転生先のヒロインが親友だったので悪役令嬢を全うします。

蒼月 櫻

本篇

パーティーの朝の憂鬱

「おはようございます、お嬢様」


 控えめだけれどもはっきりとした声掛けに、“お嬢様”は目を開けた。紺色のお仕着せが、その視界に入る。と、思ったところでふと疑問が湧いた。

 ――初めて見るはずのこの景色を、見慣れたと思ったのは何故だろう?


「本日はお寝起きが悪うございませんか? お体の調子が優れないようでしたら、旦那様にお伝えしますが……」


 目を開けたにも関わらず、一向に動き出さない“お嬢様”に、メイドの心配そうな声がかかった。


「問題ないわ。ありがとう」


 咄嗟に答えて身体を起こした“お嬢様”だったが、やはり、何かがおかしい。いつもの“自分”と言い方が違う。なぜだかすらすらと言葉が出たし、知らないはずのメイドにとても親しげな調子になってしまった。

 疑問に感じているのに、身体が自然と身支度を調えていく。どうすればいいのか、身体が覚えている、と言えばいいのだろうか。無意識になすべき事をしていた。


 ――21世紀の日本で生きていた“自分”が、近世欧州風のドレスの着方を知っているのは何故だろう?

 疑問の答えは思いの外すぐに与えられることになる。


 身支度の過程で全身鏡を覗き込んだ時、急な目眩に襲われ、耳鳴りがして目の前は真っ暗になった。一般的な日本人らしい、黒目黒髪醤油顔のはずの自分が、金髪碧眼彫りの深いちょっとつり目の美人として映ったという驚きだけではない、未経験の特殊な衝撃。

 五感が麻痺したその一瞬に、“自分”つまり、日本人の“吉岡よしおか明理あかり”が死んでしまったこと、そして今は“お嬢様”つまり、悪役令嬢“アビゲイル・バンフィールド”として生きていることを、自覚させられた(という言葉が一番近いだろうか)のである。


 それからは、疑問と共に違和感も消えた。“私”はアビゲイルで、バンフィールド公爵家の長女である。生まれ変わりというものなのだろうから、明理の記憶も意識もあるが、同じ魂を引き継いで「明理であってアビゲイルである」ことが自然と受け入れられた。


 明理としての記憶や意識が覚醒したあの短い時間だけ、アビゲイルが上手く適応できなかったせいでちょっとした混乱があったが、現状、概ねアビゲイルである。……貴族というしがらみなく、自由に生きていた明理が悪魔のようにアビゲイルを唆したり、令嬢らしからぬ心の叫びを漏らさせるようにはなってしまったようだが、それに気付くのはもう少し後のこと。


「……お嬢様、やはり旦那様に……」

「いいえ、よくある立ち眩みよ。心配をかけて悪かったわね」


 起床時から度々気づかってくれるこのメイドは、約3年前の学園入学時から専属になったザラである。真紅の髪に碧の瞳をした年も近い彼女は、忠誠心が高く、よく気のつく優秀なメイドであり、アビゲイルが最も信頼する人物だ。

 ザラとの簡単な会話も一助になってアビゲイルが平静を取り戻すと、色々なことを認識できるようになった。この世界は、乙女ゲーム「ブリティッシュ☆ナイト」の舞台であること。アビゲイルは王太子“ラッセル・オブ・ステュアート”ルートの悪役令嬢として登場すること。そして、今日が学園の卒業パーティーの日であること――


 ありがちだが、卒業パーティーは悪役令嬢断罪イベントの場になる催しである。明理とアビゲイルの記憶を合わせて考えると、王太子ルートで歴史が進んでいることは間違いなさそうだった。


 ――そんなどうしようもないタイミングで思い出すとかどういうことだってばよ!

 つい少年漫画好きだった明理が出てしまったが、悪役公爵令嬢アビゲイルがすぐに冷静さを取り戻す。焦ったところで好転することはないと体感させられてきたし、そもそも取り乱すことのないよう教育を施されてもきた。好都合なことに、ドレスはもう身につけてあるため、ここから先は黙ってされるがまま髪やら顔やらセッティングされるだけである。だけといっても、入念に丹念に行われるそれらは、信じられないほど時間を要するのだ。


 ――考える時間は十二分にあるわ。

 公爵令嬢らしい優雅さで自らの心を落ち着けて、アビゲイルは白鳥の水掻きのごとく思考を巡らせ始めるのだった。


 まずは明理の持っている情報を整理するのが最善手と判断し、ゲームについての記憶を探る。乙女ゲーム「ブリティッシュ☆ナイト」はその名の通り、近世英国を土台にした日本人受けしやすそうな世界観を持ち、現代日本から召喚された少女をヒロインに据えるシナリオだった。王道ではないがありがち。ご都合主義的世界観にご都合主義的ヒロイン。……。


 批判になりかねない感想はさておいて、ゲームの特性を思い出していかねば問題解決に繋がらない。アビゲイルは転移したヒロインについて考えるのが順当と判断し、再び明理の記憶を辿る。

 乙女ゲームは自分がヒロインになれることが売りなんだろうけれど、「ブリティッシュ☆ナイト」は振り切っていた。ヒロインに固有名がないのである。それどころか、ビジュアルすらなかった。ビジュアル無しは尖り過ぎでは……と、思ったこともさておこう。


 ここでの問題点は、ゲームにはとことん出てこないそのヒロインが、当然だがこの世界ではしっかり個人として存在すること。そんな普通のことがなぜ問題かと言えば……この世界のヒロインが、明理の親友だったから、である。

 ヒロインが見ず知らずの他人なら、公爵であり、国王の右腕第一大蔵卿である父に協力を要請し、裏からシナリオを崩壊させるのが早くて確実で、安心できる選択肢だった。が、相手が前世における無二の親友“和久井わくいひかり”というのなら、荒っぽい手は取れない。


「お嬢様、いかがでしょうか」


 ザラの声で現実に引き戻された。鏡台には、スチルで見た悪役令嬢がそっくりそのまま映っている。当の本人なのだから至極当然ではあるのだが、専属メイドの技量の高さに思わず感嘆の息が漏れた。


「完璧ね。流石ザラだわ」

「恐れ入ります」

「他の子たちにも伝えて頂戴」

「お嬢様の仰せの通りに」


 仕事を正当に評価するのも主の勤めである。仕上げはザラが一人で手掛けたようで、ほかのメイドたちが見当たらず、やむなくザラに伝言を頼んだのだった。

 心中はそれどころではない状態だが、またザラに心配を掛けるわけにもいかない。公爵令嬢お得意のポーカーフェイスのまま時計を確認すると、パーティーまではまだ余裕があった。やはりザラは優秀である。


「出発まで少しあるわね。昨日読み始めた小説はどこだったかしら?」

「こちらにございます」

「ありがとう」


 すべて心得ているかのように、寝所にあったはずの小説は出てくるし、いつの間にかアイスレモンティーは傍らに用意されているし……明理が覚醒したせいか、いつも以上に感心してしまった気がする。

 そんなことを考えているうちに、ザラは音もなく下がっていた。読書に集中しやすいよう、少し離れて控えてくれるのだ。出来過ぎか。


 うちのメイド自慢をしている暇はないので、本を開くポーズだけ取って一人脳内会議を再開した。断罪を回避しつつ、ヒロインつまりは親友が幸せになるルートをこの時間内に模索せねばならない。時間は十二分にあるとは誰が言ったのか。


 ――絶望的では?

 明理がさじを投げようとするも、公爵令嬢には立場というものがある。アビゲイルの方は諦めるわけにいかない。

 そもそもなぜ断罪されるかと言えば、「婚約者である王太子と異世界から来たヒロインが、急激に距離を縮めたことに嫉妬し、ヒロインに危害を加えた」という、ありきたりな冤罪。


 ――冤罪ではあるけれど、前半部分はあながち間違いでも……いや、それは現状無関係、ですわ……。

 アビゲイルの内心がどうあれ、王太子と仲良くするヒロインが嫌がらせを受けていれば、婚約者という立場上、犯人と疑われるのは当然というもの。だがしかし、ゲームの記憶もなかったのだから回避行動など取るはずもなく、王太子ルートのシナリオをひどく忠実になぞってきている。


 ――プレイヤーだったときは気にもしなかったけど、公明正大ってプロフィールにあるキャラクターがいじめなんかするわけないよねぇ。

 そう、アビゲイルはこれまで他者から公明正大という評価を得てきた。最高位貴族の名に恥じぬよう、自らを律して生きてきたのである。きっと、ゲーム内でだって冤罪だった。アビゲイルが王太子たちに反駁した内容こそが真実だったのだ。とはいえ、犯人が自らの悪行を否認することは珍しくもないのだから、信じてもらえないのも無理はない。


 こんなことを言うのはなんだが、第二大蔵卿の子息が断罪イベントで参謀的位置にいた気がする。第一大蔵卿子女のアビゲイルを罠に掛けようと思う理由は言わずもがな。

 きな臭さを感じるが、そこから弄ってはヒロインの幸せが保障されない。かといって冤罪でもなんでも、罰せられれば父に迷惑がかかる。明理の記憶を取り戻した今、“平民落ち”にはなんの抵抗もないのだが……。


 そこまで考えたところで、光明が見えた気がした。父に迷惑を掛けさえしなければ、シナリオ通りで構わないのだ。

 ――わたくし、親友のために悪役令嬢を全うしますわ!

 大きな問題の解決策を思いついた開放感のまま、アビゲイルは心中で高らかに宣言したのだった。

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