第10話

                  13


 雨は降り続いていた。そのパトカーは巡査をライトで照らしながら、ゆっくりと走ってきた。路上に倒れている白い自転車の前で停車し、エンジンを止める。ライトが消え、左右のドアが開き、中から制服姿の二名の警官が降りてきた。


 巡査はそのパトカーの近くまで走り、雨に打たれたまま背筋を正して2人に敬礼した。濡れ鼠の巡査は、雨粒に顔を打たれながらも、直立して敬礼を続ける。開いた助手席のドアを握ったまま口を開いて事故車両を見上げていた年配の警官に、彼は言った。


「ご苦労様です。先ほど自分が付近を巡回しておりましたところ……」


「ああ、待て。今、合羽を着るから」


 助手席側のドアを閉めた中年の男性警官はそう言って、今度は後部座席のドアを開け、車の中に屈んだ。


 運転席側から下りてきた若い警官はビニール傘を広げると、積み重なった事故車両を下から上に眺めながら、呟いた。


「ひでえな、こりゃ。このゴールデン・ウィーク中の事故の中じゃ、ワースト・ワン間違いなしじゃねえか……」


 その警官は、雨の中で直立している巡査に気づき、彼に言った。


「おい。その自転車を除けてくれ。本部には連絡したか」


 巡査は再び敬礼して、口の前に雨粒を散らしながら、答えた。


「いいえ。自分の無線機が故障中のようであります。申し訳ありません」


「チッ。ったくよお、何やってんだよ」


 若い警官は面倒くさそうに運転席の中に半身を入れて、無線機のマイクを握った。


「こちらコウキ三号。事故現場に現着……なんだ、まだ使えねえのか。どうなってんだ」


 その若い警官は、不快な雑音しか発しない無線機での通信を早々に諦めて、マイクを元の位置に戻した。そして車から上半身を抜いて出すと、ズボンのポケットから折り畳まれた携帯電話を取り出し、それを開きながら、傘を握った手で運転席のドアを閉めた。


 反対側で白い雨合羽を着終えた中年の警官がフードを被りながら愚痴を溢す。


「くそ。さっきまで晴れていたのにな。何で急に降ってきたんだ」


 ビニール傘を差している若い警官は、携帯電話をいじりながら言った。


「ほんと。今日は六件目ですよ。だからゴールデン・ウィークの警邏けいらは嫌なんです」


 中年の警官がパトカーの赤色灯越しに若い警官に尋ねた。


「無線は。まだ駄目か」


「ですね。ケータイも駄目です。圏外になってますわ」


 若い警官は携帯電話を折り畳むと、濃紺のズボンのポケットに仕舞った。


 中年の警官は周囲を見回して、溜め息を吐く。


「だから、もう少しゆっくり運転しろって言ったんだよ。こんな時に一番乗りしても、大変なだけだろうが」


「すみません。――応援が来るのを待ちますか」


「そうもいかねえだろ。現着一位が何もしていませんでしたじゃ、後で始末書を書く羽目になっちまう。ほら、いいから、早く合羽を着ろ。規制線だけでも張っとくぞ。トランクもさっさと開けろ」


「もう開けてます」


 若い警官は無愛想に答える。舌打ちした中年の警官はパトカーの後ろに回り、浮いたトランクのカバーを持ち上げた。


 自転車を近くの家の塀に立て掛けた巡査は、ずぶ濡れのままパトカーの後ろに走ってきて、トランクの中を覗き込んでいる中年の警官の横に立った。その中年警官は雨合羽越しでも分かるほどに強いオーデコロンの匂いを漂わせていた。巡査は鼻を啜ると、背筋を正して敬礼し、大きな声で言った。


「報告します。自分が第一で臨場しました。自分は……」


 その甘い匂いのする中年警官は左手でトランクのカバーを支えたまま巡査の方を向き、制帽の隙間から滴る雨水に細めている彼の目をにらみ付けながら言った。


「あ? 第一で臨場? 最初に到着したのは俺たちだろうが。ハコもんの下っ端アヒルが偉そうなことを言いやがって。向こうでニンジンでも振ってろ、コラ」


 彼は交番勤務の制服警官であるその巡査を侮辱した。彼の言う「ハコもの」とは交番勤務の警察官を指し、「アヒル」とは制服警官を指していた。


 中年の警官は、「ニンジン」と称した赤い棒状の誘導灯を押し付けるように巡査に渡すと、再びトランクの中を覗き込んだ。巡査は誘導棒を受け取り、黙っていた。濡れて体に張り付いた水色のワイシャツの袖口から雨水が滴り、強く握られた彼の拳を伝って下に落ちた。彼の横に、雨合羽を着終えた若い警官が現れた。その警官は目の前の巡査の肩に手を当てて彼を横に押し退けると、トランクの中で探し物をしている中年の警官に言った。


「いやあ、あれ、駄目ですね。救急車、どうします?」


 ずぶ濡れの巡査は、誘導棒を握り締めて歯を喰いしばりながら、その場を立ち去った。


 中年の警官はトランクの奥を探りながら答える。


「知らねえよ。無線も携帯も使えねえなら、救急車も呼べねえだろ。それに、生きていたとしても、どうしようもねえよ。俺たちは医者じゃねえからな。くそ、規制テープはどこにやった。新しいのを入れとけって言っただろうが」


 癇声を上げた中年警官の横に若い警官も仕方無さそうに並び、トランクの中を一緒に探し始めた。


 ずぶ濡れの巡査は手に握った誘導棒のライトを点けながら、無惨に積み重なった二台の車両の前を通り、T字路を左に進もうとした。すると彼は、その事故現場の目の前の家のガレージと隣の家との間の塀の角の所に、幼女が1人で立っているのに気づいた。その子は幼稚園児くらいの年齢で、水玉模様の薄い黄色のシャツの上から少し大きめのオーバーオールを穿いていて、自分の体の半分くらいの大きさの熊の縫いぐるみを胸の前で抱きしめていた。降りしきる雨の中、巡査と同じようにずぶ濡れのまま、そこに立って、積み重なった事故車両を見上げている。その子が胸に抱いていた熊の縫いぐるみは水を吸い、その子と同じように毛を体に貼り付けていた。その上を包んでいた彼女の華奢な腕は細かく震えている。


 巡査は誘導棒の電源を切って、その子の方に歩み寄ろうとした。その時、背後から香水臭い手が巡査の肩を押した。


「てめえ、何やってんだ。目撃者の聞き込みは、こっちの仕事だろうが。さっさと向こうの角で交通誘導を始めろよ。こっちに車が入って来ちまうだろ!」


 巡査は頭を下げると、黙って向こうの方に歩いていった。


 白い合羽を着た中年警官は少女の前にしゃがみ、笑顔を作ってその子に問いかけた。


「ん。お嬢ちゃん、どうしたのかな。風邪ひいちゃうよ」


 少女は黙ったまま動かなかった。


 合羽姿の中年警官は話しを続けた。


「お嬢ちゃん、もしかして、この事故を見てたのかな」


 少女は一度だけ、少しだけ首を縦に振った。


 警官は続けた。


「じゃあ、どっちの車が先に出てきたか、分かるかな。おじさんに教えてくれないかな」


 少女は口を利かなかった。ただ、胸元の縫いぐるみを強く抱きしめている。縫いぐるみから雨水が滴った。


 中年の警官は不機嫌そうに一度舌打ちすると、その子から縫いぐるみを取り上げ、それに氏名が書かれていないか調べた。何の記載もされてないことを確認した彼は、それを少女に返した。少女は反応せず、受け取らない。警官は縫いぐるみを塀の横に置き、もう一度、優しい口調でその少女に問いかけた。


「じゃあ、お嬢ちゃんのお家はどこかな」


 少女は事故車両を見つめたまま、その小さな指で事故現場の目の前の家を指した。


 合羽姿の警官は少女の指した方に一度だけ顔を向けると、再び少女に言った。


「ちょっと、パパかママを呼んできてもらえるかな。お巡りさんが、教えてもらいたいことがあるんだ」


「……」


「パパとママは何処かなあ。お出かけ中かな?」


 中年の警官がそう言うと、少女はゆっくりと手を上げた。震えているその小さな手の先の、短く小さな指は、真っ直ぐに、目の前の積み重なった事故車両を指していた。


「え……」


 中年の警官は言葉を失った。動揺した彼は、すぐに次の質問をした。


「えっと……あの、お嬢ちゃん、お名前は?」


 少女は事故車両を指差したまま答えず、動かなかった。


 その子の小さな指先から雨水が滴る。


 中年の警官は、もう一度尋ねた。


「お名前は何かな。お、な、ま、え。分かる?」


 少女は前を指差したまま黙っていた。


 合羽姿の警官は舌打ちをして立ち上がった。すると、彼のしかめた顔を強い光が照らした。警官は手で光を遮りながら光源をにらんだ。


「まったく、あの馬鹿が。こっちに車を入れるなって言ったのによ。何やってんだ」


 その光源の後ろから、また別の光が射した。その光が前の乗用車の輪郭を明瞭にする。


「あーあ。まったく、次から次へと……」


 合羽の警官は、ゆっくりと進んでくる車列の方に赤い誘導棒を振りながら歩いていった。


 少女は塊を指差したまま、雨に打たれて立ち尽くしていた。




                  14


「いったい、どうしたのです? 何が起こっているのですか」


 鳴り響く警報音の中、永山哲也は田爪の背中に向けて大声で尋ねた。


 田爪健三は全く反応することも無く、この円形の部屋の奥の壁の方に走っていく。


 突如として天井の照明の光度が上がった。永山哲也は瞼を下げて目を細める。さらに、クッション材の壁の前の床に印された黄色い大きなバツ印の辺りを幾つかのスポットライトが数方向から照らした。それにより、そこから遠く離れた場所に立っている永山哲也にも田爪の姿がはっきりと見えた。田爪健三は息を切らしながら、そのバツ印の近くに置かれた鉄製の台に向けて一直線に走っている。永山哲也は眩しさに耐えながら周囲を見回した。空気が流れていた。地下の閉鎖空間とはいえ相当の広さと高さがあるので、内部の空気が流動しているのは当然だが、それは明らかに自然な対流よりも強く、不自然だった。再び田爪に目を遣る。ようやく鉄製の台の階段まで辿り着いた田爪健三は、左手の高級腕時計を気にしているようだった。乱れる呼吸を必死に整えながら、階段を上っていく。


 部屋の中の空気の流れが更に激しくなった。風が無秩序に舞う。永山の足下の花弁の塵が巻き上げられた。永山哲也は顔を覆った腕越しに、それを目で追った。巻き上げられた塵は強い風の流れに乗り、一箇所に向かっていく。それは、この円形の部屋の中心ではなく、永山の横の鉄柵のずっと向こう側の、ある空間に向かって流れていた。その空間は揺らめいていて、時折、火花のようなものを発している。その真下には、床の上に印された赤色の三角形があった。


 永山哲也は強い風に飛ばされないように踏ん張りながら、再び田爪の方に目を向けた。田爪健三は、さっきまで永山に向けていた不恰好な銃を右の脇に抱え、左手の腕時計と、そびえ立つ時計台の文字盤を見比べながら、あの鉄製の台の上に立っていた。


「んん。んんん。さては、また割り込んだか!」


 田爪健三は愚痴っぽく言い放った。そして、肩からベルトを外し、その不恰好な銃の床尾を右肩に当てて、左手で銃身を支えて据銃した。黒い手袋の右手の指を引き金にかけて少し腰を落とし、構えた銃の先端を黄色いバツ印の辺りに向け、頭を銃身に添える。何かに照準を合わせているかのような体勢だった。彼は、ふと銃身から顔を離し、乱れた呼吸を抑えながら、大声で永山に叫んだ。


「永山君。その黄色い、線から、下がっていなさい。そして、目を閉じるんだ。最初の閃光は強烈だから、直視すると、確実に目を……」


 その時、赤い三角印の真上で、強烈な閃光が走った。雷鳴のような轟音と耳を突く高音が同時に響く。その瞬間、空間から突如として、弾丸の形をした巨大な物体が飛び出してきた。


 全長十メートルほどのその物体は、飛び出してすぐに、長く延びた「別の壁」の先端に側面を軽く接触させ、そのまま、その「別の壁」沿いに、壁との間に火花を散らしながら、猛烈な勢いで一直線に進んだ。高速で進むその物体は「別の壁」の三分の一ほどの地点で、底の面をコンクリートの床にも接触させると、不快な摩擦音と新たな火花を発しながら、さらに「別の壁」沿いに直進を続けた。そのまま「別の壁」の端まで来ると、先端をクッション材の右端にぶつけ、今度は、この部屋の壁の弧に沿う形で進行方向を左に変える。そのクッション材に右側面を押し当てながら、壁に沿ってカーブを描いて進み、徐々に減速した。白煙に包まれた物体は、丁度クッション材の左端の部分の所で穏やかに停止した。


 永山哲也は顔を覆っていた両腕の隙間からその物体を観察した。風に流れた煙の間から見えるその物体は、白く塗装されていた。進んできた方向を基に表現するならば、進行方向の部分、すなわち物体の前の部分は、細く丸みを帯びた円錐形になっている。物体の後ろの部分は直径五メートルほどで、全体が巨大な噴射ノズルの様になっていた。それは、まだ赤く輝きながらチリチリと音を立てていて、かなりの高温を保っているようだった。こちら側に見える物体の左の側面には日本国旗が印されており、その横にいくつかのアルファベットと数字、日付らしきものが記されている。その下の部分には縦長のハッチが取り付けてあった。それ以外に、その物体の表面には何も無い。窓も、翼も、ライトも。


 やがて、舞っていた白煙が飛散すると、その物体と床との接触部分が姿を現した。その物体の真下には、床に描かれた黄色いバツ印の端が見えていた。


 永山哲也は顔の前に持ち上げたままだった両腕をダラリと下ろし、言葉を漏らした。


「そんな馬鹿な。なぜ……」


 すると、その物体が少し揺れるような動きをした。中からゴソゴソとした音と、微かに人の声が聞こえる。しかし、遠くにいる永山には聞こえていない。円形の広い部屋の中には警報音が鳴り響いている。彼は台の上で据銃している田爪に大声で問いかけた。


「博士。いったい、どういうことですか。これは……」


「シッ」


 田爪健三は、今度は銃身から顔を離すことなく、音を発しただけだった。永山には届いていない。しかし、永山哲也は一瞬口を噤んだ。それは、矢倉の上の田爪健三が頭を銃身に添えて、銃の先に据えた「物体」をにらんだまま、焦点を「物体」の側面のハッチに合わせていることが、永山にもはっきりと分かったからだった。


 永山哲也は思わず呟いた。


「あなたは、一体何を……」


 永山哲也は、今、目の前で起きたことや、視線の先にある「物体」の正体に意識を運ぶよりも、今、田爪がしていることが気になって仕方なかった。田爪健三は、その物体の真横に位置することになった鉄製の台の上で大きめの不恰好な銃を構え、明らかにその銃口をその物体の左側面にあるハッチに向けている。永山の直感的な推測が正しければ、それはとんでもない事態だった。


 永山哲也は床の黄色い線を越えて踏み出すと、その「物体」に向かって一直線に走り始めた。その時、そのハッチが鈍いガスの噴射音と共に下に倒れて開いた。床に斜めに立て掛けられたその縦長のハッチの裏面には、細い階段が備え付けられていた。ハッチで閉じられていた部分には、厚手の装甲の奥に、人間1人がやっと通れるほどの幅で、大人であれば相当に屈まなければならない程度の高さの通り口が設けられていた。その奥から数人の声が、今度は、はっきりと聞こえた。


「よし。開いたぞ。ちょっと待ちなさい。音が鳴っている。うるさいなあ」


 鳴り響く警報音の中、全速力で走りながら、永山哲也は必死になって叫んだ。


「駄目だ! 出るな! 出てきちゃ駄目だ!」


 彼の声は警報音にかき消され、その「物体」の中には届かない。中からの声は続く。


「まったく、何なんだ、この音。到着用の施設があるなら、ちゃんと説明すればいいのになあ。ああ、狭いから順番に。ショウタロウ、お前から先に出なさい」


 その「物体」の側面に開いた通り口に視線を集中させながら走っていた永山哲也は、視界に飛び込んできたものに驚愕した。その狭い通り口の中から、黒のスーツの袖から出た大人の手で両脇の下を支えられた、ぶかぶかのダウンジャケットに包まれた幼い男の子が姿を現したのだ。


 永山哲也が声を上げる。


「出すな! 子供を中に入れろ! 危ないぞ!」


 両足をバタバタとさせてはしゃぐ幼い男の子は、大きな両手に挟まれて、その物体の装甲とハッチの繋ぎ目の部分に着地させられた。男の子は、その両手が離れたのをいいことに、1人でたどたどしく歩き始め、斜めのハッチの階段を一歩ずつ下りていく。


 その男の子がようやく階段の中程まで来たとき、一筋の光線が男の子の顔を緑色に照らした。その瞬間、若干の量の霧状の物体と共に、その子が履いていた小さなズボンと着ていたセーター、そして、その子を包んでいたダウンジャケットが宙に舞った。


 その男の子は消えた。




 永山哲也は脱力したように走る速度を落とした。そのまま、泣き出しそうな顔で立ち止まる。すると今度は、黒いスーツの男がその小さな通り口から這うようにして出てきた。永山哲也は台の上の田爪を見る。彼はハッチの方を狙っていた。ハッチの階段の二段目くらいの所に両手をついたスーツの男は、通り口から両足を引き抜き、手をはたきながら、その長身の体を真っ直ぐに立たせた。永山哲也はその場から叫んだ。


「逃げろ!」


 鳴り響く警報音に迷惑そうに耳を押さえながら、男は階段を更に二段ほど下り、落ちていた小さな靴の片方と子供用のダウンジャケットを拾い上げると、靴を持っている手で自分の腰を叩きながら言った。


「うーん。狭い、狭い。腰が……。こらっ、ショウタロウ。何処に行った。勝手に……」


 緑色の光線が、ワイシャツの襟から出ていた彼の長い首に照射された。その瞬間、その大きな黒いスーツの上着と長いズボン、それらに包まれる形でワイシャツと下着、そして子供用のダウンジャケットと小さな片方の靴が、さっきと同じように宙に舞い、今度はすべてハッチの下に落ちた。高級ブランド物の革靴が彼のソックスを飲み込んだまま階段を転がり落ちていく。


 円形の部屋の中心に近い位置で、永山哲也は呆然と立ち尽くした。するとまた、物体の中から、今度は甲高い声が騒々しく聞こえてきた。


「もう、狭いわね。ほら、リナちゃん、早くしなさい。機体からは直ぐに離れるよう説明を受けたでしょ。あなたあ。ちょっとお」


「ちょっと待ってよ、ママ。このヘルメット、髪が挟まっちゃうの。それに、この変なユルユルの靴下。だから嫌だって言ったのに。ホントにみんな履いてるの?」


 永山哲也は再び駆け出した。彼は喉が割れんばかりの大声で叫ぶ。


「外は危ない! 中に戻れ!」


「え、なに? 何の音なのよ、これ。ちょっと、あなたあ。バッグくらい持ってよ。こんなに狭いなんて聞いて……」


 金髪の派手な化粧の女性が、片方の手に有名ブランドのバッグを握り締め、もう片方の手に高いヒールの靴を吊り下げながら、四つん這いの姿勢で、その小さな出入り口からゴソゴソと姿を現した。毛皮のコートと共に腰から上をハッチの階段の上に投げ出すと、その毛皮の裾がハッチと機体の間に挟まったのに気付き、必死にそれを解こうとする。


 永山哲也は走りながら、「物体」の方に向かって叫んだ。


「体を戻せ! 中に隠れろ!」


「もう、誰よ。無茶言わないでよ、引っ掛かってるのよ。見れば分かるでしょ」


 女は着ていたコートの裾を力ずくで引き抜くと、階段の一段目にスカートから出た片方の足をついた。ヒールを提げた手で出入り口の一辺を掴み、髪を直しながら体を起こす。


「やめろ!」


 永山が大声で叫んだ。もちろん、彼は彼女に対して叫んだ訳ではなかったが、その金髪の女は階段の下に散乱した夫と息子の衣類に気付くことなく、永山の方に顔を向けた。そして、そのままの高さの視線で、少し辺りを見回しながら言った。


「なによ。この時代なら、もっとちゃんとした……」


 女の右側頭部に緑色の光が当たった。その瞬間に一瞬で彼女の肉体は霧状になり、着ていた毛皮のコートも、有名デザイナーが作った衣服も、その中の補正下着も、真珠のネックレスも、ダイヤの指輪も、ヒールの高い靴も、高級ブランドのバッグも、全てがハッチの階段の上を滑り落ちていった。それとほぼ同時に、その機体の中から最後の1人であろう若い女が、下を向きながら、しきりに髪をかき上げて這い出てきた。


「もう、うるさいなあ。ママあ。何で髪型まで昔に合わせないといけないわけ。この髪、パラパラして気持ち悪い」


 その「物体」に辿り着いた永山哲也はハッチに掴まり、その上の若い女に叫んだ。


「戻れ! 戻るんだ!」


 若い女はハッチの下の永山に気付き、四つん這いのまま短いスカートを素早く手で押さえて、声を上げた。


「きゃっ! 到着していきなり覗き? ママあ、だから短いスカートは嫌だって……」


 若い女が頭を上げると同時に、まだあどけない顔の中心を緑色の光が照らした。それと同時に彼女は消し飛び、彼女が着ていた制服のブレザーと短いチェックのスカートと下着だけが、着ていたそのままの形でするすると落下して、ハッチの階段の上に広がった。


 その「物体」の中で、宙に舞った白のルーズソックスが転がった革靴の近くにゆっくりと落ちた。


「そんな……。なんてことを……」


 全てを見ていた永山哲也は、力無く床に崩れ落ちる。


 鉄製の台の上の田爪健三は満足気な顔で頷きながら呟いていた。


「大丈夫。いつも通りだ。これでいい」


 田爪健三は、使用した光線銃の各部位を確認しながら、鉄製の台の階段を堂々と下りてきた。そして、その大きめの不恰好な銃のベルトに右の腕を通すと、それを重たそうに右肩に担ぎ、そのまま、壁際に置かれたカフェテーブルの所までゆっくりと歩いていく。


 警報音が鳴り止んだ。照明が暗くなり、スポットライトも消えた。


 その地下空間は再び薄闇と静寂に包まれた。



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