3 サロマ湖

 「それじゃ、しゅっぱーつ!」

 青いコンパクトカーの助手席に収まっている渚が窓を開けて、宿の主人に手を振った。

 助手席の窓に近寄った主人は、「淳一によろしくね」、と言って、頭を下げた。

 運転席に座っている健一は、不機嫌そうな顔をしてハンドルを握っている。

 健一は昨日の夜、布団に入り、天井を見つめながら、一日の出来事を振り返っていた。

 人生最後になる筈だった一日を……

 羽田空港の駐車場に愛車のBMWを停め、車に別れを告げて、稚内行きの飛行機に乗った。世田谷のマンションと預金は離婚した妻に渡してしまったので、財産と呼べるのは車くらいだったが、それも乗り捨てたので、もう何もない。

 空港から宗谷岬まではバスでやって来た。レンタカーを使うと足跡が残る。出来るだけ跡を残さないようにしたかった。財布の中の現金は、JRAの馬券購入用口座から全額引き出し、残りは十万円ほど。これで足りる筈だった。誰にも見つからずに、海の藻屑と消え、たとえ遺体が見つかっても素性が分からないように、身分を証明する物は全て処分した。もはやどこの誰でもない、人間社会を解脱した亡者になったつもりでいた。準備は完璧だった……

 本来なら、もうこの世に存在しない筈の人間が、なぜ見ず知らずの女と旅に出ているのだろうか……

 健一は自らの存在を、どのように処せば良いのか、結局答えを出せないまま朝を迎え、渚の言いなりになっている。

 死を選んだ者は無気力になると言われる。だから、周りの雰囲気に流されやすい。

 周りの雰囲気が楽しければ、一時的に死を忘れるが、一人になり、心の闇が広がれば、結局死神の手招きに応じて命を絶つ事になる。

 助手席では、渚がキラキラと輝く海に目を細め、無邪気にケラケラと笑っている。彼女が作り出すそんな雰囲気に流されてはならない。生きる希望を持てば、必ず絶望が訪れる。希望を持てば、その分絶望の谷は深くなるのだ。健一はこの場から逃れる方法を模索した。


 宗谷岬を出発して、浜頓別、枝幸、雄武など、いくつかの小さな町を通過して紋別市内に入った。健一は、かれこれ三時間近くハンドルを握り続けている。

 助手席の渚が、沿道に立てられた大きな看板を目にして声をあげた。

 「イオンに寄りましょう! おじさんの格好じゃ、どこへ行っても怪しまれちゃうから……」

 渚は悪戯っぽい笑みを浮かべて、健一を見つめた。

 健一は自分の身なりを見て、その通りだと思った。たしかに旅をするのであれば、この格好は相応しくない。しかし、いつまでも旅を続けていくつもりはない。

 『この世に俺の居場所は無いんだ……』

 声に出して言いたかったが、浮かれている渚の横顔が目に入ったので躊躇った。


 ショッピングセンターの中は生活感に満ち溢れている。

 そこに並んでいるものは、生きていく者が必要とする物ばかりで、これから死のうとする者が必要とする物は存在しない。

 健一は来てはいけない場所に、来てしまったような気分になった。

 ちっとも服を選ぼうとしない健一に、業を煮やした渚は、白いTシャツと、ネイビーのトレーナーをカゴに入れた。さらに、綿パンが陳列されているコーナーへ行くと、健一のズボンから引き抜いたベルトでサイズを合わせ、カーキ色の綿パンと、三枚セットのボクサーパンツをカゴに放り込む。

 健一は、渚の手際の良さに目を見張るばかりで、口を挟む余地さえない。

 店を出ると、渚は向きを変えて立ち止まり、ショッピングバッグを健一の胸に押し当てた。

 「早く着替えてきて! その格好だと、誘拐犯と人質みたいに見えちゃうから……」

 少し怒ったような口ぶりだが、渚の目元は緩んでいる。

 健一は衣服の入ったバッグを受け取り、トイレで着替えた。着ている物を替えただけで、随分と印象が変わる。健一は鏡に映った自分の姿を見たとき、何か間違った方向へ進んでいるような気がした。

 着替えを済ませて車に戻り、一時間ほど走らせると、左側にサロマ湖が現れた。

 渚の案内に従って、国道から脇道へ外れて、細い山道を登り始める。対向車が来たらすれ違う事が困難なほど狭い道だった。対向車が来ない事を祈り、しばらく走り続けると、道の先に駐車場が現れた。案内板にはサロマ湖展望台と書かれている。

車から降りた二人は、森の中の散策路を登りつめ、展望デッキへ足を踏み入れた。

眼下に、雄大な景観が広がる。

 「なにこれー! 真っ青だよー!」

 空の色を映し出すサロマ湖の湖面は、目に沁みるほど青く、そしてどこまでも果てしなく広がる。空と湖面とオホーツク海の青さが一体になって、息を飲むような絶景を生み出していた。

 渚は両手を広げて深呼吸をした。少しひんやりした空気が、鼻から口へと抜けていく。

 「うわぁー気持ちいいー! おじさんもやってみて!」

 健一は、面倒くさそうに小さく鼻から息を吸い、溜息を吐いた。

 「違うよ! こうやって……」

 渚が、健一の両手を広げようとすると、健一はその手を振り払った。

 渚の透き通った明るさが鬱陶しい、見ているだけで胃のあたりがムカムカしてくる。居た堪れなくなった健一は展望デッキを下り始めた。

 「おじさーん……」

 渚は慌てて後を追った。

 追いかけてきた渚に気づいた健一は、一瞬足を止め、「車で待っているから……」、と俯きながら吐き捨てると、また歩き始めた。

 渚は、しょんぼりと下を向いて健一に着いて行く。

 健一の機嫌を損ねてしまった事で、渚は表情を曇らせたが、それでも車に戻ると、それまでの明るさを取り戻し、健一を気遣うように、「お腹が空いたから、ランチにしましょう」、と笑顔を振り撒いた。

 健一は溜息をついた。見る物、聞えてくる音、周りの雰囲気、全てが煩わしい。

 健一は渚の顔を見た。渚は屈託のない笑顔で見つめ返してくる。

 心の中がざわついた。罪悪感を持っている自分の心に気付いたからだ。

 健一は渚の視線を振りきって、車を走らせた。


 二人は湖の側にある店に入った。

 広々とした店内には、海産物がずらりと陳列され、その一角にはイートインスペースが作られている。

 「とりあえず、食べよう!」

 渚は、向かいの席に座っている健一のご機嫌を取るように言った。

 展望台から下りて来た二人は、海産物直売店で食事をする事にした。

 「お腹が空いているからって、そんなに不機嫌にならないでよぉ……」

 頬っぺたを膨らませた渚は、からかう様な言い方で、健一に言葉を投げかけるが、健一は何を言われても黙ったままで、不機嫌な表情を崩さない。

 「いただきまーす!」

 渚が目を細めて齧りついた。

 白ゴマのついたバンズ、挟まれている大ぶりのホタテフライ、一口食べると、ゆらゆらと湯気が立つ。

 「アツアツで美味しいよー」

 健一は上目遣いで渚を見つめた。

 渚は小刻みなリズムで身体を動かしながら、鼻唄でも歌いだしそうな雰囲気で、にこやかに顎を動かす。

 健一はごくりと唾を飲み込んだ。

 「食べないなら、私が食べちゃうよ……」

 あっという間に自分の分を平らげた渚は、健一のために買ってきたホタテバーガーに手を伸ばし掛けた。すると、健一はその手を遮り、ぼそりと呟く。

 「これは…… 俺のだ……」

 健一は、渚を睨みつけ、包み紙を乱暴に剥ぎ取ると、ムシャムシャと食べ始めた。

 その様子を、渚は楽しそうに見つめた。

 『どんなに不機嫌だって食欲には敵わないんだ……』

 渚は心の中で囁いた。


 食事を終えた二人は、ワッカネイチャーセンターという所へやって来た。

 渚がスマホで調べた観光スポットへ、健一は黙って車を走らせる。

 渚は上機嫌だが、健一は相変わらずムスッとしていて、一切口を開かない。

 ワッカネイチャーセンターは、ワッカ原生花園を散策する際のベースとなる施設だ。ワッカ原生花園とはオホーツク海とサロマ湖を隔てる、長さ20km、約700haにも及ぶ砂州で、国内最大規模の海浜植物の一大群落地となっている。

 サロマ湖の畔に立つこの施設は、木造作りの大きな建屋で、回りは広々とした芝生に囲まれている。その先へ視線を走らせると、鮮やかな緑の雄大な原野に、オレンジやピンクの花が咲き誇り、その中を突っ切るように舗装された一本の道が通り抜けている。その道は、どこまでも続いているように見え、渚はその景色に心を躍らせた。

遠くから自転車に乗って走ってくるカップルと、その横をのんびりと歩く大きな馬車を見つめ、「サイクリング……」、と言いかけた渚は、その言葉を飲み込むと、「馬車に乗ろうよ」、と言いなおした。

 晴れ晴れとした顔つきで景色を見渡す渚を見て、健一は腹に鉛の玉を抱え込んでいるような憂鬱な気分になった。ここまで言いなりになって付き合ってきたが、明らかに間違った方向へ進んでいる……

 健一は、露骨に嫌そうな顔をして、「俺は乗らない……」、と言った。

諦めた渚は、玩具を買って貰えなかった子供の様に口をとがらせ、「つまんないの……」、と呟く。

 健一は、しょんぼりとした渚の顔を見て、心が少し痛んだが、そんな事にいちいち心を動かされている場合ではない、と自分を戒め、車に向かってそそくさと歩き出した。

 結局二人は何もせずに、この場を離れる事になった。

 駐車場に向かって歩き始めた渚は、健一に纏わりつくように寄り添う。

 「それじゃ、宿に行きましょう! おじさん、ずっと運転だったから疲れちゃったんだよね」

 健一の後ろに回りこんだ渚が、両肩を揉もうとすると、健一はその手を乱暴に振り払う。

 「やめてくれ……」

 健一の声は怒気を含んでいた。

 渚は、驚いて後ずさりした。

 痛ましげな顔つきをする渚を見て、健一は声を潜めた。

 「俺は、もうじき死ぬんだ。だから、余計なお節介はやめてくれ……」

 背を向けた健一は、肩を落として足を引きずるように歩く。

 足元を見つめていた渚は、遠ざかる健一の背中に視線を移した。心の中で沸騰した熱いものが握った拳を震わせる。健一の言葉が心の奥に潜めていた何かに触れたのだ。

 渚は、大声で叫んだ。

 「私の前で、死ぬなんて言わないで!」

 その声は、離れた所にいる観光客に届きそうなほど、大きかった。

 健一は慌てた。

 渚はさらに大きな声で叫ぶ。

 「死ぬなんて言わないで!」

 それは怒りが爆発した叫び声だった。

 周囲の視線が降り注ぐ。

 健一は渚の口を塞ごうと必死になった。

 「分かった、分かったよ…… もう言わないから、大きな声を出さないでくれ」

 苦悶の顔を浮かべ、必死に宥めようとした。

 僅かな時間、健一の顔に視線を送った渚は、何事も無かったかのように平静を装うと、さっさと車へ戻って行く。

 健一も渚の後を追うように車に戻った。

 運転席に座った健一はハンドルに突っ伏し、深い溜息をついた。

 助手席に座っている渚は、口角を上げて笑顔を作るが、目は笑っていない。

 「どうして君は、俺に構うんだ、一人で旅をすれば良いじゃないか……」

 健一は渚を刺激しないように、穏やかに語りかけた。

 渚はフロントガラスの向うの景色へ視線を飛ばし、澄ました顔をしている。

 「とりあえず宿へ行きましょう、話はあとでするから……」

 何かを含んだような、それでいて抑揚のない口ぶり、渚はふわっと口元を緩めた。


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