婚約破棄の前準備

 まずアビゲイルがしたことと言えば、大急ぎで馬車の支度をさせることだった。とは言ったものの、元々出発予定時刻まで1時間を切っており、優秀な公爵家使用人たちは支度を終えた状態ではあったのだが。

 ただ一点、使用人たちが戸惑い、対応に少々時間を要したことがある。


「御者をハリソンからウォルターに代えてほしいの。急いで着替えさせて頂戴」


 普段、使用人たちに無理な要求をすることのないお嬢様の、非常識とも取れる命令。思いがけない事象に、その場にいたほとんどの者が固まってしまった。大事なパーティーに出向くというのに予定を急遽変更するなんて、格式を重んじる貴族は余程のことがない限りしない。しかも、御者をベテランから最年少に、言ってしまえば「格を下げる」変更をするなんて、とても“お嬢様”の言うこととは思えなかった。そもそも、大事なパーティーの直前だというのに、これからどこへ行こうというのか……。


 誰もが声すら発せない中、忠誠心が強くて1番“お嬢様”を信じてくれているザラがアビゲイルの後ろから進み出て、てきぱきと指示を飛ばした。そうして、少し時間はかかったが、最年少の御者ウォルターの操る馬車に揺られて、教会へ向かうことには成功したのである。最年少とはいえ、ウォルターは22歳。慣習的にベテランのハリソンが選ばれていたというだけで、ウォルターの御者としての腕に不足はない。

 ちなみに、ウォルターは髪も瞳もこれぞまさしく、という青色をした誠実そうな青年で、ちゃっかり顔も良い。ここは乙女ゲームの世界であるからして、イケメン率は必然、高いのだ。


 少々蛇足になってしまったが、ウォルターを指名したのには当然、確固たる理由があり、彼無しでは、公爵令嬢の平和な平民落ち――間違ってないのに言ってる意味が分からないな?――は成されない。かといって強制するのは人道にもとる。

 そのため、教会への道中、箱馬車の前輪側の座席で、御者との連絡用に設えられた小窓にかじり付くような体勢になりながら、ウォルターに事情を説明した。高価なドレスを身に纏った令嬢は決してそんな格好はしないのだろうが、誰も見ていないし、そもそも死活問題なのだ。そんなこと知ったことではない。……一切口を挟まないどころか気配さえ消して、決してこちらを見ないでいてくれるザラは、本当に出来たメイドである。


「お嬢様のお役に立てるのなら、喜んで。身寄りのない僕に幸せをくださったバンフィールドの皆様に、やっと少し恩返しが出来ます」


 黙って話を聞いていたウォルターが、話し終わるなり二つ返事で了承した。

 ウォルターを選んだ理由のひとつは、天涯孤独だからである。10年前、アビゲイルの父であるバンフィールド公爵がノブレス・オブリージュに則り、流行病で両親を亡くしたウォルターを住み込みで雇い入れた。ウォルターにとってバンフィールド公爵は、いわば救世主であり、バンフィールド家に生かされてきたと言っても過言ではない。


 だが、それは貴族が成すべき社会奉仕だったわけで、必要以上に重く捉えることではないと思う。ウォルターは人当たりがいいため、バンフィールド家に雇われた他の孤児たちとも仲が良く、自分が雇われたのも慈善活動のうちであったと了解していたはずだ。


 正直アビゲイルは、断られることを覚悟していた。なんとか首を縦に振ってもらうために、自身に何が差し出せるのか指折り考えていたくらいである。それほど無茶なお願いだと、承知していた。それなのに……。

 教会に到着したため、馬車から降りて、ウォルターに向かい合う。


「ありがとう、ウォルター……けれどね、あなたはそんなにも当家に縛られる必要はないのよ。貴族として当然の行いなのだから。今回は甘えてしまうけれど、どうか自由に生きて」

「僕がバンフィールド家に居たいから居たのです。お嬢様のお力になりたいから、ご協力するのですよ。お嬢様こそ、使用人のためにそんなにお心を砕く必要はないのです。……さあ、参りましょう」


 遠慮の言葉はもういらないとばかりに、ウォルターが唐突に声音をうやうやしいものへと変えて手を差し出した。そのエスコートに従って、いざ教会の聖堂へ。


 ――大丈夫、大丈夫よ。わたくしはバンフィールド公爵令嬢。緊張で震えたりなど、しないの。

 ポーカーフェイスで武装して挑んだアビゲイルだが、手続きは拍子抜けするほどあっさり終わってしまった。受付してくれたのが顔見知りの司祭だったからなのかもしれないが、出された書類を読んで、サインして終了。


 パーティーに支障を来さず一安心なはずなのに、呆気なすぎて不安になる。時間の猶予がなかったとはいえ思いつきのまま実行してしまったが本当にこれで対策が出来たのか、そもそもこんな短時間で手続きに不備はなかったのか、不備がなかったのならウォルターはもう後戻りができないけれど本当に巻き込んでよかったのか――


「私が付いております」


 ひどく穏やかに、ザラが言った。

 渡された証明書を握ったアビゲイルの手に、自らの手を重ねながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。ザラにとっての主は、生涯アビゲイルだけだと何度思ったことだろう。


 馬車の中で、アビゲイルがウォルターに語った卒業パーティーで起こるだろう謀略は、俄には信じがたい内容だった。しかし、話しているのは他でもないお嬢様なのだ、疑う余地など何処にもない。そんなことよりも、こんな日、こんな時にだって、静かに気高く在るアビゲイルが心から誇らしかった。そんなお方についていくことこそが、ザラにとってはなによりの幸せなのである。


 平民になってもどこへ行ってもアビゲイルを支えるのだという確かな意思をその瞳から感じ取って、アビゲイルの心は奮い立った。信じて付いてきてくれる者がいるのに、くよくよしているわけにはいかない。それから、手から伝わるザラのぬくもりに、緊張や不安で自身が冷え切っていたことも自覚した。穏やかなザラの表情に、心が凪いでいくのが分かる。


「お嬢様をお助けするのは、今日から僕の役割になると思ったんですけどね?」


 ウォルターが冗談交じりに割って入った。ザラが握っているのとは反対のアビゲイルの手に、彼もまた、自らの手を重ねる。その体温と、一縷の後悔も感じさせないその声色に、アビゲイルの不安がまたひとつ霧散した。人の心のなんとあたたかいことか。


「折角間に合うはずの卒業パーティーに遅れてしまいますよ?」


 手続きが終わり、証明書を受け取ったままの体勢だったアビゲイルに、今度は司祭から声が掛かった。


 ――本当に、なんてあたたかい。

 きっと、この司祭は出来うる限りの最短時間で手続きを終わらせてくれたのだ。ただ顔を知っているだけの少女のために。その厚意を無碍にしていいはずがない。


「ご配慮に感謝いたします」


 最上の厚意に、最上の誠意で以てカーツィをした。正式ではないが、書類で塞がる両手は優しさを抱くように交差させて頭を下げる。隣にいるザラとウォルターもしっかりと礼を執っていた。頭を上げてすぐに踵を返し、歩を進める。


 ――若者たちに祝福を。

 背後から声がした気がしたけれど、振り返ってはいけない気がした。

 だから、司祭が十字を切ったことは誰も知らない。まっすぐ進むその背中を、見えなくなるまで嬉しそうに見つめ続けていたことも、もちろん知らないのだ。

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