#1-5「紫電」
途端に静まり返る会場の中で、岩猿の呆気に取られた声だけがこだまする。
遅れて、斬られた腕の断面から、ホースのように血流が溢れ出す。更に遅れて岩猿が、絞り出すように絶叫し出した。
会場の誰も何が起こったのか分からない。
敗け知らずの岩猿が、しかもティタノマキアという岩の鎧を纏う、岩猿の腕がスッ飛ばされた。
それだけの事実しか分からない。
驚愕と困惑に満ちる場で、たったひとりシオンだけは岩猿へと歩み寄る。目の辺りに紫色の球が都合6つ並んだ黒い仮面で、膝をついた岩猿の顔を覗き込む。
まるで蜘蛛の複眼を連想させる仮面だ。
その奥から冷ややかで静かな声が紡がれる。
「大げさに騒ぐな。片腕が無くなっただけだろ。まだ戦えるよな?」
何度目になるか、岩猿の猿叫が空気を震わす。
ただし今度のそれは、これまでと比にならない怒気を孕んでいた。
「【
辺りの石柱から、石の壁から、都合10体もの
それだけに留まらず、岩の腕がまるで悪魔の腕みたく鋭く肥大する。周りの残った石柱も大蛇の様にうねり出す。壁から大小さまざまの槍が生え出す。
コンクリートがお祭りを始めた。カルト宗教の儀式みたいな、おぞましい祭だ。
どっちが地面だか、目が回って来そうな光景に、岩猿の本気に囲まれて……シオンは上半身を軽く屈め、左半身を前に出し、腰を少し沈め、軽い構えの姿勢を取った。
そして嬉々とした声色でボソリと言う。
「そう来なくっちゃ」
「塵も残さずに磨り潰してやるぜ、シオン!」
槍が乱れ飛ぶ。柱がのた打ち回る。石礫が降り注ぐ。
たくさんの巨人が殴りかかってくる。その真ん中へとシオンが駆け出した。
「さあさあさあさあッ! まさに驚・天・動・地ッ! かつてこんな戦いを、ここで見た事があるかッ!? 岩猿が岩の津波を起こすッ! 巨人の兵団が一挙一動で地面を震わし叩き割るッ! 対して彗星の如く現れた
45度に傾斜した足場を。
崩れ落ちる石柱の上を。
何もない空中を。
巨人の腕を。
所構わず駆け抜ける。
槍の雨も瓦礫の散弾も巨人の拳も全てを置き去りにして。
目指す先は岩猿自身が入り込んでいる岩石巨人だ。
岩猿は迎え撃つように、その背から幾つもの巨腕を岩石で作り上げる。
「さあさあさあさあさあさあさあさあッ! 賭け金は有り金の全部と矜持ッ! 店の名はバー・パンドラッ! 岩猿ッ、対ッ、シオンッ! 今宵、この瞬間が痺れる程のクライマックスだッ!」
一瞬だけ静まり返った先程とは打って変わっていた。
会場のボルテージは最高潮に達している。
岩猿は背から生やした無数の腕を振りかぶり、シオンへと肉薄する。
走る両者がついに交錯する──。
「【
「そうか。俺は俺だ」
──シオンは全ての巨腕が自分へ迫る直前に、思い切り腕を真横に振り抜いた。
「【
ふたたび紫色の電光が迸り、シオンの周り全てを打ち砕いて切り裂く。
纏う岩石の鎧すら粉々に剥がされ、岩猿は全身から血飛沫を上げて崩れ落ちる。
高く積み上がった岩のアスレチックも同様に、全てが崩落してゆく。
盛大に砂塵を巻き上げ、瓦礫の山へと成り果てる。
徐々に砂埃が晴れてゆく。
岩猿は上半身が瓦礫へ埋まっており、下半身だけ出したまま動かない。
そこから少し離れている、瓦礫が積み重なる山の頂点へ、シオンがブーツの靴底を鳴らし降り立つ。
雑に埋まっている岩猿の方を見下ろすと、彼は言い捨てた。
「チェックメイトだ。岩猿とか言ったか。楽しかったぜ」
「しょ……勝負ッ、ありッ! 勝者ッ……シオォオオオオオンッ!!」
スタジアムがひっくり返るかと思う程の、大歓声が湧き上がった。
◆
生温い夜風が淡藤色の髪をもてあそぶ。
古ぼけたビルの地下から石階段を上り、仮面を着けた一人の少年が姿を現す。
少年は仮面からブーツに至るまで、すべて漆黒の装いに身を包んでいる。左手には大きく無骨なアタッシュケースを提げていた。
溜め息をひとつ吐いてから、彼は仮面を外す。
夜も更けてきた頃だが、喧騒が路地ひとつ隔てている向こうから鳴り止まない。
少年はそちらの方へと爪先を向けて歩き出した。
「待ってくれ!」
しかし新たにビルから飛び出してきた、満身創痍の少年が彼を呼び止める。
吊り目と金髪が、オーバーサイズのストリートファッションに馴染む少年だ。
ただし所々に浮かぶアザと血痕と、腫れ上がった顔面さえ無ければの話だが。
彼……先程までコードネーム・炎馬と名乗っていた少年に呼び止められ、淡藤色の髪を揺らす少年は、足を止めたまま黙っている。
一馬は言葉を探していたようで、しばらく両者の間に沈黙が流れる。やがて一馬はおずおずといった様子で口を開く。
「お前は、何者なんだ?」
「人の事を尋ねる時は、まず自分から名乗れ」
一馬に対して振り返らぬまま、彼は冷ややかな声で返した。
「……俺の名前は
一馬の名乗りを聞き届けると、紫髪の少年が彼の方へ振り向く。
色白く端整な顔立ちから、切れ長で鋭い紫紺色の眼光が、真っ直ぐに射抜く視線を投げかけた。
「
再び夜風が流れて、その内に籠もった熱を相対する2人へ吹き付ける。
黄河一馬が藤堂紫苑を追い掛けて階段を駆け上がってきた事には、そして不躾にも呼び止めた事には、明確な理由がある。
すなわち、どうしようもなく思ってしまったのだ。
この紫苑という男みたいに強くなりたいと。
「何だってんだ一馬ァ、いきなり飛び出してよォ!」
紫髪の少年……紫苑が名乗った後から、今度は一馬を監視していたハズの、家守組の若頭・阪成と組員が階下から駆け上がってくる。
彼らは一馬の姿を見るなりすぐ肩を掴もうとするが、その手が空気の壁で阻まれたように勢いを失う。ただならぬ面持ちで真正面を見据える一馬の先に、今しがた岩猿を圧倒的な格で下した男が……紫苑が立っていたからだ。
「丁度いい、俺もアンタらに訊きたい事がある」
そう言いながらおもむろに紫苑が一馬達の方を指差したので、一馬ら3人は同様に身構える。紫苑は彼らの様子を意にも介さずに続ける。
「場所を変えよう。まずは一馬の怪我を手当てしてやれ。それが済んだら──……」
紫苑は一馬たちを指差していた手で、今度は親指で自身の背後を指し示す。
それから口の端を吊り上げて言う。
「……──カニを喰いに行くぞ」
それを聞いて一馬と家守組の2人は、全く同じタイミングで首を捻った。
Chapter1『VS岩猿』END
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