紫電スパイダー

緑川蓮

Chapter1 VS『岩猿』

#1-1「片玉だいたい350万円」


 オレが肩に掛けている竹刀袋の中身は真剣だ。

 家守組の2人に連れられ、今日も新宿の裏通りへと入り込んでいく。

 バーだか風俗だかよく分からん店の軒先に、うめき声を漏らすオッサンがヨガみたいな体勢で転がっていた。見ないことにする。この辺じゃあ3日にいっぺん位はよくある景色だ。

 たまに全裸にアザだらけの知らん人が、ゴミ捨て場に刺さったまま事切れている時もある。

 それはちょっとレアだから、運良く見れた日は、何か良い事があるかもしれない……と勝手に思っている。


 ゴミ捨て場を過ぎて3分くらい歩けば、オレの仕事場に着く。

 赤いネオンに彩られた『Barバー Pandoraパンドラ』という文字が見える看板の真下は、地下へ続く階段に繋がっている。

 コンクリの所々にクラックが入った階段を下りていけば、やがて木造の簡素な扉に行き当たる。


 金属製のドアノブを引けば、むせ返る様なアルコールとタバコの臭いが出迎えた。

 荒々しく凶暴なメタルが空気を震わす店内は、バカみたいな大声と罵声と笑い声が飛び交っている。グラスを磨いているマスターは視線だけオレの方に向けた。

 マスターはオレがポケットから取り出した黒い会員カードを見るなり、顎先で店の奥側を示す。それからまた惰性で磨かれるグラスに視線を戻した。

 オレは竹刀袋と一緒に背負っていたリュックからマスクを……黒地に黄色い模様でデザインされたガスマスクを……取り出し、着けながら進む。

 マスターが促した先にあるのは、黒く重厚な鉄扉だ。


 横合いには2人の従業員が控えていて、オレ達が扉へ向かうのを見計らい、取っ手に手をかける。もったいぶるように扉が軋んだ音を上げ、そこのテーブルとは比較にならない騒音が、熱気をはらんで殺到した。


 鉄扉の先には、すり鉢状のスタジアムが広がっている。


 スタジアムの中央は闘技場がある。闘技場の地面は捲れ上がっており、色黒い模様もあちらこちらに見える。血痕だ。ひょっとしたら今日もオレが来る前に誰か死んだのかも知れない。


 闘技場の中央で向き合っているのは、片や青竜刀を握る男……こちらは渦巻き模様の仮面を被っている……と、筋骨隆々の大男……こちらはゴリラがモチーフの仮面を被っている……だ。

 声援と呼ぶには荒々しい野次が降り注ぐ中で、彼らは悠然とした様子で相対する。


「さあさあさあさあッ! 次の死闘が始まるぜッ! 血飛沫あげろ、踊り狂えやッ! Betは200万だッ! コードネーム『螺旋らせん』ッ、対ッ、コードネーム『岩猿いわざる』ッ、レディーッ……」


 あちこちの古ぼけたスピーカーから、レフェリーのコールが響く。


「……ファイッ!!」


 ひときわ強い歓声が轟く。

 ゴングが鳴る音と同時に、螺旋は岩猿に向かって駆け出した。

 岩猿はガントレットを嵌めた両腕で構えたまま螺旋を待ち受ける。

 両者が間合いへ入る、その瞬間に、思い切り拳を振りかぶる。

 返り討ちにしてやろうという魂胆だ。

 しかし岩猿の拳は空を切った。

 カウンターを読み切っていた螺旋は真上へ高く飛び上がる。

 岩猿の真上から、青龍刀の一閃が迫る。

 そして岩猿は脳天から両断──されなかった。


 突如として地面から突き出た石柱が、落下する螺旋のみぞおちへ深く食い込む。


 空を切った岩猿の拳は、そのまま地面に叩きつけられている。

 石柱は拳の真ん前から生えて屹立している。

 次いで岩猿は、今度は左手を地面へ打ち付ける。

 地面が荒れたあちらこちらから、石柱の上で吊り上げられている螺旋に向かって、幾つもの石つぶてが飛来する。

 お手玉のようにさんざ打ち据えられてから、螺旋は重力に任せて落ちてくる。

 落ちてくる螺旋のちょうど顔面を……岩猿の裏拳が、強かに捉えた。


「勝負ありッ! 勝者ッ……岩猿ゥウウウッ!」

「ゥゥゥウッホォオオオラァアアアァイ!」


 ボロ雑巾のように打ち捨てられたままで動かない螺旋をよそに、岩猿は両手で胸を叩きながら……ドラミングしながら、一身にスタジアムを揺るがす歓声に応えた。

 観客席からは勝者への称賛や、敗者への罵倒などが、悲喜こもごもとなって響く。


 ──この世界には『篝火イグニス』という名の異能がある──。


 オレは螺旋と岩猿の顛末を適当に見やりつつ、スタジアムの階段を下りていく。

 一番下まで下りてくれば、そこには参加者用の受付席がある。レフェリーも座っている受付席で、オレはまとめられた札束を5つ投げやった。

 それから会員カードを差し出して言う。


「岩猿との賭けをしたい」


 ──通常ならば、その行使は法律で厳しく制限されている──。


 受付の男は「岩猿との賭けですね」とだけ短く言い捨て、賭け金を受け取り、会員カードを見やる。手元のタブレットにオレのコードネームと何かを打ち込んで立つ。

 それからスタジアムと闘技場を分ける壁の扉を開き、進むよう手先で促した。

 これが大一番だと思えば、当然ながら思う事もある。

 オレは緊張していた。口を丸めて息を大きく吐き出す。

 1億円あった借金も、9500万は返済した。残るは500万だ。

 500万円もの賭けに乗ってくるのは、ここでは岩猿くらいのもの。アイツに打ち勝って、オレはようやく自由を手にするんだ。


 ──だからこそ裏社会ではこの様な賭博が横行する──。


「さあさあさあさあ次の祭りはッ! おっとッ、チャンピオン岩猿をご指名だァ! 名乗りを上げるはコードネーム『炎馬えんま』ッ!」


 持っていた竹刀袋から黒い鞘の日本刀を取り出し、スタジアムに降り立つ。


 ──暴力も凶器も、篝火イグニスだろうが何でも有り。

 生死問わずの賭け『ヴェリタス』が──。


「なけなしの小遣いをありがとうよ。その金髪からケツ毛まで、全部すっかり丸ごと毟っちまって良いんだな?」

「テメエこそ今の内に財布を出しときな、ボス猿。金玉まで質に入れる準備しとけ」

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