夜の乙女の婚約【後篇】
「紹介にあずかりました、ウォルター・パーキンズでございます。ヒカリ様、お見知りおきを」
ポーズを解除すると、ウォルターさんの自己紹介から再開した。
いたずらっぽい笑顔に不覚にも、ときめいてしまう。惚れた弱み、なのかな? これも。
折角だから乗っかってみようか。
「お初にお目に掛かります、パーキンズ様。丁寧なご挨拶、痛み入りますわ。……ぶふっ」
耐えきれなかった。
あたしにつられて、ウォルターさんも笑い出す。
ブレット様が生温かい目でこちらを見ている気がするけれど、一度笑い始めてしまったらなかなか止まれなかった。ふたりして一通り笑ったあと、笑いすぎて目尻にたまった涙を拭いながら、ウォルターさんが口を開く。
「ヒカリ様、余裕ですね?」
「すっごいビックリしたんですけどね?」
「さすが“夜の乙女”といったところですか」
しばらく様子見をしていたブレット様にお褒めの言葉をいただいた。夜の乙女は“順応性が高い”とご存知なんだろう。
この国の情報統制、謎だなぁ。
そんなことを考えていたら、ブレット様に目で着席を促されたウォルターさんが、ためらいがちに義兄の隣に座った。
「とりあえず、拒絶されなくて安心しました」
「あたしがウォルターさんを拒絶するなんてこと、あると思ったんですか?」
「いきなり“パーキンズ侯爵家”に名を連ねることになったのです。ウォルターの不安も仕方のないことでしょう。ヒカリ様を信頼していないわけではありませんよ」
ブレット様の
さっきの言葉だって、義弟をフォローするためのものだった。
この人のご家族がウォルターさんを利用するとは思えない。
「ブレット様、ありがとうございます」
「俺のことは
「そんな畏れ多い……」
「
「……善処します……義兄上」
ほらやっぱり、良い関係じゃん。
その点は安心したけれども、やっぱり何がどうなっているのか謎は謎のまま。
何処から聞けばいいのかすら分からずに困っていたところ、ブレット様の方から助け船を出してくれた。
「申し訳ございません、ヒカリ様。こちらもまだ不慣れでして」
「いえ!」
「端的にご説明しますと、ウォルターの養子入りもヒカリ様との婚約話も、おふたりを守るためにと殿下がご提案くださったものです。パーキンズ家は代々髪色の青い者が多く、それで白羽の矢が立ったのかと」
「えっ? 養子も殿下の差し金なんですか……?」
差し金なんて言い方はまずかっただろうか。まあいいや、あたし“夜の乙女”だし。
ウォルターさんは困ったような、でもやっぱり楽しそうな、複雑な笑顔を浮かべている。
「殿下の意図をご理解いただくために、少し昔話をしましょう。何代か前の夜の乙女の話です」
そう言って、ブレット様が話し始めたのは、とても悲しい物語。
むかしむかし、平民の男と結ばれた夜の乙女がおりました。
夜の乙女は吉兆です。隣人たちも歓迎しました。
夫はとても優しく、働き者です。夜の乙女は、平民のつましくも穏やかな生活に満足していました。
しかし、その幸せも長くは続きません。
『俺たちの税金で暮らしているんだろう』
あるとき、ひとりの隣人が言い出しました。
そして続けて言うのです。
『それが税金なら、俺の娘にやる薬を買わせてくれ』
心優しい夜の乙女は、隣人に薬代を渡しました。
確かに、夜の乙女が結婚するとき、陛下から少しばかりの蓄えが渡されています。
しかし、彼女の希望でそれ以外は受け取っていませんでした。
その優しさのために、夜の乙女はそのことすら言い出せなかったのです。
転がり始めた石は自らの意思では止まれません。
その男を皮切りに、夜の乙女のもとには金の無心にやってくる者が後を絶たなくなりました。
ひとりだけ特別視するわけにはいきません。陛下から受け取った蓄えは一瞬で底をつきました。
もともと希死念慮が強くて食欲が希薄だった夜の乙女は、夫に隠して自らの食い扶持だけを削り始めます。
働き者の夫は、その勤勉さゆえになかなか異変に気が付けませんでした。家に帰るとくたくたで、すぐに眠くなってしまうのです。
それでも、一月もすれば妻の異様な痩せ方が目に付くようになりました。
夫は妻を問いただします。
『どこか悪いんじゃないのか』
夜の乙女は答えません。ただ『大丈夫』と繰り返すばかりでした。
口を割らないと悟った夫は、仕事に行くふりをして、日中の妻を監視することを思い付きます。勤勉な彼のこと、仕事仲間の協力を得るのは簡単でした。
早速、自宅の物陰に隠れて窓から様子を窺います。そこに、来客がありました。
『薬代をくれないか』
娘の薬代を無心しに男がやってきたようです。
夫の頭は真っ白になってしまいました。
『なぜあの男に金を渡したんだ』
男が去った後、やっと我に返った夫は夜の乙女に詰め寄ります。
見られてしまったのならと、妻はすべてを白状しました。
彼女が食事を取っていないと気が付けなかった夫は、強い後悔に見舞われます。
妻のため、必死に働いていたのに。なんという本末転倒でしょうか。
夫はその足で宮殿に走りました。
『夜の乙女と離婚します。どうか妻を助けてください』
夫の話はすぐに第一大蔵卿まで届き、宮殿から夜の乙女を迎えに馬車が出されます。
夫もその馬車に乗せてもらうことが出来ました。夜の乙女を説得する必要があるのですから。
『もう君と一緒にはいられない。別れてくれ』
己の不甲斐なさに顔をゆがめて、彼は言いました。
夫の稼ぎを内緒で他人に渡していたのです。怒られるのも当然、と夜の乙女はただ黙って受け入れました。
馬車に乗って宮殿へと連れられていく夜の乙女。振り返ることは出来ませんでした。
だから、夫が泣き崩れていたことを彼女は知りません。
夜の乙女がいなくなって、元夫は以前の生活に戻りました。
金の無心に来ていた者たちのその後は分かりません。
それぞれに事情がありました。悪い人間はいなかったと元夫は信じています。願わくは、平穏な生活を手にしていて欲しいと思っていました。
離婚して数ヶ月。
夜の乙女の訃報が元夫の耳にも届きました。世間はこの話題で持ち切りです。
曰く、元夫から虐待されて宮殿に戻っていたが、傷が癒えきらず死に至った。
曰く、市井の生活で病をもらったため宮殿に戻ったが、それでも治せなかった。
曰く、一方的に離婚されて宮殿に戻り、その心労で衰弱死した。
様々な噂が飛び交っていました。そのほとんどが元夫を貶めるものです。
愛する者が亡くなっただけでも絶望的なのに、なぜか彼は謂れのない中傷に晒されてしまいました。身近な人の中には彼を庇う者もありましたが、大勢の声に掻き消されて聞こえません。
悲しみと苦しみに支配された元夫は、自ら命を絶ってしまったのでした。
「……実際のお話なんですよね?」
「ええ、そう伝わっています。俺が読み上げたのは絵本の文言ですが、事実と掛け離れたものでもないでしょう」
「俺も、子どもの頃に聞いた覚えのある話でした」
ウォルターさんが頷く。
ブレット様、あれ全部覚えてたの……? どういう記憶力? 天才怖っ!
ま、まあ、とにかくだ。夜の乙女が市井で暮らした前例は、悲惨な結末を迎えたと。だから殿下はウォルターさんを貴族にしてくれたわけね。
「この件を受けて“会計報告書”という制度が出来ましたし、このように昔話として国民に流布されてもいます。同じことは起こらないと思いますが、ヒカリ様が野に下っては我々が守りにくいので」
「殿下たちのご配慮は分かりました。でも、ウォルターさんはそれでいいんですか?」
あたしにとっては一番大事なことだ。
恋人になることと夫婦になることは全くの別物だって、よく耳にした。
でも、あたしはウォルターさんと結婚したい。それくらい好きだし、現実的に人として尊敬できると思っている。殿下たちのお膳立ても、あたしの方は大歓迎!
だけど、ウォルターさんは? 身分の高い人たちに囲まれて、断り切れなかったんじゃないの?
「ウォルターの口から直接聞きたい話でしょう。執務室を訪れた際、殿下より宮殿内テラスの使用許可をいただきました」
「ヒカリ様、テラスまでご一緒願えますか?」
恭しく差し出された、想い人の手。
熱に浮かされたようにふやけた返事をして、引き寄せられるように手を重ねていた。
きちんとエスコートしてくれること。わざわざ雰囲気のいいテラスに移動すること。心なしか、握った手が熱いこと。
乙女である光ちゃんに、この状況で「期待するな」という方が無理だった。
ドキドキしすぎて、別れ際にブレット様と挨拶を交わせたのかも、どんなルートで移動したのかも覚えていない。頭が真っ白、というのはきっとこういう時のための言葉だ。
いつの間にか辿り着いていた、宮殿内テラス。そこからの眺めは、返り咲きのバラで埋め尽くされていた。
「見事なバラ……」
「ヒカリ様は花がお好きだと殿下が教えてくださいました。あなたと話すのにこれ以上の場所はないと」
「殿下がそんなことを?」
殿下のキューピッドである光ちゃんのキューピッドになろうとしたのかな? 言葉は合っているはずなのに、とっても変。
つい笑い声が溢れてしまった。音としては小さかったけれど、近すぎてウォルターさんにも聞こえたみたい。
「ヒカリ様は本当に殿下と仲がよろしいのですね」
「仲がいいっていうか……。お互い友人が作りにくい立場なので、妙な連帯感があるというかなんというか」
「……嫌だ、と思ったんです。ヒカリ様と殿下が特別親しそうなことも、おふたりに婚約話が持ち上がっていたことも」
なぜだか浮気を咎められているような気分になった。「俺のことが好きだと言ったくせに」なんて声が聞こえてきそうだ。
そのせいか、答える声は言い訳がましく響いた気がした。
「でも、それは政治的な話で」
「もちろん分かっていますよ。俺はむしろ感謝しているくらいです。恋愛に疎い俺が自分の気持ちに気付くには、何かきっかけが必要だったみたいですから」
あたしの手を離したウォルターさんは、テラスから降りて花に近付いていく。
つい、イケメンと花の驚くべき親和性の高さに呆然としてしまった。見惚れているうちに、そのイケメンが小ぶりな白いバラを手折る。
「俺と結婚していただけますか。誰よりもあなたに相応しくなりますから」
跪き、花を差し出しながらウォルターさんが言った。
白いバラの花言葉は“私はあなたにふさわしい”。……きっと、殿下の入れ知恵だ。
顔が熱くて、とにかく熱くて、どうにかなってしまいそうだった。
「は、い。喜んで」
緊張で声が掠れる。受け取ったバラを枯らしてしまうんじゃないかってくらい、手のひらも熱かった。
「告白はあなたにさせてしまったようなものでした。だから、これからは俺がヒカリ様に愛を囁きます」
耳元で囁かれた声に、今度こそ頭の中は真っ白け。
結婚はゴールじゃないとはよく聞くけれど、波瀾の幕開けだなんて誰も教えてくれなかったよね!?
イケメンにわけ分かんないくらい甘やかされて、たびたび瀕死の憂き目に遭うことになるんだけど、それはまた別のお話。
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