公爵一家の事情

 バンフィールド家は、父であるルシアン公爵と長子のフランシス次期公爵、末子のアビゲイル令嬢の3人家族である。母であるレベッカ夫人は産後の肥立ちが悪く、ルシアンがあらゆる手を尽くしたものの帰らぬ人となった。フランシスが8歳、アビゲイルが4歳のときのことだ。


 家庭を顧みる父だったルシアンは後妻を娶ることもなく、14年間一人で家族を守ってきた。

 顔は父親似だが母親と同じ銀色の髪と翠の瞳を持つフランシスも、年々母親に似てくるのに髪と瞳は父親と同じ色のアビゲイルも、ルシアンにとってはかけがえのない宝――それも、愛するレベッカの影を色濃く写した忘れ形見なのだから。


 一人で守ってきた、とはいったものの、上の子は顔だけでなく才覚までルシアンに似ており、とかく手の掛からない子だった。一度聞いたらほとんど覚えてしまえるため学業の出来は素晴らしく、おまけに品行方正。加えて、弱冠12歳にして領地経営をもこなして父のサポートまでしてみせるほど。

 下の子だって学業にしろ、10歳で始まった妃教育にしろ、粛々と努力を重ね、父の手を煩わせたことなど一度もない。


 ただ、母の不在は確実に子どもたちへ暗い影を落としていた。ルシアンは気の利くタイプでもなく、基本的に無表情な人間である。反面教師にしたらしいフランシスは笑顔で他者に壁を作るようになってしまったし、そのまま受け入れてしまったアビゲイルは愛想のない子になってしまった。

 愛想がないだけの娘はまだいい。問題は息子の方である。

 なまじ思考力のある年齢だったがために、母の死に目にあったことはフランシスを縛り付けてしまったようだった――。





「――アビゲイルをまもって……、しあわせに、なるのよ?」


 レベッカが今際にこぼした、フランシスへの願い。“しあわせ”が何か、年端も行かぬ彼にはよく分からなかった。だって、“大すきなお母さま”は傍にいてはくれない。他には別に望みなんかないのに。


「……はい、お母さま」


 だから、アビゲイルを精一杯守ることに決めた。“しあわせ”になれないなら、その分“守る”ことに注力すればいい。そうしたら、きっとお母さまが喜んでくれるから。

 事実、その返答を聞いたレベッカは満足そうに笑っていた。衰弱し、美貌が陰ってもなお、息子にとっては美しい母のまま。

 アビゲイル、と口の中で名を呼んでみた。呼び慣れないそれに早く慣れなければ。大丈夫、と自らに言い聞かせた。やってやれないことは、自分にはきっとないのだから。


 フランシスは幼少期から天才だった。大概のことは人より出来て、苦労をした記憶がない。

 そのせいか、欲というものが欠落して生まれたらしい。特に欲しいものも、なにもなかった。――母からの愛情を除いては。

 母の喜ぶ顔が見たくて学業に精を出した。喜んでくれたけれど、母はとても苦しそうで。

 母の心労を減らしたくて行儀良く振る舞った。褒めてくれたけれど、母はずっと辛そうで。


 それでも“いい子”にする以外にどうしたらいいのか分からなかった。誰かに教えを請えるような話でもない。

 分からないまま、母はいなくなってしまった。もっと分からなくなって、母の願いを遂行することに縋ったフランシスを誰が責められるだろう。


 元々、彼は妹のことがあまり好きではなかった。アビゲイルがいることで母の関心が半分になってしまうのだ。良い感情を抱けという方が難しい。

 そもそも、妹を産まなければ母は健康だったかもしれない。聡いフランシスは「産後の肥立ちが悪い」という家の者たちの声を聞いていたし、意味もなんとなく察していた。


 いっそ、アビゲイルが憎い。妻だけでなく、娘も愛している父にはなかっただろう感情。バンフィールド一家全体を愛してくれる使用人たちにもおそらく縁はない、感情。

 誰にも、どこにも吐き出せないまま、兄は妹を避け続けた。見れば非道いことがしたくなる。そんなことをしたら母が悲しむのは、火を見るより明らかだから。


 母が亡くなるまでのフランシスは、その年齢としては驚異的な精神力で妹を自分から守り続けていた。

 これからは、あらゆる負のものからアビゲイルを守らなければならない。


「おはよう、アビゲイル」


 葬儀の翌日のこと。朝食の席に向かう途中で、おそらく初めて自分から声を掛けた。

 あまりにも幼い妹は、母の死を理解できていない。

 葬儀中、棺は一度も開かれない方が一般的だった。“大きな箱”が母だとは、4歳児には分かるまい。死の概念すら把握できなくて当然の年齢である。

 だから、葬儀が終わってもまだ、いつか母は帰ると信じていた。信じているから、家中の空気が重くてもひとり、けろりとしている。

 その無邪気さが腹立たしかった。


「おはようごじゃいましゅ、おにいしゃま」


 この子はさ行の発音が苦手らしく、幼子らしい舌足らずさで喋る。真面目で素直な子らしく、所作の方はそれなりに整っているのにも関わらず。

 そのせいもあってか、話し方すら鼻についた。

 幼気な妹は何故だかじっとこちらを見つめ、にこにこしている。

 その顔さえも、苛立たしかった。

 フランシスは大きく息を吐く。己が負の感情を追いやろうとしてのことだ。


「ぼくの顔に、なにか付いている?」


 本当は「じろじろ見るな」と言ってやりたかった。そこをぐっと堪えて、母との約束のため、本心を真綿に包んで言葉にする。

 声色までは柔らかくできなかったが、妹には気付いたような素振りもなかった。


「おにいしゃまから、ごあいしゃつ、はじめて!」

「そう、だね。よく覚えてるね……」


 にこにこしたまま、兄に寄り添うアビゲイル。そのまま手を握ってきた妹に、フランシスは少なからぬ嫌悪感を抱いた。反射的に手を振り払わなかった自分を褒めてやりたい。


「おかあしゃまがね、いないの。しゃみしいから、おにいしゃまと、まちたい」


 彼の中で、何かが切れた。

 ――だれのせいで。ぼくからお母さまをうばったのは、だれだ――

 柔らかく掴まれていた手を振り払う。アビゲイルの目が驚愕に見開かれたのを認めたけれど、フランシスはもう止まれなかった。

 双方の付き人が焦る気配。それを察したところで、歯止めには到底なり得なかったのだけれど。


「お母さまは二度と帰ってこない。死ぬっていうのは、そういうことだ!」


 罵倒の言葉が出なかったのは、ひとえに素行良く過ごしてきた彼自身の功績である。咄嗟に出るのは普段の所作なのだから。

 大声を出したことで少し冷静さが戻った。妹に非道い言葉を投げつけずに済んで、フランシスは息をつく。同時に、いっそ罵ってやりたかったという黒い感情が渦巻いてもいた。

 大人たちの残酷な優しさによって、母の帰りを信じることが許されていたアビゲイル。兄に突きつけられた現実に、その目はみるみる歪んでいき、あっという間に決壊した。

 妹の付き人は、抱き締めるべきかと逡巡しているようだ。兄の方の付き人は、信頼しているらしく静観の姿勢を取った。


「だって……おか、しゃま……また、あえる、て……アビーに、いっ、たの」

「それは天国で、だよ。死ななければ天国には行けない」


 泣き出した妹を見て、フランシスの心にまた別の感情が湧く。いい気味だと嗤う黒い感情の裏で、庇護欲からくる愛しさとでもいうべきものが少し、顔を出した。今度は兄の方から繋がれた、てのひら。

 兄の言葉と体温で、アビゲイルの涙が止まる。呼吸は整いきらないが、幾分話しやすそうにはなった。


「しんだら、おか、しゃまに、あえる?」

「そうだよ。死ぬのはとってもいたいけどね」

「い、いたい、の、やだぁ!」


 再び泣き出した妹に、フランシスは今度こそ自覚する。

 ――ぼくの言葉で、素直に泣き出す妹がかわいい――

 避けて避けて避け続けた兄は、自らの中にある妹への愛に気が付いていなかった。“泣き顔”というきっかけで家族愛を認識したというだけのこと。

 しかし、気がついた状況が悪かった。フランシスは自分の愛情を“アビゲイルの泣き顔を愛しく思う”のだと勘違いしたのである。


「大人になって、おばあちゃんになったら、きっと死ぬのがいたくなくなるから。そうしたらお母さまに会いに行けるよ。それまでお兄さまといっしょにいよう?」


 年不相応の理性を持ったフランシスは、すぐに母との約束を思い出した。涙を拭うように目尻を優しく撫でながら、泣き続けるアビゲイルをなだめにかかる。

 兄である自分は、悲しみから妹を守らなければならないのだから。


「おに、しゃまと、いっしょ?」

「そう」

「アビー、がまんしゅる」


 相変わらず、舌足らずなしゃべり方は鼻につく。

 けれど、フランシスは“しあわせ”も叶えられるような、そんな気になり始めていた――。





「どうすれば良かったのか……」


 ルシアンは目を覆う。眼前で、ひどく楽しそうなフランシスがアビゲイルを煽っていたからだ。

 学園で出た課題の解法を聞くため父の元へ来たらしい娘が、たまたま領地運営の手伝いで書斎を使っていた息子に捕まったらしい。

 揶揄いつつも、兄は妹を答えに導いている。僅かながら悔しそうに顔を歪めたあと、アビゲイルは礼を言って退室した。


「どうなさいました、父上?」


 独り言が聞こえていたようだ。自分の使っていた書類や筆記具を片付けながら、フランシスが父に問いかけた。本当に、よく気の付く子である。


「アビゲイルをいじめるのは程々になさい」


 程々、というのならすでに出来ているのだが、ルシアンには他に的確な表現が見つからなかった。

 普段から顔に貼り付けている笑みを少しばかり寂しさに翳らせて、フランシスは父に向き直る。


「アビーももうすぐ卒業です。そうすれば、あっという間に王太子妃でしょう。もう暫しお許しください、父上」


 その声色があまりに孤独な色をしていて、ルシアンは声を失った。

 父親にとって、娘の結婚は喜ばしい以上に寂しいものだ。息子も同じ思いをしているのかと思うと、その痛みを癒せる言葉が存在するとは思えなかった。


「……良い相手を探しておく。フランシスも妻を愛せるといいな」


 ルシアンとレベッカも、結婚してから愛を育んだ口だ。レベッカの方は元からルシアンに惹かれていたようだが、そうでなくとも愛し合うことになっただろう。この公爵夫妻は幸運だった。


「父上たちのような家族になれるよう、努力はするつもりです。本日はこれで失礼しますね。おやすみなさい、父上」

「ああ、おやすみ」


 結婚という話題を避けたかったのだろうか。長男は早々に話を切り上げて、静かに下がっていった。

 本人に自覚はないようだが、フランシスは家族愛が強い。その分他者に壁を作るのかもしれないが、“夫人”として迎えた相手を大切にすることは間違いないだろう。だからこそ、気合いを入れて息子を愛してくれる相手を探さなければなるまい。


「私は、良い親をやれているのだろうか」


 虚空に向かって独りごちた。椅子に脱力した体を預け、なんとはなしに中空を見上げる。

 ――ふたりとも幸せそうだわ。ありがとう、ルシアン様――

 その耳に、天からの声が届いた気がした。


 ――ああ、レベッカ。君の元へ逝くその日まで、私はふたりを愛し抜こう――

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