タイトルにある「ブルージュ」とは、「北のヴェネツィア」や「水の都」などの異名を持つベルギーの古都だ。中世の面影を今もなお残すブルージュのとある土産屋で、「わたし」が絵葉書を大人買いするところからストーリーが展開される。
『Moi』——自身で書いた絵葉書が、巡り巡って思わぬところで……。
パソコンが普及した昨今だからこそ、手書きで心のこもった、そして、その人自身の言葉で綴られた手紙に対し、人は無意識に温かみを感じるのかもしれない。
たとえその字が拙くとも、そこに紡がれた言葉が短いものであっても……。
作中に紡がれる言葉のひとつひとつが、心地良く感じられる。
ブルージュの風景に思いを馳せ、コーヒーをおともに読むのもまた一興。
『今、悲しんでいる人』
『さっきまで悲しかった人』
思い悩むことがある人にこそ読んでほしい作品。
読めばきっと心が温まるに違いない。
まるで短編のアニメ映画を観ているような気持ちでした。
と書くと、詩一さんは怒りますか? 怒らないですよね? ○○分後になんとかポイントがくるので……と、いつもみたいに蘊蓄を紹介してくれますよね?
ぼくは小説を読んでいて、たまに「アニメ映画みたいな作品」に出会うことがあります。アニメかアニメじゃないか、その違いはなんやねん? というところですが、ぼくはここに明確な応えを準備しています。それは、音、です。
本作は二つのパートから成り立っています。一つは前半のベルギー編。そしてもう一つは後半の日本編です。いずれのパートも、とにかく静かなのです。音がないのです。音がないくせに「アニメ映画」ってやんやねん……と、ツッコミも激しいところでしょうが、音がないがゆえに自然の音が聞こえてくるのですよ。鳥の鳴く声。窓を開けるときの音。ベッドのシーツのかさつき。そういった音が入ってくるんです。そこまで聞こえてきたらもう、これは現実です。小説という二次元ではなく、一つの空間、一つの生活としての三次元がそこにはあります。
そして音が消されているのはなぜだろうと考えると、本作は基本的に主人公の「わたし」視点で動いているからだろうと思います。当然、別の誰かとの会話もありますよ。でもそれをギリギリまで絞っている。なるべく「わたし」の心境と感想を描くことによって物語を進めようと心がけられている。ハッキリ言いましょう。これは一人称小説の完成形です。これこそが一人称小説です。もう、その良さがたっぷりと詰めこまれています。そのために余分な音が除外され、主人公が聞いた音だけが「文章表現を纏うことなく」われわれにつたわってくる。そういうことなのだろうと思います。
音がない世界には、せつなさがあります。
音がない世界には、よろこびとかなしさが同衾しています。
ただ定時的に刻まれる世界に、読者は「限りある未来」を覚えることでしょう。ブルージュに行ったわたし。日本に帰ってきてからのわたし。ここは対比のようでいて、しっかりと繋がっています。いずれにも、名状しがたい苦しさがある。だけど。
――。
ここに、本作最後の一文が重なってくるのです。
そして、だからこそ、――、なのです。ここに入る言葉は本文に明記されていますが、みなそれぞれの読み方で捉えてみてください。わたしは、「だけど」と「だからこそ」の逆接&順接を両方使いました。人生ってそうなのだと思います。目の前にあること。未来のこと。不安というものは、喜びよりも容易くこころの中に忍びこんできます。そのときに逆接と順接で人生を捉えること。これこそが、わたしの選びたい生き方なのです。
きっかけは詩一さんの「イラストにできるような写真はありませんか?」の一言でした。
その後の展開は皆さんもご存知の通りなのですが、絵葉書の住所に心が躍ってしまったのは言うまでもなく。
たったの一言で想像力が膨らんでいく経験は、この時久しぶりに感じたものでした。
そして今見てもやっぱりこのユニークさが詩一さんなのだと思うのです。
私は「書こうよ」と提案しただけ、それをこれだけの作品に仕上げたのはやはり彼の成せる技です。
主人公は心を抉られるような辛い出来事を経験しながら、それでも日常を生きていかなくてはならず、自分で納得のできる心の落とし所を求めていたのではないかと思うのです。
その答えは……やはり自分の中にあった。
一度はとことん落ちてしまった自分自身の心。
それでも立ち上がる力を持つには、美辞麗句を削ぎ落とした、飾り気のない言葉だった。
実際そういうものなのかもしれません。
どんなに何を言われても響かなかったことも、あるひと言で心が満たされることはある。
主人公は、これからも寂しい思いをしても生きていかなければいけない。
でも彼女はきっと前を向いて歩いていくのではないでしょうか。
この物語は未来に繋がる。
それを感じさせてくれるようなお話でした。
主人公の女性が旅行先で感じた何かが、未来の本人に重なる。
今の積み重ねは未来じゃないという彼女。
でも、時々、過去からの贈り物を見つけて慈しんでも良いんじゃないだろうか。
骨董品屋という場所の景色には、いろんな人のそんな想いが詰まっている気がします。
上のひとこと紹介は最近読んだEdyさんの小説に出てくる一節を模したものです(Edyさんレビューから飛んできたので敬意を込めて)。
結局、自分を助けてくれる言葉って自分で自分にかけてやるしかないのかもしれないなぁと改めて考えさせられる。
その一方、背中を押してくれる人ってのは少しずつ身の回りにいて、親かもしれないし子かもしれないし、SNSでつながってる知らない人かもしれない。元気玉じゃないけど、誰かに少しずつ背中を押されてるという感覚を持ってもいいんでしょうね。
この物語でいえば、ホテルのフロントマンでさえもその一人。
癒やされる読後感でした。
重すぎず、軽すぎず、非常に美しい文章で綴られる少し不思議な物語です。
劇中で語られるある不思議な現象。
終盤で、おそらくほとんどの読者は「悟空ー!‼️! はやく来てくれーっ!!!!」とクリリンのように思うはずです。つまり盛り上がります。
本作のキーワードは「本物の言葉」だと思います。対して、「劣化コピーの言葉」という概念も出てきます。この二つの差はなんでしょうか。
「劣化コピーの言葉」の群に含まれるであろう、大勢が共有しやすい形になった言葉や、こうしておけば取り敢えずの格好が付く「ポーズ」であったり「慣習」なども、必要であるから存在していると思います。それらは世界を回す力で、大勢を運ぶ船。
しかしそういうものでは助けにならず、むしろ傷つく人達もいるということを、本作は丁寧に書いています。
たとえば有名な本の流行った一説の引用であっても、贈る人のことを想い、選んでたどり着いたのだとしたらそれは本物の言葉だと思います。最初はピンときていなかった名言的なものでも、信じて実践して実感できたなら、それはその人にとっての本物の言葉になると思います。
言葉は生き物。
さて、本作における本物の言葉とは一体どんなものであったのか。
長編クラスの読後感と共に、是非ご確認ください。