王太子と結婚の約束
現実は甘くない。
アビゲイルとふたりきりの馬車を勝ち取ったラッセルだったが、蓋を開けてみれば、車内には重い沈黙が立ち込めるばかりだった。
そもそもアビゲイルは“公爵令嬢の務め”として王太子の婚約者の地位を受け入れている、とラッセルは思っている。真面目なアビゲイルは婚約者として自分と良好な関係を築こうとしているのだろう、と。
アビゲイルもまた、ラッセルは王の器たるべく婚約者である自分を丁重に扱うのだと思っていた。
互いに“理解者”として交流を深めたからこそのすれ違いである。父親たちの思惑はある意味成功していたが、別の面では大失敗していたのだ。
色恋沙汰というものは総じてそんなものなのかもしれないが。
時間はいたずらである。留まってほしい時ほど足早に去っていくものだ。
沈黙が重かろうとなんだろうと、折角ふたりきりなのだから、出来るならばこのままでいたいとラッセルもアビゲイルも思っていた。
外の景色を見るに、もう半分ほどの道程が終わってしまっただろうか。
このままではいけないと、口を開いたのはラッセルだった。
「アビゲイル……その、今回はすまなかった……」
王族が謝罪など口にするものではない。絶対王政を敷くこの国では、王は人ではない、間違いなど犯さないものである。王に連なる者が謝ることなどありえないというのが暗黙の了解だった。
「殿下……そのような……」
ラッセルの“理解者”アビゲイルは、ラッセルが“普通の子”であったことを知っている。人並みに楽しみ、喜び、人並みに間違っては悲しんでいた。
普通の子ならば気まずそうに「ごめんなさい」と言うのだろう時に、ラッセルは違う対応をしなければならない。根から優しいのだろう彼は、出会った頃から「ぼくは謝っちゃいけないんだ」と辛そうに繰り返していた。
「ほかに誰もいないのだから、気にしなくていい。……昔みたいにしてくれないか、アビゲイル」
「……はい、ラッセル様……それならば、ラッセル様も今回の件で自らを責めるのはおやめくださいませ」
アビゲイルの切実な声に、ラッセルが動きを止める。そんな風に気遣ってもらえるとは思っていなかった。
アビゲイルは公正な人間である。公衆の面前で吊し上げるような、そんな理不尽なやり方を良しとするはずがない、とラッセルは考えていた。
むろん、望んであのような事態を引き起こしたわけではないが、悪意、ないし作為がなければ許されるというものでもない。
そもそも、アビゲイルに誤解されるような状況を作った自分が不甲斐なかった。学園で話す機会くらい、いくらでも設けられたと分かっている。忙しかったのも嘘ではないが、ただ美しく成長した彼女を前にうまく話せる自信がなかっただけだ。そんな自分に嫌気がさす。
返答に窮したラッセルに、アビゲイルが言葉を重ねた。
「ラッセル様はわたくしを庇ってくださいましたわ。ザカリアス様のことも、出来うる限り穏便に対処していただいて……これ以上の方法は、わたくしでは考えられません。ですから、ラッセル様が気に病まれる必要はのうございますのよ」
ゲームの“断罪イベント”を知るアビゲイルとしては、卒業パーティーでの出来事は起こって当然のことである。
ラッセルが冤罪未遂自体を回避できずに気に病んでいることは、言葉から察することが出来た。けれど、運命の強制力とでもいうのだろうか。きっと“断罪イベント”は誰にも止められないものだったと、アビゲイルは思う。
だから、自責の念など感じてほしくはなかった。優しい優しい王太子はきっと独りで苦しんでしまうから。
「……アビゲイルが、そう言うのなら」
「はい、ラッセル様」
ラッセルがやっと口を開いた。腑に落ちてはいないようだが、アビゲイルの思いは幾分か伝わったらしい。それでどうして両想いだと気が付けないのかは神のみぞ知るところである。
ここで、また会話が途切れた。先程よりは幾分か柔らかい沈黙の帳が下りる。
外の景色は宮殿に程近いものになっていた。残りは5分ほどだろうか。
ラッセルには、ふたりきりのうちに伝えておきたいことが他にもあった。否、これは伝えなくてはいけないことだ。
「……アビゲイル」
呼びかける声は緊張に比例して小さくなってしまった。情けない、とラッセルは思う。
「はい、ラッセル様」
変わらない調子でアビゲイルが応えた。聞き取られるとは思わず、ラッセルが目を見開く。
馬の蹄や車輪が他の音を掻き消していく中、アビゲイルはあんなに小さな声を聞き漏らさなかった。
ラッセルを控えめに見つめるアビゲイルと視線がぶつかる。その表情に見えたのはおそらく、恥じらいの色。それから、少しだけ“アビゲイルと両想いなのでは”という思いが首をもたげた。
それが後押しとなって、名前を呼んだときよりも滑らかにラッセルの口を動かす。
「これだけは言っておこうと思う。僕は君以外を婚約者として迎えることは決してしない。神に誓って。……だから、二度と自分を犠牲にするようなことはしないでほしい」
最後の言葉はひどく痛切に響いた。アビゲイルの胸が締め付けられたように痛む。
この王太子は優しい。その身分に相応しくないほどに。
だから、ただ少し境遇が近いだけの、将来の仕事仲間とでも呼ぶような相手にこんなにも心を砕けてしまう。
アビゲイルが心惹かれたのもそんなところだった。妃になったら支えて差し上げなければと思っていたのに、自分が傷つけてしまうなんて……。
アビゲイルは頭を垂れる。
「ラッセル様……申し訳、ございませんでした……」
強い後悔の念に駆られていた。この記憶を持ったまま過去に戻ることが出来たならどれほど良いだろう。いっそ何も知らないままなら誰にも迷惑はかけず、こんなにも悲しませることはなかったのに。
アビゲイルの沈んだ声を聞いて、ラッセルは苦笑を浮かべた。そんな顔をさせたかったのではないが、自分のために悲しんでくれるアビゲイルに喜んでしまったのもまた事実。
「分かってもらえたならいいんだ。さあアビゲイル、顔を上げて。もう宮殿だ」
言われたとおりに顔を上げ、外を見る。アビゲイルにとっては約3年ぶりの景色が広がっていた。
すぐに馬車が止まり、少しして扉が開く。先に降りたラッセルの差し出した手を取り、歩き出した。
もうすぐふたりきりの時間が終わってしまう。
「……わたくしも、ラッセル様以外の方とは二度と婚姻を結ばないことを、神に誓いますわ」
恥ずかしさからか、伝えるつもりの言葉は小さな呟きになってしまった。聞き返されても、同じ言葉を口にする勇気が出せるかどうか。
「……そうか」
穏やかなラッセルの声に、言葉が届いていたことを知る。安堵の息がかすかに漏れた。続いて羞恥に顔が火照る。
このあと、それ以上の会話はしないまま、ラッセルとアビゲイルは光たちと合流した。
ふたりして赤い顔をしていたために、アビゲイルは光から散々からかわれる羽目にあう。
それでも、ラッセルの気持ちが自分に向いているとは考えられないアビゲイルなのだった。
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