#1-2「ストレスで吐きそう。火を」

 放ったらかしの食器へ、蛇口から水の滴る音が響いた。

 電気も止められてしまった底冷えする部屋の中で、いきなり押し入ってきたヤクザたちの言葉を受け入れられないまま、オレは固まっている。

 そんなオレを見かねたらしい強面の大男は、深い溜め息をついてから言い直す。


「聞こえなかったのかな。1億ある借金を返して欲しいんだよね」


 オレがちょうど14歳になる、寒夜のことだ。

 1億という数字に現実感が無い。男の言葉が耳から脳裏を素通りしていく。

 クリスマスイブだと言うのに、ケーキもツリーも無い。母さんは2年前に死んだ。クソ親父はついに帰って来なくなった。

 あのクソ親父がいなくなって安心した。問題はどう生きていくかという事だ。

 オレはそう思い悩みながら毛布に包まっていただけのガキだ。この1週間程は学校の給食しか食べていない。水道もいつ止められるだろうか。


「払えません、ごめんなさ」


 最後まで言い切るより先に吹っ飛ばされる。

 いきなり激痛と視界のメリーゴーランドが襲い掛かってきたので、雑多に散らかる居間の片隅まで転がされても、何が起こったのか分からなかった。

 蹴り飛ばされたと気付いたのは、頭から流れる生温かい何かを指でなぞった時だ。それは血だった。

 強面の男は、またも溜め息をつく。心底からうんざりした様子で吐き捨てる。


「払えないとかじゃないんだよ、全部これから払うんだよ。ねえボクくんわかる?」


 悲鳴も出ない。恐怖も感じないし、何も伝わらなかった。

 痛みと手で触れる以外の全てに現実味がない。何も想像がつかない。

 ただ襲い掛かるのは、この部屋の暗さとは比較にならない、真っ黒くて掴めない闇が目の前を覆う感覚だけである。


 道徳の授業は、とにかく生きる事の喜びと、命の尊さを伝えようとするけれど。

 ただクソ親父の暴力に耐え、クラスメイトが楽しそうな出来事や、つまらなかった出来事までも面白おかしく語り合う姿を横目に妬ましく思いながら。

 ただ耐えて生きてきた先に、オレを待っていたのが、これか。


 これまではクソ親父に蹴られ殴られ、煙草の火を押し付けられ、ぶん投げられ、空になった酒瓶を叩きつけられ、それでも耐えて生きてきた。そしてこれからは、この良くも知らん男に金を注ぐため生きなくちゃいけないのか。

 自然と笑えてきた。

 最初に笑い出してしまえばもう、あとは止めることが出来ない。いつ以来だろう、笑った事なんて。もう覚えていない分まで溢れるように、気持ち良くなるくらい大声で笑った。

 泣きながら笑い過ぎて、脳から酸素が抜け、頭の中をめまいと痺れが駆け抜ける。最高の気分だった。


「もう嫌だ」


 それだけ呟いて台所に走り出す。

 ヤクザたちは呆気に取られていた。

 置き晒しの包丁を掴む。刃を自分の首元へ向ける。息を止めて、力を込める。目を瞑ったまま何もかも終わらせようとする。

 果たして、包丁の刃はオレの首を薄皮一枚だけ裂いた。

 強面の大男が、オレの腕を強く掴んで止めている。

 彼は柔らかく優しげな笑みを浮かべると、オレの背中にもう片方の手を回しつつ、なだめるように語り掛けてくる。


「ダメだよ、命は大事にしないと。とりわけ君はまだ若いんだからね」


 慈しむような眼差しをサングラスの奥から覗かせて、オレを諭し続ける。


「安心しな、良い働き口を紹介してあげるからさ。もちろん体力仕事だって選び放題だし、君くらいの少年が良いっていうお金持ちのおじさんやおばさんも結構いるよ。それに酒もタバコもやっていないなら、病気でもないなら、僕にすごぉく、とっても良いアイデアがあるんだ」


 優しい笑顔が、おぞましくて、寒々しくて、呼吸が苦しくなってゆく。


「これから先、何十年もあるんだ。未来を捨てちゃダメだよ、君にはまだやるべき事があるんだから……ね?」


 ──今の御時世なら篝火イグニスはそこまで珍しくもない。

 けれど誰しもが持っているワケじゃないし、発現する時期もまちまちだ。その条件も明確には分かっておらず、きっと今も研究者達が日夜ああでもないこうでもないと言い合っている。

 ただ「強烈なストレス」がきっかけになりやすいらしくて、オレの場合はこの夜を境に……口の中から黄色い炎を吐き出せるようになった──。


 強面の男が言葉にならぬ悲鳴を上げて、真後ろへ倒れて転がり込んだ。

 オレの前にフラッシュのようなものが焚かれたと思ったら、次の瞬間には男が燃え上がって、ごろごろとのたうち回りながら火の粉を振りまく。

 他のヤクザの男達が、慌てて転がっていた毛布や自分の上着なぞ引っ掴んでは叩き付ける。

 けれど火が収まった頃には、強面の大男だったモノは動かなくなっていた。

 他の男達は驚きと怒りがない交ぜになっているようで、目を見開いた形相で一様にオレを睨む。とんでもないことをしてくれたな……とでも言わんばかりに。


「おかしいよなァ。最初っから火ィ吹けたんなら、自殺なんかより、俺たちを焼けば良かったのになァ」

「わ……若頭……」


 ただ一人、一部始終を静観していたらしい男がようやく進み出る。

 若頭と呼ばれた男は、オレの前にしゃがみ込んで、前髪を掴んで無理矢理に視線を合わさせる。眉毛がないオールバックの男だ。深く刻まれたクマの真上から真っ黒な視線を差し向けている。しばらく何事かを考えているようだったが、オレはとにかく混乱していた。


「たった今しがた覚醒したのかァ?」

「……わかんない、です」


 だからその一言をやっと絞り出すしか無い。

 オールバックの男は再び黙り何かを考え込んでいたが、オレを雑に投げ捨てながら立ち上がると、他の連中に「コイツ連れて行けェ」とだけ命じる。


「賭けを……ヴェリタスをやらせるかァ。コイツの篝火イグニスは使えるからなァ」

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