから屈み込んで砂時計を覗き込んだ。
「時間とは不思議なものだ。ほんの数十秒の出来事が、私の中では今でも数十分間に感じられる」
顔を上げた彼は永山の方を見て続けた。
「とにかく、私と高橋君は慌てながらも、その瞬間に自分たちがやるべき動作を正確に、的確に、素早く、冷静にやってのけた。そして、帆船模型のデータの、逆送システムへの入力が終了した」
田爪健三は、その古びたパイプ椅子の前まで回ってくると、今度は椅子に浅く腰を下ろし、背もたれに身を投げた。そのまま足を組み、目を閉じて言う。
「その後、しばらくの静寂があったよ。どのくらいだったかな。猛烈な動作後の額の汗が鼻の横を伝い、顎を伝い、顎の下に溜まり、雫となって床に落ちる。丁度、そのくらいの時間だ。分かるかね。そして私は高橋君と顔を見合わせた。その次にしたことは……」
「何を……」
さっきからの田爪健三の不自然な動きを気にしていた永山哲也は、少しだけ
田爪健三は永山の目を見て言う。
「笑ったのさ。ただ、笑った。笑いが止まらなかった」
永山哲也が不思議に思って眉を微妙に動かすと、田爪健三は軽く彼を指差した。
「考えてみたまえ、あの、たかが25.925センチのオンボロ帆船模型が、科学者数十人を振り回したのだ。はは。おかしくてな。笑えるだろ。今度は、さっきの静寂よりほんの少しだけ長い時間だったが、いや、結構長かったかな、笑いが止まらなかったものさ」
田爪健三はその時を思い出してか、半笑いしながら話していたが、急に顔から笑みを消し去った。
「だが、私が腹の底から笑えたのは、それが最後だったかな。今思えばね。瑠香と……」
田爪健三は、永山が一瞬だけ顔をしかめたのを見て、すぐに早口で補足した。
「ああ、瑠香は私の妻だった女性でね。実は、この砂時計は彼女からプレゼントされた物なのだよ。瑠香と結婚する直前の頃はよく笑っていた気もするが……結婚式の時は……どうだったかな」
田爪健三は首を傾げた。
永山哲也は口角を上げて言う。
「男は、そういうものです。そう思います」
「そうかね。そういうものかね」
田爪健三は永山の目を見ながら静かに苦笑した。永山哲也は田爪に同調する意を込めて右の眉を一度だけ上げて見せる。田爪健三は組んでいた足を解いて大きく開くと、背もたれから身を起こして、また永山を指差した。
「ところで君、ええと、永山君だったね。君、結婚は?」
永山哲也は少し目を細めてから表情を戻し、首を縦に振った。
「ええ。娘も1人います」
田爪健三は永山の顔を凝視して少し止まったが、すぐに視線を逸らした。
「そうか。私は子供には恵まれなかったが、それが却って良かったのかもしれない。もし子供が居たら、別の選択をしていたかもしれないな」
「と、いいますと」
また眉を寄せて永山が尋ねると、田爪健三は左手で左の腿をピシャリと叩いた。
「さて。どこまで話したかな。時間は望む者には与えられないが、望まない者には拷問のように与えられる。そうだ、逆送実験の顛末だったな」
無理に話題を変えよとする田爪に、永山哲也は疑念の目を向けた。しかし、彼はそれ以上を尋ねなかった。
永山哲也は黙って田爪の話を聞く。
田爪健三は椅子の背もたれに身を倒すと、再び語り始めた。
「その日は、それで終わり。後日、年が明けて2022年の正月だった。元日から1人で研究所に出ていた私は、実験を記録した映像と、各種のデータを照合する作業に追われていた。そして、帆船模型のデータ入力の終了時刻を見て我が目を疑ったのだ」
田爪健三は永山の目を見て少し声を大きくした。
「そうだ、正直に言おう。若干の恐怖さえ感じたよ。そこに記録されていた時刻は、2021年の12月24日14時37分40.958秒。仮想空間上に帆船が現れた時刻は、2021年の12月24日14時37分13.041秒。その差は、27.917秒。つまり、あの帆船模型は、27.917秒だけ過去に戻ったのだ」
田爪健三は、今度は左手で握った拳を大きく振ってみせた。その後、その拳から節くれた太く短い人差し指を立てると、こう続けた。
「他にもう一つ、大切なデータがあった。仮想空間の中では、仮想物質から仮想元素に至るまで、全ての存在物にタイムタグが添付されていた。そう、言わば、自然界における炭素の同位体のようなものだ。現実世界では炭素の同位元素が出す放射線を調べることで、物質の最低限の存在年代を測定することができるが、仮想空間内でも、それに似たことを簡単にできる仕組みにしておいた」
「カーボン・フォーティーン法。アイソトープを利用した年代測定ですね」
永山が確認すると、田爪健三は頷いた。
「そうだ。同じことを簡単に行えるように、アイソトープに代わる付属データを前もって仕込んでおいたのだ。そして、測定された仮想空間内の設定時間と、現れた帆船模型のタイムタグとの時差は、27.917秒ジャストだった。この時差はデータを100万分の1秒まで精査しても、変わることは無かった。むしろ重要なのはここからで……」
「ちょっと待ってください。27.9……」
「27.917秒」
そう念を押すように言った田爪健三に、永山哲也は困惑した顔で尋ねた。
「27.917秒後に実際に転送されたのですから、27.917秒の時差が生じるのは当然ではないでしょうか」
田爪健三は下を向き、立てた左手の人差し指を横に振りながら言った。
「違う。違うのだよ。それでは高橋君と同じだ」
再び顔を上げ、永山を見据えて言う。
「いいかね、その模型は27.917秒の時差のあるタグをつけて、2021年12月24日14時37分13.041秒の仮想空間上に現れた。そして、その後に、私が転送装置のスイッチを押したのだ。よく考えてみなさい。もし私が、40秒後にスイッチを押していたら、どうなるかね。もし、私が20秒後にスイッチを押していたら」
永山哲也は、眉間に皺を寄せ、首を傾けた。同時に、自然とICレコーダーを握った右手で後頭部を軽く叩いていた。それを見て少し笑った田爪健三は、話を続ける。
「つまりだ、帆船模型が転送されてきた瞬間に、すでに私が27.917秒後にスイッチを押すことが決定付けられていたということなのだよ。そして、驚くべきことに、それは実現した。もし、私が意図的に、時間を計ってスイッチを押したとしても……もちろん、そんなことに気が回る余裕はなかったし、科学者とて、そのような愚行はしないがね。仮に逆算して、タイミングを見計らってスイッチを押したとしても、人間の行為で100万分の1秒の単位までのタイミングを、しかも一発で合わせることなんて出来ると思うかね」
「ええ。確かに無理ですね。それは分かります」
永山哲也は次の話を予想していた。それは田爪健三の主張であり、固執でもある。彼の予想通り、田爪健三はそれを語り始めた。永山哲也は黙ってそれを聞いた。
「つまり、もし君が過去に向けてジャンプしたとしても、未来を、すなわち現在を変えることはできないのだよ。君が過去に現われることは、君が過去に現れた時点で、いや、もしかしたら現在から過去に飛び立った時点で、既に決定付けられているのであって、それを前提として現在と未来が存在する。すなわち、時間とは運命に縛られた固定的構造状態であって、決して流動的変動状態ではないものなのだよ。とするならば、例え『過去』に戻れたとしても、そこから『過去』に戻る前の出発時点までの『未来』とは、いわば『虚構の未来』なのであって、結局のところ、それは既に通過した『過去』に過ぎないのだ。したがって、戻った『過去』の時点から『出発』時点までは、すべてが決定付けられていることになり、
片笑んだ田爪健三に合わせ、一応、永山哲也も口角を上げた。
田爪健三は更に続ける。
「では、『未来』についてはどうだろうか。『未来』とは、これから実現する未知の時間帯だ。すなわち、『過去』への出発時点を基準に考えると、それより先の時間のみが『未来』だということになる。そして、その『未来』は存在しない。なぜなら、『未来』は、その存在が認識された時点で、『現在』を通り越して『過去』となるから、たとえ哲学的にも、数学的にも、物理学的にも、その存在を明らかにした瞬間に、それは既に『存在を明らかにされた過去』だからだよ。だから人は『本当の未来』について常に不知なのだ。そうすると、人は『本当の未来』を絶対に変えることができない。『虚構の未来』が変えられないというのは、さっき説明したとおりだ。よって、人は『未来』を変えられない。人は『過去』も変えられない。すなわち、人は『時間』を操作することができない」
田爪健三は永山の理解を確認するように、彼の目を覗いた。
永山哲也は黙って頷く。
田爪健三は安心したように頷いて返し、話を続けた。
「というのが私の基本的な考え方だ。もちろん、これには全くの反対説が存在する。細かくは述べないが、要点のみ説明すれば、こういうことだ」
田爪健三は横を向き、テーブルの上に視線を落とすと、その上を左手で軽く叩きながら説明していった。
「まず、人が『過去』に戻れば、そこからは全て、その時点で新たな未知の『過去』となるから、それはもはや、その人が経験した既知の『過去』ではない。すなわち未知の時間帯であって、さっき私が述べた定義に従えば、それは『未来』である。とするならば、人は『過去』に戻れば、『未来』を変えられるということになる。その内、本来なら『虚構の未来』の部分は、切り捨てられた『過去』ということになる訳だ。従って人が『過去』に戻れば、その人の経験上は、『未来』も『過去』も一挙に同時に変えることができるということになる。よって、人は『時間』を操作できる」
永山に顔を向けた田爪健三は、短く溜め息を吐いてから言った。
「と、まあ、こんなところだが、私に言わせれば、間違いだらけの詭弁でしかないがね。しかも、この二つの考え方はAT理論の本質でも何でもなく、ただの派生論点に過ぎないのだよ。この二つを構造的に理解することによって……」
永山哲也は短い頭髪を左手で何度か速く激しく掻いた後、大きく息を吐いた。
「何だか、頭がこんがらがってきました。すみません」
そして、その手を下ろすと、真剣な顔で言った。
「ただ僕は、ここであなたと『時間』の概念について議論するつもりは無いですし、そのレクチャーを受けに来たのでもない。僕は真実を確かめに来たのです。そのために、このICレコーダーを起動させているのです。そこのところ、よろしくお願いします」
永山哲也は右手のICレコーダーを前に上げ、田爪に見せた。
田爪健三は何度も頷いた。
「そうだな。そうだった。私としたことが、あの時の話になると、つい興奮してしまってね。いや、悪かった」
田爪健三は思わぬ永山の対応に少し面食らったようだったが、素直に謝罪した。そして、その古びたパイプ椅子の上で、姿勢を正して座り直した。
「話を続けよう」
永山哲也も軽く頷いて返すと、再度、右手のレコーダーを田爪に向けた。
田爪健三は再びゆっくりと語り始める。
「ともかくも、実験は成功した。教授たちの半世紀以上にわたる研究の成果が、少なくとも応用科学の領域で実用可能なものであることは、この実験で十分に証明できたと思う。ただ残念なことに、赤崎教授と殿所教授の両名とも、その後まもなく天寿を全うされた。2022年の春に赤崎教授が、殿所教授もその後を追うように秋に」
伏し目になった田爪健三は、意識的に顔を上げると、永山に言った。
「いやね、どちらの教授もそれぞれに伴侶と家庭に恵まれ、人としても幸せな人生だったと思う。ただ、私がさっき『残念』だと言ったのは、どちらの教授も、その後の展開を知ることなく旅立たれたという点を言ったのだよ。というのも、むしろ、君が調べている失踪事件と、現在起こっている事態の根本的で直接的な原因は、これから私が話す部分にあると思うからなのだよ」
田爪健三は永山の顔を鋭い目で見据える。
永山哲也は頬を強張らせ、田爪の顔を真っ直ぐに見つめていた。
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