一時帰宅の一悶着

 教会からとんぼ返りしたアビゲイルを待ち受けていたのは、次期公爵のフランシス・バンフィールドだった。


「教会になんの用だったのかな、アビゲイル?」

「お伝えするほどのことではございませんわ、お兄様。お待たせしてしまったのならお詫びいたします」


 柔らかすぎる笑みをたたえながらフランシスお兄様がアビゲイルに迫る。使用人たちに行き先が教会であることは知られていたのだから、この状況も想定内だった。アビゲイルは、話すつもりはないと含ませながら浅いカーツィで応じる。出来るメイドザラも貝のように口を閉ざし、自分の主アビゲイルに追従する姿勢を貫いた。


 聞き出したいフランシスと喋る気のないアビゲイル。お互い譲らず、しばしの硬直を経て、結局兄が折れた。小さく溜息をつきながらアビゲイルの手を取り、軽く口付ける。


「頑張りすぎないようにね」


 幼子をあやすように言って、フランシスは立ち去った。その背中にアビゲイルが声を掛けようとしたとき、声になる前にアビゲイルの方が呼び止められる。


「アビゲイル!」

「お父様……なぜお家にいらっしゃるの?」

「ちょっとした問題があってな……学園には使いをやるから、少し話せるか?」

「かしこまりました」


 アビゲイルの父、バンフィールド公爵が務める第一大蔵卿という役職は、現代でいう首相のようなものである。普段は宮殿で仕事をしていて、通勤時間わずか10分程なのに帰りは大抵夕食時、持ち帰りの仕事があることも珍しくない上、飛行機も新幹線もないこの世界で、頻繁に出張する。国で最も多忙な人物と言って差し支えないだろう。


 そんな父が昼中に在宅するというのは並大抵のことではない。しかも、今出発しなければパーティーに遅れてしまうのを分かった上で、アビゲイルにしなければならない話があるとなれば、ほぼ間違いなくゲームでいう“断罪イベント”についてだ。おそらく第二大蔵卿の動きを察知したのだろう。


 父のあとについて書斎に入った。ザラは書斎前で待機するように父から命じられ、アビゲイルがひとつ頷くと一礼して書斎の扉を閉めてくれた。ふたりきりで、しかも居間ではなくこちらに案内されたことからも、政治的な話で間違いはなさそうである。


「好きに掛けなさい」

「はい、お父様」

「さて、アビゲイル。卒業パーティーに早く行きたいかな? パーティーは楽しめそうかい?」


 いたく真摯に問われた内容に、アビゲイルは困惑した。獅子の子落としを痛痒なさげに繰り返してきた、この合理主義に服を着せたような父が「ただ娘と学園の話がしたいだけ」などというはずはない。まして、暗に遅刻しろと要求しておいて、そんな理由で引き留めただけとは、父自身が1番嫌う身勝手である。だが、合理主義が故に時間の無駄になりかねない迂遠な物言いも、するとは思えないのだ。


「そうですわね……突然の欠席や遅刻は恥ずべきことですから早く行きたいとは思いますが、お父様がわたくしを無闇に引き留めるとは思えませんので答えとしては“いいえ”ですわ。楽しめそうか、と問われると……難しい、としかお答えしかねます」


 困惑のまま黙り込むのは公爵令嬢らしからぬ対応である。スムーズとは言いがたいかもしれないが、内心の動揺に比べれば大分落ち着いて返答できたのではないだろうか。

 父の意図が読み切れないアビゲイルは固唾を呑んで次の言葉を待った。頭の中では断罪イベントのあれこれがぐるぐるしている。


「恥ずべき、か……その“突然の欠席”を提案しようと思ったのだがね」

「……お父様は何をご存知なのですか」

「詳細は省くが、第二大蔵卿が我が娘を陥れようとしているらしい。それと、夜の乙女とラッセル殿下の婚約話が持ち上がっている」


 この流れで“夜の乙女”が召喚された少女、つまりゲームのヒロインを指していなかったら詐欺だが、そんなことは流石にない。召喚された少女は皆、黒目黒髪である。髪も瞳もカラフルなこの世界においてはその特徴が目立つため、いつからかそう通称されるようになった。


 それはさておき、やはり第二大蔵卿が裏で糸を引いていたようだ。それを嗅ぎつける父だと思うと背筋に冷たいものを感じたが、身内で心底安心した。その情報を持っているなら、卒業パーティーで何が起こるのかはほぼ正確に予測しているだろう。


「それは……欠席に足る理由になりますわね」


 迂闊に喋ればアビゲイルの悪役令嬢完遂計画が水泡に帰す可能性まである。下手を打たないよう言葉を選びながら、そもそもこの状況について考えた。ゲームの知識を持つアビゲイルとヒロインである光以外の人間が、シナリオを外れた行動をするとは考えづらい。ならば、未来を知らないゲームのアビゲイルもこの話を聞いて、それでもなお出席を決めたはず。

 未来を知らなかったならどうしたか……深く考えずとも、答えは出た。


「ですが、わたくしは戦わずして謀略から逃げ出すのも嫌ですの」

「相手の策に嵌まりに行くことになってもか?」

「毅然と受けて立ってこそではありませんこと? わたくし、やられるばかりにならぬよう、お父様に育てていただいたと思っておりますが」

「……お前に判断材料をやりたかっただけだ。好きにしなさい」

「ありがとうございました、お父様。失礼いたします」


 ひときわ丁寧なカーツィで父に別れを告げた。断罪イベントが上手くいけば、これが今生の別れとなるかもしれないのだから。


 ――仕事漬けのお父様とはそもそも顔をあわせる機会が少なかったのだから、あまり変わりはないわ。

 だから、目頭が熱い気がするのはきっと気のせいなのだ。


「話は終わったの?」


 俯き気味に歩いていたせいで人の気配に気付かなかった。ポーカーフェイスを意識しつつ顔を上げ、声の主であるフランシスに応じる。


「ええ、急いで学園に参りますわ。お待たせして申し訳ございません」

「そう、行くの……では、アビゲイル。手を」

「はい、お兄様」


 本日の卒業パーティーでアビゲイルをエスコートするのは、兄であるフランシスだ。なぜ婚約者であるラッセルがエスコートをしないのかといえば、“夜の乙女”が最重要の国賓として遇されているからである。“夜の乙女”に特定の相手がいないため、最も身分の高い王太子がエスコートせざるを得ない状況なのだ。


 ゲームのシナリオでは、王太子以外のルートに入れば卒業パーティー前に交際が認められ、攻略対象者とパーティーに参加できるようになっていた。王太子は王太子だけに婚約の破棄にも確たる理由と手順が必要なのである。そもそも王太子以外のルートに婚約者は出てこないのだが、ゲームの話はおいておこう。


「お兄様の助言には耳を貸してくれないようだから、僕もアビゲイルに遠慮はしないことにするね」


 なんの話か分からず返答に窮していると、もう目の前には馬車という位置まで来ていた。その御者がハリソンに戻っていて慌てかけるが、ウォルターもその場にいる。ほっと息をつきかけて、ウォルターの格好をきちんと認識するなり、やはり狼狽えてしまった。執事のお仕着せを身につけていたのである。


「さあ、学園に向かおうか。家からはそこそこ距離があるからね。話をする時間はたっぷりあるよ?」

「お兄様……最初からそのつもりで……」

「アビゲイルが行かない選択をしてくれたらウォルターは解放するつもりだったんだよ? 自分の頑固さを恨むといい」


 穏やかな笑顔の兄は、少し怒気の感じられる声で告げたのだった。

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