#2-4「10分間ずっとベロベロバァ~」
パンドラ店内の隅っこにあるテーブル席は、いつも小汚いジジイが居座っている。
どう見てもこの場の雰囲気にそぐわない陰気なジイさんだが、マスターを含めて他の誰も、彼を店の外へつまみ出そうとはしない。
このジイさんはとても優秀な治癒系の
階下のスタジアムでボロボロに転がされた奴を治し、安くない額面をぼったくる。それがジイさんの生業だ。だからオレもあまりジイさんの世話にはなりたくない。
「ヘイ、お兄さん。アンタが
声をかけられたジイさんが、紫苑を見上げる。
紫苑は札束を幾つかテーブルの上へ叩き付ける。
「祭の下準備だ。こっちの一馬を、指のササクレの1つまで綺麗サッパリ治せ」
ジイさんは札束の山を見て汚らしく舌なめずりすると、強引にオレの手を引っ掴み横の席に座らせる。それから「いないな~い」とでも言いそうな感じで顔を隠して、すぐ「んバァ~」とでも言いたげな雰囲気の変顔をしつつ両手を広げる。
ジイさんが指先と舌をそれぞれピロピロと動かし続けている間、ずっと淡い白緑色の光がオレに纏わり付く。ジイさんはずっと変顔のままである。オレは、至近距離で真顔のままジイさんと向き合っている。
オレの折れた腕が痛みを感じなくなるまで、およそ10分しか経たなかった。
「なんでオレの怪我を治すんだ?」
「振り子みたいにブラ下がった腕で祭囃子を踊れるかよ」
紫苑は嗤いを浮かべつつ、黒い仮面を着ける。
それきり質問に答える気は無い様で、オレの怪我が治るなり、すぐにスタジアムへと通じる鉄扉の方へ歩き出してしまう。
オレも慌てて仮面をリュックから取り出し、紫苑の後を追い掛ける。
少女を肩に担ぎながら、スタジアムの階段を一歩ずつ降りてゆく紫苑を見るなり、パンドラの客たちは口々にざわめく。空いている片手から、3つのアタッシュケースが提げられていた。
「新チャンピオンだ」「シオンだ」「やるつもりらしい」「俺はあいつに賭けるぜ」「誰だよ、アイツ?」「知らねえのかよ、昨日あの岩猿をブッ倒したんだ」「というか……あれ、何を抱えてんだ?」「女か、髪めっちゃ長いな」「犯すつもりか?」「公開ファックかよ」「客席からじゃあよく見えねえよ」「今から降りて待つか?」
めいめいに騒ぐクソどもを、まるで意に介さず、紫苑は何も言わずレフェリーからマイクを取り上げる。それから闘技場でそれぞれ剣と銃を持っていた男達を、左腕の一振りと
オレは隣で何も言わずに、名も知らぬヴェリタスユーザー2名に両手を合わせた。
紫苑が担いでいた少女を足元へ降ろす。
3度くらい軽く肩を叩かれた少女は目覚め、寝ぼけながら頭を振る。
どうやらワイヤーの拘束は既に解かれていたらしい。
「う……」
「お目覚めか、眠り姫さんよ」
紫苑は黒い仮面越しに言った。
それから紫苑が立ち上がると、少女は女座りのままでじりじりと後ずさりしつつ、同じく傍らへ転がっていた巨大ノコギリの柄へと手を伸ばす。
それを見やり、紫苑は満足げに鼻を鳴らす。表情は仮面に覆い隠され見えない。
「アンタは俺を殺したいのか。だったら今から最高の舞台を用意してやる」
それだけ言うと立ち上がった紫苑は、掴んでいた3つのアタッシュケースを無造作に投げ捨てる。そしてマイク越しに、ライブ会場の新鋭ボーカルがMCを繰り広げるみたいに宣言する。
「俺はコードネーム・シオン。悪いが乱入させて貰うぜ。賭ける金額は10億と……ちょうど昨日、岩猿から巻き上げた500万円。正真正銘これが俺の全財産だ」
誰との果たし合いを望むのか。
パンドラの地下にあるスタジアムで、クソッタレな誰もが期待する。
けれど紫苑が叩き付けた宣戦布告は、その場の誰の脳をも真っ白に染め上げた。
「──いちばん最初に俺を殺した奴が、この全てを総取りだ。まとめて来い」
オレも、観客席の野郎共も、少女も、呆気にとられて声すら上げられない。
「言葉が足りないか。つまりは俺とアンタら全員とで、賭けをしよう」
紫苑がサーカスの開幕を告げる司会者みたいに、大げさな素振りで両手を広げる。
「指に挟んだ煙草なんて放り捨てろ。掴んだ酒の缶は頭から被って酔いを覚ませ」
そして紫苑は岩猿や少女に見せた時と同じく、上半身を軽く屈め、左半身を前に出し、腰を少しだけ沈め、軽い構えの姿勢で宣言する。黒い仮面に包んでいる顔だけ、観客席で腰を下ろす、有象無象の命知らずへと向けた。
その大小6つ紫色の球が並ぶ、蜘蛛の複眼を思わせる仮面が、雁首を並べる無法者へと睨め付ける。淡い紫に揺れる前髪と、無機質な蜘蛛の眼光が、怖気さえする高揚を以って男達の……ロクデナシ達の尻に火を点けた。
紫苑が続いて何かを言うより先に、誰かが観客席から飛び出す。
続くように、また別の馬鹿野郎が闘技場へと躍り出る。
「え、えっ……えぇ?」
「ほらほら、何をボサっとしているんだ。アンタも早く来いよ」
寝起きから上手く状況を飲み込めず戸惑う少女へ、紫苑が背を向けたまま急かす。
「でないと……うっかり誰かが、アンタより早く俺を仕留めちゃうかもだぜ?」
この場でただひとり仮面を着けていない少女の顔色が、みるみる青ざめていく。
「そっ」
突如として足元が爆ぜたように、少女が飛び上がって巨大ノコギリを振りかざす。
今に泣きそうな切羽詰まった必死の形相で紫苑の背をめがけて駆け出す。
「それだけはダメぇえええっ!」
無法者共が差し向ける凶刃や弾丸や雑多な
紫苑がくるりと身を翻しただけで、その全てを紙一重で避ける。
仰け反った紫苑が、通過してゆく巨大ノコギリの鎬に、マスクの口元を当てた──軽いキスをした。
それがゴングの代わりだった。
シオン、対、パンドラに集った全員……という大勝負の。
「さあ、宴を始めよう」
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